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短編小説:笹森さんのノート

 疲れた。眠い。寒い。いろいろな感情や欲求が渦巻くなか、ひとつだけ群を抜いて強いもの。それは、
「コーヒーが飲みたい」
であった。
 仕事帰りの金曜日。いわゆる「華金」というものなのだろうか。素通りしていく居酒屋が、いつもより賑わっている気がする。アルコールが苦手な私には関係のないことだ。そもそも私は明日も仕事なのだから。

 11月の冷えた空気が吹き抜けるなか、私はひたすら「どこのコーヒーを飲もうか」ということを考えていた。
 小さなティーカップに入ったぶんでは足りなそうだ。サイズが選べるところが良い。
 そんなことを考えながら、結局は駅近のチェーン店に入った。私の仕事はあまり給料が良くないから、高いお店には入れない。本当は今日だって優雅にコーヒーを飲んでいられるほど余裕があるわけではないのだが、どうしても疲れてしまったから、仕方がない。
 隅っこの席に座り、Lサイズのブレンドコーヒーと焼き菓子のセットを注文する。ようやく一息つけた気分だ。

 疲れた。
 こんなにコーヒーが飲みたくなるのは、とにかく疲れているときだ。
 疲れているし、ストレスが溜まっている。
 理由はわかっている。仕事がうまくいっていないからだ。
 なぜうまくいかないのか。
 理由はわかっている。最近入ってきたパートの笹森さんのせいだ。

 私は放課後等デイサービス(障がいのある子どもたちの学童。放課後デイ、放デイと略す)で働いている。大学一年生の頃からアルバイトをしていて、そのまま社員になった。社員としては今年で三年目、バイト時代も含めると七年目だ。それなりに中堅である。
 子どもたちと関わるのは楽しい。成長を感じられる場面に立ち会えるだけで幸せな気持ちになる。やりがいもあるし、大好きな仕事だ。

 そんな私の大好きな職場に、笹森さんは現れた。
 別に、とてつもなく意地悪だとか、お局であるとか、そういうわけではない。むしろ逆だ。穏やかで、優しくて子どもからも人気。年齢は40代後半くらいで、ふくよかな「かわいいおばちゃん」という感じ。昔は特別支援学校で教員をしていたらしく、子どもたちとの関わりも上手い。
 今日だってそうだ。みんなで工作遊びをするのに指示が通らず、まごつく私を見かねた笹森さんが助け舟を出してくれた。すると、驚くほどすんなりことが進んだのである。普段はあんまり活動に参加してこない子どもですら、楽しそうに笑っている。
 要するに…、面白くないのだ。
 私だってこれまで頑張ってきたのに、突如現れた元教員のオバサンに一瞬にしてこれまでの積み重ねを崩されたような気になってしまったのだ。
 そんなことない、というのはわかっている。
 笹森さんも今の職場には最近入ったというだけで、たくさん経験を積んでいるということも。自分の幼さも、情けなさも。

 運ばれてきたコーヒーと焼き菓子をいただきながら、私はどうにかこのいらいらを鎮めたかった。
『笹森先生、頼りになるよね』
 他のパートさんやバイトの子たちが話していた。決して私が頼りにならないと言われたわけでも、何かを否定されたわけでもないのに、もやもやしている自分にもっと腹が立ってくる。
「あら、西先生?」
 声がした。まさか。
 そのまさかだった。
 顔をあげた先には、笹森さんがいた。
「笹森先生…」
「このカフェに来てたの?ここ、良いよね、私も好きなの!」
 笹森さんは当たり前のように私の隣に座った。
「西先生、それが晩ごはん?」
 私のテーブルを覗き込んで笹森さんは怪訝な顔をした。やめてほしい。それなりに人がいる場所で「先生」と呼ぶのもやめてほしい。
「いえ、ちょっとつまんでるだけです」
「じゃ、晩ごはんはまだなの?」
「まあ、はい」
「それなら一緒にどう?ここのオムライス、おいしいのよ」
 冗談じゃない。お金の余裕もないのに、なぜ私の不調の原因となっているような人と食事をしなくちゃならないのだ。
「今月、あんまり余裕ないんで」
 自分でも棘のある言い方だな、と思った。
「だったらご馳走するわよ」
 奢ってもらえるのか。一瞬悪くないかな、と思ったけれど、やっぱり嫌だ。
「いや、ほんとに大丈夫です」
「あら、そう?」
 笹森さんは残念そうな顔をした。ああ、嫌だなあ。笹森さんがここの常連だって知ってたら、きっと来なかったのに。
「そうだ、西先生。ちょっと相談があるんだけど」
 早く帰ろうと思っていたのに、笹森さんにまた話しかけられた。笹森さんみたいな大ベテラン先生が、私なんかに何の相談をするというのだ。
「来週、ちょっとやってみたい遊びがあってね。子どもたちに合ってるか一緒に考えてほしくて」
 そう言うと笹森さんはバッグから分厚い本を取り出した。どうやら、発達年齢別におすすめの遊びが紹介された本のようだ。かなり読み込まれていて、大量の付箋や折り目が見える。
「この新聞紙を使った遊びなんだけど」
 笹森さんは、緑色の付箋がついたページを開いた。私は仕方なくそのページに目を通す。
「ルールはシンプルでわかりやすいと思います。でもこのあたりの細かい操作とかは…、」
 私は頭のなかで子どもたちの様子をイメージしながら答えた。笹森さんは苦手だが、遊びを考えること自体は好きだ。場所が場所なので、具体的な話題は避けながら私たちはいつの間にか話し合いを始めていた。

