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弱さと美しさ

弱さって美しさじゃないか。そう思うようになった本を紹介する。文化の根源性とデザインという視点から語られている、決して押し付けがましい類の本じゃないからこそ自分にはスッと入ってきた。

日本文化の根源性にふれるものと今日文化との対比について、インテリアデザイナーの内田繁氏が世界各地で行った講演をまとめた『普通のデザイン』。根源性とは、今日の社会生活に埋没しているように見えて、しばしば立ち現れてくる民族文化の固有の記憶としてすりこまれたものだと述べられている。その前編は以下の記事にある。

第3章で取り上げられている「弱さのデザイン」は、日本の文化の根源的性格として捉えられているが、同時に、地域・民族・生活の違いを超えて、共通して感じられる性格でもあるという。以下、第3章のメモとなる。

「弱さ」を克服しようとしてきた20世紀

内田によると、20世紀は「弱さ」を克服し、強さに向かった社会であった。その結果生み出されたのが、構築的で規範的、固定的で自由度の少ない状況である。資本主義社会の経済優先主義に取り込まれ、合理主義的効率化を通じ、企業利益と強固に結びついたものとなった。

資本主義は、私的利潤の自由かつ無限な追求であり、企業の利益を優先すること自体を社会の常識とした。例えばフォードは、科学技術を背景とした「力、速度、標準化、大量生産、定量化、組織化、制度化、画一化、規則正しさ、制御」などを理念とし、弱さを含んだ人間そのものからは、かけ離れていると指摘する。もとより人間は、うつろいやすく気まぐれで傷つきやすくて脆い。ゆえに、「強さ」を目指してきた近代の合理性とは整合性がとれないというのだ。

弱さの多様さ

一方で、弱さは、強さと対比的なものではないことにも注意したい。「繊細で、一見壊れやすいもの」「小さくて細やかなもの」「柔らかくて不定形なもの」には、大きくて硬くて重いものには見られない、かけがえのないものがある。また、見えない何かを想い、静かにたたずむ描写には、人の気持ちにやさしさと静けさ、危うさと切なさをもたらす。あくまでこれらは、強さと対比される問題ではなく、弱さそれ自身が持つ特性である。

「弱さ」の多様性について、内田は以下のように説明する。

社会的な弱さ……現代社会固有の思考によって作られた規範は、そこからはみ出たものを切り捨ててしまう。そのためになかったことにされてしまうものの弱さ。
身体的な弱さ……健常な身体を持たない弱さ。一方、それゆえに特徴的な才能を発揮する場合もあり、弱さゆえに知覚・感覚を発達させることがある。
社会的に認知されないことの弱さ……ある文化の価値観や行動規範がほかの文化圏では排除されるようなケース。
理解の外に置かれる弱さ……記録されないもの、不定形なもの、変化するもの、消えてしまうようなもの、あいまいなもの、不安定なものなど。計測できないものとして理解の外に置かれてしまう。

こうした弱さを、人生の無意味さや不幸の根源とするか、それゆえに幸福の根底ととらえるかによって、「弱さ」をめぐる議論は分かれる。

弱さが結びつく感覚

やさしさと憂い、寂しさとわびしさ、はかなさとうつろいやすさなどを感じる心は「弱さ」という感覚世界と深くかかわっている。「日常の生活空間のある瞬間が想起させる風景」「なつかしい音楽によって眠っていた感情が揺り起こされるような時間」「トワイライトの時間に宿る昼と夜との境界」「朽ち果てる寸前の廃屋」「古くさび付いた看板」……。けっしてな傲慢な心や攻撃的で凶暴な心から生まれるものではないだろう。


こう考えると、弱さは、合理的でないもの、目に見えないもの、手に触れられないもの、あいまいなもの、不定形なものなど、近代合理主義の枠から外れるものということになり、近代は、それらの抹殺によって「強さ」を実現した。ただ、その内実には様々なものが含まれている。

弱さという感覚世界を生み出す状況や状態

自然性

生きることは、人間の制御できない宇宙の秩序と自然のプログラムの作用の中で生きることである。しかし近代の成功によって人間は、自然に替わる新たな技術を手に入れたと錯覚し、自然の厳しさをも科学技術によってコントロールできると考えられるようになった。しかし、私たちにとってもっとも身近な自然である人体について考えてみればすぐに了解できるように、自然の秩序は人間の制御を超えている。

