モスクワに留学していたら戦争が始まった話-3
↑前回 ロシア渡航前夜(1月24日)から2月7日までの記録
古都へ
2月11日、私はロシア第二の街・サンクトペテルブルクに降り立った。前々からずっとあこがれていた古都に、ようやっと足を踏み入れた瞬間だった。
初のペテルブルクは「赤い矢」号に乗ると決めていた。ロシアの鉄道といえばシベリア鉄道、という印象は根強いが、彼の国の鉄道にとってモスクワとペテルブルクを結ぶ寝台列車はやはり看板である。特徴的な赤い塗装に加えて特別感あふれる内装が施され、乗務している車掌の物腰も他列車と比べて心なしか柔らかに感じられる。
オスタンキノタワーを眺め、ぼんやりと眠りにつき、目が覚めると例のごとく草原の中にいる。朝食を食べてまたぼんやりとしているとあっという間にペテルブルクに着いてしまった。運行時間としてはきっかり8時間、他のあらゆるロシアの長距離列車と比べるまでもなく、ゆったりと過ごすには随分と物足りない乗車時間である。食堂車も連結されているが、23時55分発となればどうも使いづらい印象だ。
しかし、何よりも「2つの都を結ぶ看板列車」というロマンこそがこの列車のウリなのだ。物足りないくらいがちょうどいいのかもしれない。
列車がペテルブルクに到着すると大音量の音楽に出迎えられる。これはグリエール作曲の『偉大なる都市への賛歌«Гимн великому городу»』で、元々はペテルブルクを舞台にしたバレエ『青銅の騎士』のために作られた曲だ。現在はペテルブルクの市歌にも採用されている。
ただ、この演出がたまらなく良いのだ。後にも先にも、これほどまでに盛大に迎えてくれる都市に出会えることはないだろうと感じるほどの素晴らしさである。感動のあまり目頭が熱くなるのを感じながら、駅舎を通り街への出口を目指す。
街に出てまず飛び込んでくるのは「英雄都市・レニングラード」の文字だ。この都市がかつてソ連建国の父レーニンの名前を冠していたということはあまりにも有名だが、実は未だに州の名前はレニングラードとなっている。しかしながら街を歩けば歩くほど帝政期の足跡を数多く感じられ、やはり「ぺテルブルク(ペトログラード)」という名こそがしっくりくるということがここで得た最も大きな発見であった。
ペテルブルクでは日本人留学生の友人と待ち合わせをしていたが、集合は昼なのでまだまだ時間がある。早朝ということもあって特段の行くあてはなかったが、まずはネフスキー大通りを歩きながら定番どころを探っていくこととした。
前々からその評判は耳にしていたが、実際に歩いてみるとやはり優美で輝かしい街だ。ヨーロッパ的な街並みとロシア的な空気感が程よく融合し、独特の魅力的な空気感を醸成している。都市としても全体的に生活施設がコンパクトにまとまっており、なるほどこれは凄まじい魅力を持つ街だと直感的に思ったものだ。一方でこの暗く凍てつく冬空の下、海風が強く吹き付ける街は、ドストエフスキーの世界観に象徴されるような陰鬱な空気もまた同時に帯びている。しかしこれはほんの一瞬だけ滞在するならご愛嬌なものであり、むしろ旅の記憶にほどよいスパイスとなってくれただろう。
昼は日本人留学生の友人とジョージア料理を食べた。ロシアにとってのジョージア料理は日本にとっての中華やイタリアンのようにカジュアルな存在で、大抵どれもはずれが無く舌に合うのが多いのも嬉しい。
今思えば、レストランでは友人と当時の不穏な状況の話を全くしなかった。その時は互いにロシアに来て間もなかったため、到着直後の苦労話をひとしきり交換し合った。今になって思えばなんとかけがえのない瞬間だったのだろうか。
しかし、残念ながらそんな平穏な話題がいつまでも続いたわけではなかった。街を歩いていて大量の軍人たちに出くわすと、やはり否応にも連想してしまうのだ。誤解のないように言っておくが、おそらくこれは単に私たちが歩いていた場所が陸軍砲兵学校の近くであったからで、前章のチェレポヴェツ駅で見たような極端な動員輸送ではないと考えている。そうわかっていても頭に浮かぶのは、国境に向かって送られていく兵士の姿と国境で起きていると言われるきなくさい状態のことだった。
日常とは一体何なのか。この街で起きていること、1000キロ近く南で起きていること、そして遠く離れた私の母国で騒ぎ立てられていること。すべてがちぐはぐであり、本来わかるはずのない未来への展望が尚更混濁していくような心地だった。
ネヴァ川の橋の上で極寒の強風に晒されながらはしゃぐ私と友人、その横を闊歩する軍人たち。なんら咎も歪なこともないように見える日常は、その瞬間はたしかに続いていた。
ウクライナ・レベル4
2022年はやけに人の引越しの手伝いをすることが多かった。そんな年もまたいつか訪れるだろうが、おそらくペテルブルクで友人の引越しのために駆け回る日はおそらくもう来ないだろう。
