短編小説:安アパートの玄関にて
かつての恋人が結婚したらしい。共通の友人が突然電話をしてきて、何かと思えばそれだけのことだった。麻美も元恋人もアラサーである。誰かと結婚しても何も不思議なことではない。そんなことを、さも一大ニュースであるかのようにわざわざ連絡してくる友人には心底呆れる。
「電話、何だったの?」
麻美の不機嫌な様子に気付いたのか、崇浩が尋ねてきた。
「んー、別に。元彼が結婚したらしいって話」
特に隠すことなく、麻美は答えた。元彼の話をしたからといって、崇浩が妬くようなタイプではないことはわかっているからだ。
「ああ…」
ただ、少し動揺するタイプではある。
「結婚、かあ」
崇浩が、軽く咳払いをした。
「麻美さん、僕らもそろそろ、そういうことを考え始めても…」
「あー、はいはい」
麻美は大きな声で、崇浩の小さな声を遮った。
「私、そういうノリで言う感じのやつは受け付けないから」
「そんな、」
「ちゃんと言ってくださーい」
「えぇ…」
「ねえ、それよりも今度どっか食べに行こうよ」
丸い顔を赤らめて、崇浩は困ったような顔をした。
麻美だってわかっている。崇浩がノリでプロポーズをする人ではないことも、真剣に麻美との将来を考えていることも、さっきの言葉が本気であることも。
ひとつ歳下の崇浩とは、もう付き合って3年になる。彼は職場の後輩だ。
それほど器用ではないし、気が利くわけではないけれど、穏やかで優しい。ふっくらとした見た目と、照れ屋ですぐ赤くなるところが可愛らしい。黒ぶちのめがねの奥のつぶらな瞳も。
麻美にとって崇浩は、ただの後輩から可愛い後輩へ、そして放っておけない人へ、と変わっていった。
今は、とても大切な人である。
結婚しない道を選ぶ人も増えてきたなかで、崇浩とだったら結婚しても良いかな、と麻美は思っていた。
それと同時に、自分は崇浩とは結婚しないかもしれない、とも思っていた。
「ねえ、どこに食べに行く?」
「麻美さんの好きなところにしよう」
相変わらず崇浩は、穏やかな笑みを浮かべている。
本当に優しいのだ、彼は。
どこかに出かける時、何かをする時。必ず麻美の意見を聞いてくれる。
「麻美さんはどうしたい?」
「麻美さんは何が好き?」
「僕は麻美さんがやりたいものが良いな」
これは紛れもなく、彼の優しさである。強引な恋人を持つ同僚は、しょっちゅう麻美を羨んだ。麻美も、崇浩の優しさが自慢であった。
麻美自身も、もともと主導権を握りたいタイプだったので、ふたりはなかなかお似合いだったと言える。
でも…。
彼の『優しさ』を感じるたびに、麻美は不安も感じていた。
もしかしたら、ずっとこのままなのではないか。
もしも、ふたりがずっと一緒にいるとして。
他のどんな場面でも、どんな重要な場面でも、崇浩は麻美にすべてを委ねてくるのではないだろうか。
これから何か大きな決断をする、という場面でも
「麻美さんはどうしたい?」
「麻美さんの好きなやり方が良いな」
とばかり言われてしまったら、どうしよう。
いくら主導権を握りたいタイプといえども、麻美だって常に正しい判断ができるわけではないし、お互いの意見を擦り合わせていくことだって必要だろう。
だからせめて…。
プロポーズでなくても良い。
どこかで一度だけでも、崇浩が自分で決意して、それを口にして欲しい。
そういう場面を一度でも経験してからでないと、麻美は結婚に踏み出せそうになかった。
本当に些細なことで良いのだ。
「今日はイタリアンを食べに行こう」とか、
「テレビはこれを見よう」とか。
そういうシーンさえあれば。
麻美は「プロポーズは男性から女性へ」という決まりはないと思っていたし、覚悟が決まりさえすれば自分から切り出すつもりだった。
でも、それはまだ先のことかもしれない。
週末、少し遠くにある美味しいイタリアンのお店に行こう、という約束を取り付けて、崇浩は帰っていった。結局日時と場所を決めたのは麻美なのだけれど。
うだうだと長居したり、必要以上に泊まったり、べたべたしたりしないところも崇浩の良いところだ。元恋人とは大違い…、と思って、麻美は久しぶりに元恋人を思い出している自分に気が付いた。
遠距離恋愛の末ほぼ自然消滅という形で別れた元恋人に対して、未練がまったくなかったとは言い難く、かつてはしょっちゅう思い出していた。でもそれがいつの間にかただの「思い出」になり、やがて美化されて「綺麗な思い出」となり、それも通り越して「忘れてしまった思い出」になったのは、やはり崇浩との出会いがあったおかげだろう。
大好きなんだけどな…。
麻美は崇浩の愛らしい丸顔を思い出す。
そして彼の優柔不断さと、自分のわがままさに、ひっそりとため息をついた。
「お待たせ」
そして週末。崇浩の軽自動車の助手席に麻美は乗り込んだ。「彼氏の車が軽なんて有り得ない」と同僚に言われたことがあるけれど、麻美は気にしたことがなかった。車なんて、目的地に運んでくれさえすればじゅうぶんではないか。
