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自分の事しか考えられないさ、ただの人間なんだから

 「お前は自分のことしか考えてない」

 確か高校生の頃、祖父に言われたこの言葉は忘れもしない。

 おじいちゃん子だった私は、実家と、そこから通路で通じた祖父の家を行き来して、ほとんど祖父の家で暮らし、祖父に育てられたようなものだった。祖父は「お前はもっと人と話さないといかん」としょっちゅう口にしていた。私はよくそれに無言で応えていた。

 祖父は、恐らく処世術として覚えたものだと思うが、人と会話するときは必ずイニシアチブを取る人だった。かといって、時には下手に出て素直に感謝を伝えたり、笑顔で冗談を投げかけたりするような人だった。私は、そんな祖父の横でいつも黙っていた。

 小さい頃は、祖父が庭に作ってくれた砂場で遊ぶのが好きだった。一人でおもちゃを砂場へ下ろして、砂場という舞台でおもちゃ達の劇場をつくっていた。舞台には、よく洪水も起こる。外の水道からホースを伸ばし、砂場に水溜りをつくって遊んでいると、よく母から「水道代がもったいない」と叱られた。祖母(母方)の田植えの手伝いに行ったときは、「この子は世話のない子ね」と言われたらしい。ひとつの場所で、延々と重機のおもちゃで穴を掘って土をすくっていたのだから。

 母は私に「お前は家を建て直して“お城”を建ててね」と言っていた。母と父が住んでいる実家は、天井から雨は漏れているし、着ない服はそこら中に散らばっているし、万年床だし、とにかく素足では歩きたくないような場所だった。母は、しょっちゅう私にお金についての文句を言っていた。本当か嘘か、父の借金があるだの、将来私がそれを払う払わないだの、光熱費や食費、水道代などの生活費、子供の養育費などを父が一銭も出さないのでお金が無いだの。

 父はといえば、夜の仕事のために家にはほとんど居なかった。癇癪持ちで、よく意味の分からないことで怒られた。もしかしたら私が忘れているだけで何か悪いことをしていたのかもしれないが、私の記憶には「父が怒っていて、敵意を自分に向けられた」という思いだけが残っている。大抵は母や姉が、祖父の家にいる私のところに来て「パパが呼んでる」と言われて父のもとに行くのが常だった。そうして、畳に座っている父に対し、私は立って父の言葉を待っていると「上から偉そうに。座れ」と怒鳴られた。私は内心「座っている方が楽なはずで、偉い人は座っていて、下の者は立つのが正しいのではないだろうか。でも、確かに上から見下ろすのは失礼だ…。私に裁量権はないのだな」という旨の気持ちがあった。ここまで具体的には思っていないが、確かにこういう思いと無力感だけが、自分の中にあった。母は、父の横でただ黙っていた。

 父は、小さな私に「パパのこと好きだよな」と詰め寄るときがあった。私は、とても好きとは応えられなかった。首を横に振った私を見て、父は「なんぞお前、可愛くない」と言って、家を出て車でどこかへ行ってしまったのを覚えている。お金を貸してほしいと言われたこともある。「返すから」という言葉を信じて、私の数千円のお小遣いをほとんどわたしたが、返ってくることはなかった。

 祖父と父は野球が好きで、私と姉にも野球をさせたかったようで、小学生の頃からソフトボールをさせられていた。姉はソフトボールが好きで、特待生やら何やらで、社会人になっても実業団でソフトボールを続け、引退した。

 私はといえば、男ということもあり期待をかけられ、小学生から中学まで野球を続けた。時には良い結果が出ることもあり、楽しかった時期もあったが、正直言って嫌いだった。夜の練習が終わって自宅に帰ってから、素振りを300回や500回を毎日しないと、家に入れてもらえなかった。嫌でしんどくて家の中に入ると「お前ちゃんと終わったんやろうな」と父にドギツく詰められた。

 祖父も、私が夜に部活が終わってヘトヘトになって自宅に帰ると、外から私の名前を呼び、バッティングの練習をさせた。庭にはピッチングマウンドをつくり、投球練習をさせた。嫌で嫌で仕方がなかったが、言うことを聞かなければ、ゲーム機を捨てるだのスマホを捨てるだの何をされるか分かったものではなかった。祖父は、私が電子機器にのめり込むのを恐れていたのかもしれない。だが、そうして押さえ込めば押さえ込むほど、私はゲームやスマホに熱中していった。

 ある時から祖父と母は仲が悪くなり、父母の住んでいる方の家の水道代やら何やらを祖父が支払ったことを、私にことづけられたことも頻繁にあった。それを母に伝えると母は怒っていた。

