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パクチーと助産院

次女を生んだ朝の水無月の助産院の窓からは、
静かな雨の音に乗ってきたパクチーの香りがした。

長女は里帰り出産でほかの選択肢にたどり着けず地元の大学病院で産んだが、その時の体験があまり好きではなかった。

急に進んだ陣痛のさ中、大きな病院の廊下を数分おきに足を止めながら進むのは大変だったし、

分娩室に着いた頃にはもう産まれますから!カウントダウン寸前で
一気に出てきた赤子に会陰が割けてしまい(切開は断った)、

出産直後にそれを縫うのが一連の分娩よりもずうーーーーっとチクチク痛く、その痛みは出産後数週間続いた。

分娩台に上ったら照明がまぶしく「暗くしてください」と頼んだのだが、
危険だから?ダメです、と言われ断られ、煌々とした照明下で股を広げて
名前も知らない数人の医師や看護師にお産を介助していただいた。

私という人間の意思は、医療の権威的判断の下には、却下されるべきものなんだろうか。

そんな体験があって、次は助産院で産もうと決めていた。
その背景には、ハタチの時読んだ三砂ちづる著『オニババ化する女たち』の影響があるが、ここでは詳しく触れない。

妊婦検診は、はじめは月一回くらいで頻度が少ないが、すべて助産院で行うわけではなく、産婦人科のある病院と交互に通った。病院では血圧や心拍や血液検査など、医学的なものを行い、助産院ではからだづくりの基礎を教わった。

とにかく、歩くこと。ふき掃除をすること。骨盤を動かす赤ちゃん体操。
この赤ちゃん体操は秀逸で、女性の身体にいいのが感覚で分かるから、今でもよくやっている。

予定日まであと数か月になると検診の周期が2週間等々だんだん狭まってきて、検診もすべて助産院で行うようになった。

そうすると、おばあちゃん先生(御年その時で79歳!)をはじめとした助産師さんたちは、からだの使い方を教えてくれた。

赤ちゃん体操にも入っている腹式呼吸、胸式呼吸を使ったいきみの方法や、体位、胎盤を出すときの呼吸法。

それから、赤ちゃんは産道を一気にまっすぐ降りてくるんじゃないんだよ、という知識。赤ちゃんの頭は、参道の入り口まで来たら、少しずつ出て、また戻って、というのを何度か繰り返すのだそうだ。

それにより、会陰が柔らかくなり、裂けることがない。助産師のおばーちゃんは、お餅つきみたいなもんだよ、とおっしゃっていた。

これを知っていて、やっぱりこの世が楽しみすぎて一気に出てこようとした次女に、「たいちゃん、おもちつきだよーーー!!(悲鳴)」と叫びもよろしく話しかけ、会陰が裂けない、痛くない出産と産後を迎えることができた。

どうしてこのからだの知識をすっとばして、医療的介入に期待したお産がメジャーになっているんだろう?

陣痛を迎えた朝、5時半すぎに到着した助産院の分娩室は、薄暗かった。
見知って私の性格や家庭状況も今ではだいぶ分かってくださる、人生の先輩である助産師さんたちが、お産を介助してくれる。
むやみに股を広げたり、子宮口の開き具合を調べるために指や器具を突っ込まれることなく、横向きに寝転がった姿勢でのお産だった。

お産が終わると、助産師さんたちはラベンダーの香りのする足湯をしてくれた。足首と骨盤はつながっているらしく、産後温めると骨盤の戻りを良くすると伺った。

一連の経験が人間的で、一人の人間として尊厳をもって扱ってもらった感じがして、なんだかこれまで出会ってきた人や環境すべてに感謝したい思いがした。

お産が終わり、これから5日間入院することになる部屋に通されて、はじめて赤子と二人きりになったのは朝8時ごろだっただろうか。

雨の音。

窓の外には、おばーちゃん先生が育てている菜園があり、二畝ぐらいがパクチー畑に献じられていた。

網戸越しに漂ってくる、パクチーの匂い。

産声を上げ疲れて、この世に出でて数時間、静かに眠る次女の横で、聴覚と嗅覚だけが研ぎ澄まされ、私自身もまどろむ中で、わたしはトンネルを見た。

暗い中にほの光る、緑のオーロラのトンネル。

ちょうど1カ月前に他界した、ビザの関係でテレビ電話越しにしか会うことのできなかった義父が、そこからわたしたちを覗きに来たようだった。

そうだ、わたしもここをくぐってきたのだ、という確信があった。

あまりにこの世に来られることがうれしくて、転がるように駆けてきたから、文字通り転げて逆子になって母を帝王切開にさせた。

そうか、わたしはこの世界に来たくて、しょうがなかったのだ。

よかったなぁ、来れて。

両親よ、ありがとう。

ちょっとここ数年しんどかったけど、わたしはもう少し、わたしにできることをしてこの生を全うしよう。

今でもパクチーの香りは、わたしにこの根源となるような、幸せな原体験を運んでくれる。

だからわたしはパクチーが大好きだ。


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