実はその日ペテルブルクに来た主目的は、もう1人の日本人留学生の友人がめでたくも引越しをするということでその手伝いのためであった。無論、ペテルブルクの地を踏むことは以前からの憧れであり、人助けという善良な理由付けができるなら尚更というタイミングでやってきた次第だ。
欧米全体的に言えることかもしれないが、ロシア都市部・主要郊外には規模が巨大なスーパーマーケットがしばしば存在している。日用品から小さな家具、様々な食材まで何でも揃うスーパーはもはや一種のテーマパークのようであり、それでいて日本のIK〇Aやコ〇トコのように巨大すぎて疲れるといったこともない、程よくカジュアルな素晴らしい空間である。
当然これが引越しの際にも大活躍で、これ幸いと友人の新居の近所にあったスーパーでひとしきり家財道具と食材を買い揃えていた。フィンランド資本のスーパーだったため、ムーミングッズが沢山売られていたのもまた楽しかった。
そんな愉快な買い物が終わり新居の団地に帰るタクシーの中、大使館から一通のメールが届いていたことに気が付く。添付されていた安全情報のリンクを開いた瞬間、思わず素っ頓狂な声を上げてしまったことをいまでもよく覚えている。以下、全文だ。
青天の霹靂とまでは言わないが、当時の自分にとっては過去に類を見ないほどの衝撃的なニュースだった。もっとも残念なことにこの先、幾度となくこの衝撃度を上回る知らせを何度も目にすることになるのだが。
その時まず失礼ながら驚いたのは、実際の侵略行為が起きていないのにもかかわらず日本の外務省がここまで踏み込んだ警戒情報を発出したことだ。今でこそ「当たり前だろう」というバイアスがかかっているかもしれないが、当時はまだ専門家の間でも意見が割れていた時期である。いくら状況証拠が揃っていても、確定的な未来のことはやはり(進行を企図している張本人たち以外には)誰にも分からない。
それにも関わらず、あの日本の外務省がここまでの措置を取ったということは、やはりただならぬ事態を感じさせるものだった。
そのような状況であればやはり、ただ平和ボケしているだけではなく「最悪の事態」を考えることはあった。本当に戦争が始まって、帰国することになったらどうするだろうか。経済制裁やウクライナのパルチザン的な行動がモスクワでも起こると生活や生命に直結する大問題になる。ただ、「起きるかどうかわからないこと」に対してその決断を思考することは実際は非常に難しいのだ。
友人の新居アパートで荷物をあらかた片づけた後、思い切って「もし戦争が起きたらどうするか」と問いかけてみた。文字だけだと簡単なことに思えるかもしれないが、当時のロシアの空気感では荒唐無稽に近いことである。なおさら私より半年先にロシアに来ていた友人に、そんな縁起でもないことを聞くのは実際かなり抵抗感があった。チャレポヴェツで軍用列車を目にして「何かは起きる」と確信してもなおである。
友人は素直に「本当にそんなことになるかなあ」と答えてくれた。身も蓋もないかもしれないが、しばらく話し合って結局「とりあえずロシアの銀行口座に金を入れておけば、なんとかなるでしょう」という当たり障りのない結論に落ち着いた。
これだけ見れば「なんという平和ボケなのか」と思われるかもしれないし、正直なところ私も書きながら一瞬そう思ってしまった。だが、「平和ボケ」というのは他人事だからこそ言えるのである。「自分がいる国が戦争を始めてしまったので帰国しました」という短文に込められているのは単なる当然の行動ではない。
実際に自分が生活している日常、そしてメリットが全く思いつかない侵略準備行為、それらを総合的に勘案すれば「そんなことが本当に起きるのか、いや起きるかもしれないけど、ありえるのか?」という疑念が勝つのはやむを得ないことだ。なおさら一生に一度できるかも分からない留学生活が懸かっている手前、それを中断して帰国するということは万が一にも考えたくないことで、「留学中止」の4文字にはとてつもなく重たい判断の苦しみが溢れんばかりに込められているのだ。
「演習か、侵攻か」という断言できない先行きの中で徐々に平和の外堀を埋められていく情勢のニュースと、ロシアで流れている日常的な街の光景。チェレポヴェツ駅での一件は両者の乖離の入口であり、ウクライナからの退避勧告発出はその乖離が最大となった時かもしれない。
そう、この先入ってくることはより開戦を疑うに値するだけの知らせである。根底では理解しつつあっても表面的には信じたくない、そんな残酷な状況が続くくことになる。否が応でも乖離を埋めていかざるを得ない、そんな歪な日々がこの時始まったのだと思う。
↓次回 2月21日(開戦3日前)までの記録
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