 祖父から「お前は〇〇家(母方の家系)の子やけんなぁ」と言われたこともある。私は祖父と同じ家系の子ではない、ダメな人間だと言うように。

 将来は父方・母方両方の家系のお墓の面倒やらなにやらを、私が一人で引き受けないといけないという話をよくされた。心底嫌だった。私は生まれた時から、親達の都合の良いように生きていく人形のように扱われているような気持ちだった。「自分のことしか考えてない」と祖父に言われても、内心では「勝手に親の都合で産み落として、“育ててやった”という文言でもってして子供に罪悪感を抱かせて、自分たちの都合の良いように支配しようとしてくるお前達のようが、よっぽど自分のことしか考えてない」という旨のことを思っていた。

 高校に入った時、もう野球は続けない事を決意した。必死の反抗だった。祖父にそれを伝えると「お前はワシを裏切るのか」と詰められ「ワシなんか居ない方がいいんよな」と睨まれた。そんなことはない、私は祖父のことは好きだ。私は言葉が出ずに泣いたが、そんな私を見て「男が泣くもんじゃない」と祖父は静かに怒鳴っていた。

 この反対を押し切るまで、私に自由意志なんてものは無かったのかもしれない。ただ、強烈な父性に怯える日々だった。独り布団の中で、静かに泣いたことも何度もあった。父や母、祖父が私に怒っている姿が頭から離れず「ごめんなさい、ごめんなさい、生まれてきてごめんなさい、怒らせてごめんなさい、悪い子でごめんなさい、僕は生まれてこなければよかった、みんなを嫌な気持ちにさせるんだから」という気持ちが嫌でも心に湧いてきた。必死に自分に「でも大丈夫。きっと大丈夫、僕は大丈夫、大丈夫、独りでも大丈夫、大丈夫」と言い聞かせていた。

 小学生のとき、胸に包丁を突きつけてみたこともある。今思えば、誰かに助けて欲しかったのだと思う。誰かに愛をもって抱きしめて欲しかったのだと思う。ある種の未熟さ故のナルシズムで、そういう行為をしていたのだと思う。大人になってからも、それは変わっていないと思う。どこかにそういう気持ちがある。

 無条件に私という存在を受け入れてほしい、どんなに私が他人のことを考えられない人間だとしても「しょうがないやつだ」と言って受け止めてくれる人が居れば、なんて幸福なことだろう。そんな人たちによる心の支えがあれば、私も「その人たちのために」という気持ちで、人のためを思い、人に尽くすことができるだろうに。

 高校・専門学校時代

さて、自分の意思で選んだテニス部は、最後はキャプテンに推薦してもらうほど熱心に打ち込んだ。強くはなかったが、練習の日々が楽しかったのを覚えている。自主練も進んでしたし、自宅に帰ってからもテニスの動画ばかり見て研究していた。 

 将来は漫画家になりたかったが、親に「やめろ」と言われて断念した。「お前には無理だ」「まずは安定した仕事に就かないと」と。特になりたいものもなかったので、母の妹が理学療法士ということもあり、リハビリの道を選んだ。選んだというより、勉強も嫌いで成績も悪く、世の中の職業も何があるのか知らなかったし、全く知らない世界に飛び込む勇気もなかったので、なりたいものと言われてもそれくらいしか頭に思い浮かばなかった。ちょうど隣町に、新しい作業療法士の養成校があったので、そこを選んだ。

 そこでも、担当教員に「もっと人と話せ」と言われた。幸いにも専門学校では成績は良く、勉強面で指摘を受けたことはほとんどなかった。だが、なまじい頭でっかちになってしまった私は、人との距離感がうまく調整できなかった。だが、クラスメイトのみんなは温厚な人たちで、兄貴肌な人もいたので、私はひっそりとクラスに居ることができた。自分が落ち着いてそこに居られたのは、周囲の人たちのおかげだと思う。

 未熟な恋愛

 私は、運良く容姿は平均的であったので、恋愛をすることはできた。しかし、束縛こそしたことは無いものの、嫉妬心や支配欲求との戦いに疲弊し、結局は破綻するのが常だった。無条件に愛を注ぎ、私を受け入れてくれる人を、無意識に探していたのかもしれない。私は、相手が愛想を尽かして捨ててしまうのではないかと怯えていた。なので、別れ際は本当にいつも情けない姿をしていたと思う。親から与えられなかったものを、恋人に強く欲していた。だが、これはお門違いなことだ。

 社会「お前のことなんか知ったこっちゃない」

 社会人になって、病院に就職した。人事部の方には、新入社員の面談で「君のように頭でっかちになってしまう子を何人も見てきた。もっと周りに助言を求めてみると、みんな可愛がってくれるよ」と言われた。内心「そんなことができるなら最初からやってる。誰とも話が合わないんだ。世間話や起こった出来事をただ口にして、当然のように思うであろうことを口にし合って共感しているだけの会話に私は興味がないし、そういう話をするのも辛いし、面倒臭い」と思っていた。