日本の文化は自然を観察し、多くを学んできた。「森林におおわれた風土の民」は自然との共生を選択し、自然との同化・合体を望んだ。それは自然の豊かな恵みも、過酷な自然の厳しさも、自然の美しさも同時に引き受けながら、やがて「無常観」という思想にたどり着く。無常観とは、この世に存在する一切のものはつねに生滅・変化し、常住、つまり永遠に存在することはないとする考え方。そうした人生のはかなさ、もののあはれを説く思想は「無常美観」に転化し、「わび」の思想を生み出す。それは、はかなさ、わびしさ、あはれという感覚を、美意識にまで高めることによって、逆転させたものである。
「わび」とは、おごりとは対極にある、すべてに対してわびる、文字通りお詫びする心である。寂しさ、わびしさ、心細さなど人間の心の弱さを知り、それらを幽玄、閑寂な美へと昇華させたものである。自然を人生の中心に据えたことにより生まれた美意識である。

可変性

固定したもの、永遠なるものなど何一つないという無常観にもとづく「変化の相」(変化こそ永遠である)の思想を生み出した。一方で近代は、ものは変化しないことを理想とした。「ウツ」なるもの、ウツなる空間に時間(季節・儀式)をとり入れ、実態をつくるという特徴(前編で紹介した)もここで語ることができる。ウツなる状況に、時間、自然、心などがウツロヒ、変遷することによって、「ウツツ」(=現)すなわち「現実」が生まれる。つまり日本では、現実は空なるものから生まれるとされる。現実はつねに変化を前提としているのである。

瞬間性

固定したものなど何一つないとする思想は、「いま」という瞬間を際立たせる。過去や未来とかかわりを持たない「いま」という瞬間、それらの連続した流れのなかに世界があると考えるのである。そこから「中今(なかいま)」や「而今(じこん)」といった思想が生み出される。中今とは、過去と未来との真ん中、而今は、いまを生きるということである。
今を生きるということは実は非常に難しいことである。茶の湯の世界ではよく「一期一会」と言われることにも通じる。


境界性あるいは周縁性

複数の状況の境界にあって両者の影響を受けながら、いずれにも帰属していない状態が生み出されることがある。日本文化においては、その中間領域を「空白」ととらえ、無化した領域、何かと何かをつなぐためだけの領域としていた。
たとえば「内と外の境界」は縁側、軒下である。「未知と既知」との境界のメタファーには、橋、柱、椅子などがある。また、露地、参道などは「聖と俗」との境界をあらわす。さらにトワイライトは、昼と夜の境界で、昼の強さ、夜の強さの間にあって、実に不安定な状況だ。日本ではこの時間を「たそがれ」(誰そ彼)や「かわたれ」(彼は誰)と呼び、妖怪や幽霊が出る時刻とするが、一般には「変性意識状態」になる時間である。このような境界や周縁には、AでもBでもないもう一つの世界が浮かび上がる。日本の多くのデザインは、ここにこそかかわっていた。


フラグメントあるいは断片性

「断片」から派生するイメージは、新たな想像世界を生み出している。断片性は、単なる部分ではなく、部分と全体とが見えない世界でかかわっていることをあらわす。
近代は全体をまず考え、部分をそれにあてはめてきた。それをフランスの哲学者リオタールは「大きな物語」と呼んだが、今日重要なのは断片、部分など、小さな世界や身近なテーマ、「小さな物語」から出発することである。

装飾性

近代において、装飾ほど価値の下落をはかられたものはない。オーストリーの建築家アドルフ・ロースによる「装飾は罪である」以降、近代デザインは装飾とは無縁であろうとしてきた。純粋装飾とは、一切の機能的な価値から離れ、人間の内面に作用して、見えない世界と触れ合うことを可能にするものである。たとえば縄文の装飾は、カミとかかわるための呪術的なものだったのではないか。また、琳派などの装飾は、物体の重さを開放しているようにも感じられる。


