短編小説:五月の雨
「五月雨って、五月の季語ではないらしいですよ」
ぽつりぽつりと小雨が降り始めた窓の外を見て、お嬢さんはつぶやいた。
「へえ、五月の雨って書くのに」
「五月っていうのは旧暦、今でいう六月くらい。梅雨の時期の雨のことを指すそうです」
「よくご存じで」
どうしてお嬢さんが急にそんな話を始めたのかわからなかった俺は、とりあえず相槌を打って自分の仕事に戻ろうとした。しかし、そんな俺を止めるようにお嬢さんは話し続ける。
「まだみんな傘をさしていないわ」
「降り始めたばかりだからでしょう」
「確かに、傘を持っていない人もいるわね」
「そうでしょうね」
会話を止めて作業に戻りたい。そんな俺に気付いているのかいないのか、お嬢さんは窓の外に目を向けたまま尋ねた。
「外は寒いのかしら。窓を開けたいわ」
「いけません、身体が冷えたらどうするんですか」
「わかっています。でも、雨に濡れるってどんな感じなのでしょう」
「…そんなに良いもんじゃないですよ」
お嬢さんは窓から下の道路を眺めたまま、何か考え込むように黙っている。今だ、と思って俺は作業を再開した。
俺はピアノの調律師だ。年に数回、このお屋敷のお嬢さんの部屋にあるピアノの調律に訪れている。ピアノの音を出しながら作業するのでお嬢さんにはできるだけ静かにしていてほしいのだが、お嬢さんはよくしゃべるので困ったものだ。
でも、仕方ないのかもしれない。
ただの調律師である俺はそれほど詳しくは知らないが、どうやらお嬢さんは病弱で、長いことこのお屋敷から出ていないらしい。おそらく中学生か高校生くらい、同世代の子たちは楽しく遊んでいる時期だ。お嬢さんにとって、ときどきやって来る俺はちょうど良い話し相手なのだろう。
「ねえねえ、見て!」
お嬢さんの弾んだ声で、俺は作業を中断した。お嬢さんの元気な声が微笑ましい気持ちと、仕事をさせてくれ、とうんざりする気持ちと、混ざり合った感情のままお嬢さんの指さす方を見る。お嬢さんは、窓から見える道路を指していた。
「…何か?」
「みんなが傘をさしはじめたんです」
「…そうですか」
「あ、そんなことか、って思ったでしょう」
ご名答。そんなことか、と思ってしまった。お嬢さんは青白い頬を少し膨らませる。
「あなたは傘をさす側の人だから、わからないのね」
「え?」
「地面に立って、傘をさして歩いているからわからないんでしょう」
お人形のように綺麗な二重の目を細めて、お嬢さんは傘をさし歩く人々を眺めている。
「雨が降り始めて、みんなが傘をさすと、お花が咲くんです」
「お花が咲く?」
「さっきまで人の頭しか見えなかったのに、いろんな色の傘が開いて。まるで、お花が咲いたみたいに」
「…ああ」
なるほど。そう言われてみれば。色とりどりの傘が動いている様子は、上から見てみると確かに面白い。赤や黄色、黒、透明、無地、柄物、いろいろな傘がゆらゆらと揺れながら流れていく。
「開いている傘も素敵だけど、傘が開く瞬間はもっと素敵ですよ。ぱっと、お花が開くの。その瞬間は見逃すことも多いけれど」
「そうですか」
「ときどきね、びしょ濡れのまま走っていく人もいるんです。風邪をひかないと良いんですけど」
お嬢さんが言ったそばから、たくさんの花をかきわけるようにカバンを頭にのせて走っていく人が見えた。気の毒に、傘を持っていなかったんだろう。俺もお嬢さんと一緒にその人が風邪をひかないことを祈った。
「もっと遠くまで見てみたいなあ」
傘を持たない人が見えなくなると、お嬢さんはため息交じりにつぶやいた。
「私、この窓から見える範囲しかわからないもの。もしも私に羽があって空が飛べたら、あの人を追いかけて、ちゃんと目的地に着いたかどうか確かめられるのに」
大人びているお嬢さんだが、ときどきこういう子供らしいことを言う。可愛いといえば可愛いのだが、こんな時のお嬢さんは決まってどこか寂しそうな顔をするので、それはあまり好きではなかった。
「…羽があるんなら、傘でも届けてやってくださいな」
冗談めかして言うと、確かにそうね、とお嬢さんは笑った。ほっとしたのもつかの間、また少し寂し気な顔に戻り静かに外を眺めている。俺はお嬢さんに背を向けて仕事を再開した。
「…自由になりたいの」
調律が終わり、そろそろ帰ろうとしていた時だった。お嬢さんがつぶやいた。声は小さいけれど、強い。そんな声のまま、お嬢さんは続けた。
「自由になれるかもしれないの」
どういうことだろう。どう返せば良いのだろう。迷っている間に、お嬢さんは話し続ける。
「あのね、手術することになったんです。遠くの町で。もしかしたらよくなるかもしれない。でももしかしたら…、本当に羽が生えちゃうかもしれない」
何のことかと思ったが、少しだけこわばったお嬢さんの表情で言わんとすることを理解した。
「もしもすっかり治ったら私、自由になれる。うまくいかなくても…、羽が生えて空を飛べるんだったら、それも自由になれるってことでしょう」
そう…、なのかもしれない。
「次の調律の頃には遠くの町に行っていると思うから、あなたには伝えておこうと思って」
「…そうですか」
「あなたのおかげでいろんなお話もできたし、なにより、綺麗な音でピアノが弾けましたから」
お嬢さんは優しい微笑みを浮かべている。突然のことで、何と言えば良いのかわからないまま俺はなんとか言葉を紡ぎだした。
「えっと…、あなたが自由に傘をさして歩けるようになることを祈っています」
お屋敷を出ると、相変わらず雨は降り続いていた。むしろ勢いを増している。俺は持っていた青い傘をさそうとして、ふと手を止めた。
傘を閉じたままお屋敷の門を出て、道路を歩く。容赦なく打ち付ける雨でびしょ濡れになるが、気にしない。
少し歩いて、ちょうどお嬢さんの部屋の窓から見える場所に着いた。窓からは、相変わらずお嬢さんが外を眺めている。俺は大きく手を振った。俺に気付いたお嬢さんは、驚いたような顔をして小さく手を振り返す。
お嬢さんが見ていることを確認すると、俺は傘を大きく振って青い花を咲かせた。
BGM 五月雨/レミオロメン
動画は藤巻さんのソロバージョン(たぶん)。レミオロメン時代の方は公式がなかったので。
※追記
公式ありました。
※フィクションです。
レミオロメンさんの「五月雨」という曲から、ふと浮かんだ作品。曲の解釈というわけではないです。
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