磨く。
アナタハ鍋ヲ磨キマスカ?
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鍋をあんなにも必死で磨く女たちの後ろ姿を、生まれて初めて見たのは、夫の実家でのことだった。
結婚して6年、ようやっと相手国であるサウジアラビアのビザが下りて渡航しての異文化体験。
夫は6人兄弟の長男で、家にはお母さんのほか、4人の妹がいた。彼女たちは交代で皿を洗ったり掃除機をかけたりする。だから女「たち」。
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彼女たちは、あちらの家族7人プラス我が家の4人を合わせた11人の食事のあと、皿を洗って、使った鍋を磨く。
とっくに汚れは取れていても、金属がぴかぴかと光沢を放つまで、念入りに、研磨剤付きの緑の薄いやつで、クレンザーを付けて磨く。
その後ろ姿はなんだか鬼気迫った感じもした。
コンロもそう。五徳とその真ん中の火の出口に被せる丸いやつを外して、洗剤を付けて洗い、裸になったコンロ周りを磨く。しかも毎回だ。
「…!」
結婚6年目のカルチャーショックだった。
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私は、台所やお皿類は経年変化によって多少の味が出るまま(←表現w)にしておく家で育った。
どちらかといえば、子どもの私の方が気になって家電などを「磨いて」は、そのキレイになりよう(ビフォアとの落差があるから、やりがいがある)に内心よし、と思っていたぐらい。
でも、それは汚れが取れる、というレベルで、「磨く」とは違ったんだな、というのを、夫方の女性たちをみていて、知った。
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現在、ステイホームホリデーシーズンで時間があるので、台所の類を、なるべく磨くようにしている。
磨いてある鍋がそこにあると、気持ちが良い。何か、放つオーラが違うのだ。
五徳を取って、コンロ周りを磨くと、同じく気持ちが、すっきりする。毎回はできないが、今なら一日一回はできる。
シンク周りも、食器用スポンジの研磨剤のついた方で皿洗いの後に磨き、泡を流したらタオルで水気を取りながら磨いてしまう。
とにかく、気持ちが良いのだ。
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食洗器は毎回拝み倒したいぐらい便利だが、磨くのには向いてないな、と思う。鍋のこびりつき系や、湯飲みの底で乾いてしまった小さな茶殻なんかが、ぽそっと残っている。水での研磨は途方もない時間がかかる。
物理的な研磨は、この手が良いのだな。
この手で、磨けるものを磨いていると、それは労力がかかるのだけれど、それは気持ちの良い労力なのだ。
食洗器を回している間にこなす知的労働とは種類の異なる、これらを磨いている間に磨くことだけに夢中になる。無心になる。
鬼気迫った、と感じた義妹たちの背中も、集中と無心による真剣さが、そうさせたのだろう。
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こういう手仕事ができるようなペースで、暮らしていたい、と思う。
子育てでここ数年半分手放してきた、経済力をもつということ。
向こう2年の目標であるそれと、こうした手仕事は、両立するのかな?
人一倍、何かをするのに時間のかかるわたしに。
でも、両立しない仕事なんて、バランスがわるい。
不器用なわたしなら、きっと崩してしまうんだろな。
与えられたこの身体とOSにとって、いい塩梅を見つけてゆきたい。
アナタハ何ヲ磨キマスカ?
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