身体性

本来、人間の身体は、多くの可能性を秘めている。今日のユニバーサルデザインは、誰でもどこでも使えるものをよしとしているが、誰でもどこでも使えるようなものは、ものと人間との交流を薄くする。使うのが難しいものでも、ほかに何かの価値があるならば人は使いこなす。例えば、ガラスは落とすと割れるからこそていねいに使い、そして人はものに愛着を感じることになる。自転車は練習しなければ乗れないが、それを達成した時の喜びは大きい。こうした経験こそ、人とものとの触れ合いになる。
また、ものはどこでも使えるわけではない。ものには意味がある。場所や時間はそれぞれに固有のもので、人がその場所、時間に求めるものは、それぞれ異なっているはずである。


記憶性

人には記憶があり、その記憶には「故郷」がある。どこでも使えるということは、人間の記憶、故郷を捨てるということである。
記憶には「個人的記憶」と「集団的記憶」、そして「前文化的記憶」とがある。個人的記憶は、生活を通して体験したさまざまな事象からの何らかの影響をとどめたもの。集団的記憶は、文化的記憶、つまり歴史や伝統など特定の民族に共通する固有の記憶である。これは、人々がともに生きるきっかけとなるものである。そして、私たちには前文化的記憶がある。言語の発生に先立つ記憶である。これが人間の根源的なイメージ、そしてシンボルをつくり出した。古代の人が見た太陽、海、そして山、さらに水、光、風など、人類が共通して意識の深層にもっている記憶である。
私たちが見るものは、物質世界においてさえ、見えない何かを含んでいると、ローレンス・ブレアは言う。ものを見ることは、意味を見ていることだともいう。つまり、自身が知覚できない意味は見えないのである。その知覚をつくりだしているものの一つが記憶だといえる。地図をさかさまに見ると、視覚と近くの像が一体化するまでかなりの時間を必要とする。近代は、固有の記憶をあいまいなものとして無視してきたが、こうしたものを感じる心は、弱さと触れ合う心でもある。

日常性

近代合理主義の秩序・規範に侵された日常性は、どこか変容している。人間は、さまざまな時間の中に生きている。人間の生活空間は、「日常的時間」「脱日常的時間」「超日常的時間」に分けることができる。文化人類学では、日常と非日常という2つに分けているが、今日では、この3つの分け方が適当だという。
「日常的時間」は、私たちがもっとも多くを費やしている時間である。まさに朝起きてから寝るまでの生活時間である。対して、「脱日常的時間」とは、日常を離れた気分を解放する時間である。遊びの時間ともいえる。
今日、この日常性と脱日常性との境界が乱れている。近代以降、労働は過酷なものだ、日常は退屈だ、という感覚が植え付けられてきた。それは、労働に対する達成感がみいだせない工業社会の特徴でもある。したがって、それらを解消するために多くの遊び=娯楽を生み出してきた。この遊びがひとり歩きし、今日の脱日常をつくり出している。しかし、日常を退屈とみなすと、脱日常性に目を奪われ、日常性の真の深さの理解を妨げる。
ちなみに、「超日常的時間」は、この地球上で起きている出来事の向こうにある超越した世界とかかわる時間である。たとえば、祈り、儀礼、カミとかかわる時間である。
人間は、こうした様々な時間を生きている。真の日常性を回復するには、固定観念を払しょくしなければならない。

弱さが感じられるデザイン表現

微細性

20世紀は、巨大を目指した世紀だといえる。大きなものによる被害のひとつに都市インフラの集中がある。阪神淡路大震災がその例として思い出されよう。「小さいもの」「細いもの」「薄いもの」「軽いもの」には、大きいもの、重いもの、厚いものにはない何かがある。人間の身体をスケールとした、まさに身近なものについて考えてみる必要がある。また、これらには大きくて重いもののような圧迫感はない。むしろ、細く、薄く、軽いというあやうさが人の心の隙間に作用し、愛らしさといとしさの感覚をつくりだす。微細性は、美の要素なのである。
この微細・繊細な感覚こそ、今日もっとも失われてしまったものだ。強さのなかに生きることは、わずかな変化、人の心の動きなどを感じる目を失わせてしまう。しかし、こうしたボキャブラリーのなかに、強さにはない美が潜んでいる。