 勉強は続けていたので、先輩からの誘いで、共同で院内勉強会をさせていただくことになった。他部署やドクター、院長も注目してくださったり、参加していただいて助言をして頂いたりした。「わかりやすい」という声ももらって、私は自分のような人間でも、自分の得意なことで他者に貢献できるものがあるのだと嬉しかった。

 ある時、私に悪意や反抗心は微塵も無かったが、ふとした態度が悪いと上司に呼び出され「全体の雰囲気を良くしようとしているのに、お前はその言いつけを守ろうかというような協調性もないのか」「お前勘違いするなよ」と怒られた。殴られるかと思うような形相で、昔の父を思い出さずにはいられなかった。私は、何を勘違いし、何か間違った行いをしていたのだろうか。それほどまで詰められなければならないようなことをしでかしてしまったのだろうか。大人しく黙って業務をすることは、悪いことなのだろうか。私が気づいていないだけで、人に迷惑をかけたのだろうか。雰囲気を悪くしたのだろうか。私がしてきたことは、間違っていたのだろうか。そもそも生まれてきたことが間違っていたのかもしれない。

 幼少期、自由に意思を発することを抑制され、条件付きでしか愛されてこなかった人間が、大人になってから社会や恋人に対し、必死に「僕を認めてくれ」と足掻くのは間違っている。他人からすれば、そんなのどうでもいいし、個人の背景や精神状態など知ったことでは無い。これが、所謂「社会の厳しさ」だと思う。

 同期の子が辞めた。直属の先輩と折りが合わず、ご飯も喉を通らなくなり、相談できる相手もおらず、上司にも相談せず人事部に直接「辞めたい」と言って即日退職した。辞める前、直属の先輩・上司らは「教育」と称しながらも「社会人なのだから、あいつの個人的な背景なんか知らん。仕事をちゃんとしてくれ」と言っていた。私は、「今の時代背景としてそのような考え方は益々分断を促進する」「私たちは父性(母性)でもって、そのような人間も包括しながら小さなチームとして共生してくべきだ」と主張したが、彼が辞めることは止められなかった。

 社会人の恋愛

 社会人になってから、彼女ができ、同棲した。初めは、彼女の心を自分の中に投影しようと必死だった。気持ちを先回りして、自分がしてあげられることは何かと、あくせくしていた。だが、月日が経つにつれ自然と彼女に頼り切りになっていった。彼女の小さな小言も、そういう一つのやり取り程度の認識だった。

 ある時、デートの予定も立てない、予約も取らない、出先では自分のことばかりする私に愛想を尽かして、彼女は出て行った。幸いすぐに帰ってきたが、彼女は激しく私を詰めた。私はぐうの音も出なかった。確かに私は「自分のことしか考えていなかった」。私の過去のことを話すと、彼女は「気持ちは分かるけど、みんなそういうことは経験するし、ハッキリ言って言い訳にしか聞こえない」と忠言した。では、「お前の気持ちなど知らないから、私のために・2人のために尽くせ」というのだろうか、と捻くれながら私は思った。そういう意味ではないのは分かっている。だが、どういう気持ちでいればいいのか分からない。素直にいればいいのか。分からない。ただ、そう言いながら側に居てくれる彼女がいることが、この上ない「幸せ」であることは分かる。時に辛さが込み上げてくるが、それを押さえ込み、彼女のためを思って今は生きてる。

 自分のせいじゃないが、自分でなんとかしろ

 この世には「自分のせいではないが、自分でなんとかしないといけないこと」があるのだと思う。正直、私はそのような世の中で立派に生きていける自信は無い。この世から消えてしまいたい、死んでしまいたいと何度も思う。しかし、逃げ出す勇気も死ぬ勇気も無い。あぁ、まさに生き地獄。

最も苦しいのは、生と死の間に居るときだ

 この地獄にもきっと出口がある、きっと「幸せ」と思える瞬間があると信じて、日々過ごしている。私は私の問題を、独りで解決できるだろうか。いや、きっと周りのおかげで乗り越えるのだろうが、今はイメージがつかない。

 自己肯定は嫌いだ。肯定の概念自体が、否定の上に立っているからだ。自己肯定をする人間は、きっと自己否定からも逃れられない。私は、自己の醜さとも向き合い、それを「判断せずにただ見つめ、普遍的な人間の一面なのだと受け入れる」という方法を取りたい。まだ、そこまで至っていないが、いつかこの「盛大な言い訳」を乗り越えて…。

「私は強く生きるために、辛い人生を歩んできた」とリフレーミングして
「自分」は周りの環境によって初めて存在できる
「強く生きなければならない理由」は
きっと「自分以外の何かと強く繋がるため」だ
そうして「ひとつ」に成る
「感謝」や「敬い」は美しい 
独りぼっちなんて無いと思わせてくれる
僕らの側には、皆が居る
そうして「自分」を得られる
生きているってのはそういうことだ

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