「じゃあこれは、」
「こっちだったら、」
 笹森さんと私は、本のページをめくりながら考える。
 気が付くと、ずいぶん時間が経っていた。私の焼き菓子とコーヒーはなくなり、いつの間にか運ばれていた笹森さんのオムライスはすっかり冷めてしまっていた。
「あら、こんな時間。西先生、時間とっちゃってごめんなさいね」
「いえいえ」
「西先生、子どものことよく細かく見てますね。さすがだわ」
「そんなことないです」
 突然褒めてくるから、面食らってしまった。
 笹森さんは、今度はバッグからノートを取り出した。こちらも、かなり使い込まれているようだ。やはりところどころに付箋が見える。笹森さんは、さっき私と話し合ったことをいそいそと書き込んだ。
「なんですか、それ」
「ああ、これ?」
 ペンを動かす手を止め、笹森さんは恥ずかしそうな顔をする。
「この仕事、わかんないこともたくさんあるから、いろんなことをメモしてるのよ」
「勉強してるんですか」
「勉強ってほどでもないわ。でも、もうオバサンだから最近のことについていけるようにしないと、と思って」
「でも、笹森先生は教員やってたんでしょ」
「ずっと昔の話よ。それに、学校と放デイは似てるようで違うんだから」
 もうほんと、毎日毎日大変よ!と笹森さんは笑った。本気で言っているんだろうか。全然そんな風には見えないけれど。
「そんなことないでしょ、笹森先生はベテランだし」
「そうは言ってもねえ」
 笹森さんは、ふふっと笑った。
「もちろん、経験と勘もある程度は大事になってくるけどね。だけど、結局そういうものは基礎の上に成り立ってるわけだから」
 見る?と、笹森さんはノートを差し出した。たいして興味はないけれど覗いてみて、驚いた。
 遊びのこと。障がいのこと。パートでの反省点。などなど。
 あらゆることが、びっしりと書き込まれていた。
「やっぱりまだまだわからないことってたくさんあるのよね」
 笹森さんは、優しく笑った。
「…そうですね」
「西先生は若いから、私みたいなオバサンよりずっと吸収が良いでしょう」
「…」
「職場のみんなに負けないように、私も頑張らなくちゃ!」
 そう言って笹森さんは明るく笑った。
「さて、オムライス食べようかな!西先生、本当に良いの?おなか空いてるでしょ。ご馳走するから好きなもの頼んだら?」
「…じゃあ、お願いします」
 私は小さく頭を下げた。

 笹森さんとの食事を終え、アパートに帰ってきた私は本棚に直行した。
 たくさんの、保育や特別支援教育に関する本たち。大学時代や社員になったばかりのころはひたすら買い漁って読んでいたけれど、ここ最近は少しも触れていなかった。
 いちばん最近買った、買っただけで読んでいなかった本を引っ張り出す。
 笹森さんのノートが脳裏をよぎる。
 そうだったのか。
 ただのベテランオバサンとばかり思っていたけれど、そんな人でも勉強してたのか。
 それに比べて、私は。
 七年目の自分を、中堅どころかベテランに足を突っ込んでいると勘違いしていたんじゃないか。ちょっと驕ってたんじゃないか。
 買ったときとかわらないくらい綺麗なままの本。内容は基礎の基礎だけれど、すっかり忘れてしまっているようなことも書いてある。
 付箋や書き込みがいっぱいだった、笹森さんのノートを思い出す。

 負けてたまるか。
 別に勝負でも何でもないけれど。
 まだ、私は頑張れる。
 私は本のページをめくった。
 



※フィクションです。
 私も大学時代、四年間放課後デイでアルバイトをしていました。
 今回は放課後デイの「外」のお話ですが、いつか勇気とアイデアがわいたら「中」を舞台に書いてみたいです。

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