可変性あるいは変化するもの

日本の文化は、変化こそ永遠であるという理想を持っていたが、近代はすべてを固定化してしまった。もちろん「動くもの」や「消えるもの」にも、人はある種のはかなさを感じていた。

不明瞭性

「ぼけたもの」「霞んだもの」「揺らいだもの」などは、近代が最も嫌ったものである。近代は視覚の時代だったといえる。しかし、ローレンス・ブレアによれば、「見る」ということは「視る」「観る」「看る」でもあるという。そこには、心が深くかかわる。さらに、「見る」ことは、視察、観察、洞察、考察へと展開していく。人は不明瞭性をも含んで見ているのである。この世でゆらいでいないものなど、何一つとしてない。こうしたものたちがもっているあいまいさと不安定さが、人の心にある何かを刺激している。

非固定性

たとえば「柔らかいもの」「湿ったもの」「不定形なもの」「ゆらいだもの」……自然のつくりだすものは、すべてこうした特性を持っている。「故郷を失ったデザイン」という言い方があるは、人間の故郷とは、自然であり、宇宙であり、また地域であり、民族である。
デザインは、記憶を媒介として、存在しないもの、見えないものを存在させる行為である。その記憶には、個人的記憶、文化的記憶(集団的記憶)、前文化的記憶があり、こうしたものがデザインをつくっている。デザインは国境を越えた普遍性を指向するが、どうしても国境を持たざるを得ない。知・情・意は真空状態からは生み出せないのである。しかし、近代がつくり出したのは、およそ故郷を持たない乾いたものや硬いものばかりであった。しかし人は非固定的なもののうちにこそ、故郷を見出すのである。

有機性

有機性は、自然現象、水。風、火、土、木などの性質を利用したもの。不定形なものは弱い心を持つ人間にとって、やさしさと潤いを与えてくれる。弱さは、美の根源をなすものであり、そうした美は、人の心に深い影響を与える。人は弱さを抱えて生きている。寂しさ、わびしさ、はかなさ、心細さ……それらがあるからこそ、人は愛し、慈しむのである。そうした心のありようを美に転化したのが日本の文化であった。一切のものは生滅、変化する、この世につねなるものは何一つないとする「無常観」が生まれたのは中世であった。それを「無常美観」、わび、さび、幽玄の閑寂な美へと転換したのが日本文化である。


「弱さ」をめぐる考察から浮かび上がらせたのは、強いもの、確かなものの対極にある「微細な感覚」。薄弱なもの、断片的なもの、うつろいやすさ、はかなさ、曖昧性、不完全性などが生み出す感覚世界は、とりもなおさず日本建築とともにあったヴィジョンでもある。非構築的なもの、もろいもの、傷つきやすいものなどに宿る微細な感覚は、その微細さゆえに、構築的で強固なものにはない振動を感じさせる。

弱さを秩序づけるもの、認識こそ、フラジャイルなものに内在する強さだといえる。物理的な存在は力によって排除できる。しかし認識はそう簡単に消し去ることはできない。人の心に深く根差した感覚であるがゆえに、消し去ることが困難である。
弱さと結びつく感覚は、風、音、光など自然の波動に敏感である。静かに坐ることは、そうした微妙に移り変わる何ものかを楽しむこと。このような感覚を支える建築は、決して強固で構築的なものではなかった。そして日本のデザインは、こうした微細な感覚を下敷として成立した。
フラジャイルな空間から生み出された「感覚の波動」はまた、人間の複雑な感情、心の発見をもたらした。それは決して強さを誇り顕示するものではなく、人間の深い想い、はかなさ、寂しさ、わびしさ、もろさ、うつろいやすさなど、「無常」なるものに対応するものである。人生を「仮の宿」とし質素こそ理想とした隠者の庵も「草庵」であって、空なる場であった。また「茶の湯」が、人の生き方を問い、人と人との関係、人の共同体とのかかわり、人と自然との関係を相対化しうる「茶室」という空間をつくり出したのは、茶室のかたちこそが茶の湯のヴィジョンや心のありようを視覚的に明らかにするものだからに他ならない。

こうした日本の空間の特殊性は、認識的で非固定的であるといえる。このような文化は、今日のデザインにも生きていると同時に、日本の現代デザインを特徴づけている。

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