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17歳で死ぬと思ってた──人生のゴールの話

「1999年7の月に人類が滅亡する」
ノストラダムスの大予言である。
一世を風靡したこの大予言を、小学校1年か2年の頃に図書館のマンガで知り、私はその後の小学生〜青春時代を過ごした。

おそらく当時、この「恐怖の大王が降ってくる」という大予言を心から信じていたのは私だけではない。同じ世代の子どもたちの多くが、自分は何歳まで生きられるのだろうと指折り数えた経験があるに違いない。
「人類が滅亡する? そっかあ、やだなあ」と思いながらも、小学生くらいの子どもにとっては永遠のような未来に起こる出来事であり、現実感はあまりなかった。
ただ、そういうものだと思っていた。

7月生まれの私は、世界が滅亡するのが7の月の何日なのかは気になったが。
それによって、17歳で死ぬか18歳まで生きられるかが決まるのだ。

それにしても、ずっとずっと先の未来である17歳で死ぬことは、そんなに悪いことにも思わなかった。マンガやアニメのヒロインたちは12〜13歳くらいで既に素敵なレディに見えたし、素敵なレディのうちに人生が終わるのもまたヒロインっぽい。結婚は16歳ですれば大丈夫だし、そもそも20歳以降の人生なんて先のことすぎて想像できない。

そのせいで、「17〜8歳くらいに私の人生のゴールがある」とずっと思って生きていた。
一人っ子で内向的な部類に入る私は、家族と大予言の話をするでもなく、恐怖の大王ってなんだろう、隕石かな、核戦争かもしれない、と想像だけを膨らませて過ごした。信頼できる大人にその話をして「滅亡しないから心配するな」と窘められるような機会には恵まれなかった。

そして、ご存知の通り1999年の7の月に空から降ってくるはずだった恐怖の大王はうんともすんとも言わなかったし、16歳でするはずだった結婚もしなかった私は、至極普通に高校3年生になり、大学受験を控える普通の受験生になっていた。

きっと本来「滅亡しなかった! 死なない! やった!」と思うはずである。
しかし特に嬉しくもなかった。
7の月は静かに通り過ぎ、人生のゴールポストがずれた。

子どもの頃から半信半疑だった私の18歳以降の人生が始まり、突如ずっしりと現実味を増した「受験」の二文字が目の前に迫る。これを乗り越えたらゴールがあるだろうか。

映画『レオン』で、マチルダがレオンに「大人になっても人生は辛い?」と訊ねるシーンがある。レオンは答える。「辛いさ」。

受験のストレスか、ゴールポストがずれた焦りか分からないけれど、その頃の私は、日々は楽しくても人生が辛かった。レオンの台詞が心に引っ掛かったまま消えない。大人になっても辛いの? まさか。それは、ずっと得体の知れない何かに追われているような辛さだった。いつ終わるんだろう、いつ楽になるんだろうという思いに囚われていた。

きっと、受験に合格して大学生になったら、そこにゴールがある。
きっと、大学を卒業して就職したら……
きっと、結婚したら……

結局、大学生になっても、仕事を始めても、結婚しても、ゴールは無かった。
ずっと謎の焦燥感に追われ続けて、どこかも分からない目的地にたどり着かなければならない気がして生きていた。

結婚しても謎の焦燥感が消えないことに、私はかなり愕然とした。このあとの人生の節目といったら「子どもを産む」か「死ぬ」くらいしかないじゃないか。子どもができるかどうかは体質的に微妙なところだと思っていたので、この先の人生の目的地として確実なのはもはや「死ぬこと」のみである。

そこまできてようやく、「死なないと人生は終わらない」ということがハラオチした。当たり前すぎてびっくりである。
「死ぬ」以外のゴールがどこかにあるはずだと思っていて、自分で自分の人生の舵を取るのではなく、漫然とどこかからやってくる「終わり」を待っていたのかもしれない。謎の焦燥感は、自分の人生を生きていないことに起因していたのかもしれない。

それは、さすがにノストラダムスの大予言が外れたせいでは無く、私の家庭環境による心理的な有り様や、思春期の心の何かしらだと思うけれど。

その後なんやかんやがあって結婚を解消し、一人暮らしを始めたときに自分の人生について思ったことがある。
「どうせ17歳で死ぬと思っていたんだから、これからは、おまけの人生だと思って好きに生きよう」。

それから数年。
気がつけば、謎の焦燥感に追われることは、今はもうない。




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