それに、崇浩は運転が丁寧だし、車内も清潔にしている。そして何より、車のなかでかけている音楽が良い。いわゆる「懐メロ」なのかもしれないが、麻美と崇浩にとっては青春時代を思わせる音楽がゆったりと流れている。
「あれ、芳香剤かえた?とっても良いにおい」
ふと気付いて麻美は尋ねる。
「そう?」
そんなことないけどな、と崇浩は不思議そうな顔をした。
「ねえ、今日は何食べる?」
「何にしようか」
「コースじゃないよね。ピザかなー、パスタかなー」
「僕はどっちも好きだよ」
「お酒飲む?飲むんだったら帰り、運転代わるけど」
「麻美さんが飲みたかったら飲んで良いよ」
「…」
拗ねた、ということでもないのだけれど、麻美はつい黙ってしまった。
こういう時、麻美の変化に気付いて崇浩が饒舌になったりするのだが、今日は崇浩も黙っている。珍しいな、と麻美は思った。
ちらりと彼の横顔を見る。
いつになく真剣な顔だ。
ああ、もしかしたら。
麻美が彼とは結婚できないかもしれない、と思っているのと同じように、崇浩だって麻美とのことを真剣にに考えているのかもしれない。…悪い方に。
その後も、何だか悪い予感は拭えずにいる。
ディナーは美味しかったはずだが、あんまり味を覚えていない。何を話したかも覚えていない。何も話していなかったかもしれない。
結局お酒はどちらも飲まなかった。
運転を代わってもよかったのだけれど、崇浩が何も言わなかったので、帰りも運転してもらうことにした。
「泊まっていく?」
アパートが近付いてきたから、とりあえず聞いてみた。答えは予想通り。
「麻美さん的にはどう?」
「…今日はやめとこう」
「そっか」
そしてまた、黙ったままの時間が続く。
このまま、どうなるんだろう。
どちらも何も言わないから、車内では沈黙が続いている。
もしもふたりの関係もこのままになったら…。どちらも何も言わないからそのまま続いている、妥協みたいな関係になってしまったら。
そんなのは嫌だ。
けれど、麻美は何も言わなかったし、崇浩も何も言わなかった。
沈黙のままに、車は麻美の自宅へ到着した。
「ありがとう」
麻美は車を降りる。こちらこそ、と崇浩は微笑んだ。いつもの優しい、穏やかな笑顔。でも、何だか引き攣っているような気がしてしまう。
「…あの」
崇浩の声に、麻美は足を止めて振り返った。
「なあに?」
「…いや、何でもない」
「…そっか」
手を振って、麻美は階段をのぼった。崇浩は何を言いかけたのだろう。何を伝えようとしたのだろう。嫌な想像ばかりしてしまう。これまで「麻美さんはどう思う?」と優しく問うてきた崇浩が、はっきりと自分に別れを告げる姿が見えてしまう。
何とか自室の玄関にたどり着いた。靴を脱ぐ気力も今はなくて、そのまましゃがみ込んだ。
私が悪いのだろうか。
ぼんやりと麻美は考える。
私は、崇浩に多くを望みすぎているのだろうか。
もしかして、彼の重荷になっているのだろうか。
それとも…。
その時だった。
インターホンが鳴り、麻美は思わず飛び上がった。慌てたためか、モニターもろくに確認せずにドアを開けてしまう。
「うわっ」
そこに立っていた人物は、突然開いたドアに驚いたのか大声をあげた。そこにいたのは、
「崇浩…?」
さっき帰ったはずの、崇浩だった。
「どうしたの?忘れ物?」
「あっ、えっと…」
崇浩は丸顔を真っ赤にして、おろおろしている。何だ。何を伝えにきたのか。
「麻美さん、僕と、け、け、け、結婚、して、ください!」
「え?」
麻美は一瞬、わけがわからず聞き返してしまった。
「だ、だから、結婚、して、欲しい、です」
そして、崇浩は何かを差し出した。
それは、色とりどりの綺麗な花束だった。
「え、私と?」
「そうです」
驚き。ようやく状況を理解して、安堵。それから…。
「わ、ちょっと!麻美さん!」
麻美は花束ごと、崇浩を抱きしめた。
「ありがとう、崇浩」
「変なタイミングで、変な場所で、すみません。本当はもっと早く言うはずだったのに、なかなか勇気が出なくて…」
ああ、そういうことか。
だから彼の様子がいつもと違ったのか。
麻美とのことを、真剣にに考えていたのだ。…良い方に。
「ありがとう。ありがとう、崇浩」
「あの、麻美さん、ここ、玄関なので…」
「あ、そうだ」
麻美は慌てて手をほどいた。幸い、誰にも見られてはいなさそうだ。
玄関先に、少しつぶれた花束を持った崇浩が立っている。
泣きそうな、でも嬉しそうな、真っ赤な笑顔を向けて。
麻美は崇浩の手を引いて部屋に入った。
つぶれた花束からは、車で感じた優しい香りが漂っている。
※フィクションです。
周囲で結婚ラッシュが起こっております。ひえぇ。
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