【連載小説】雨恋アンブレラ_1

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 わたしが天海くんと相合傘をするためには、条件が三つある。

 一つ、雨が降ること。
当たり前だけど、ただ雨が降るだけではダメ。朝から降っていたら、天海くんも傘を持ってくる。だから、朝には降っていなくて、学校が終わるくらいには降っていないといけない。
 今日はお昼休みが終わったころに降り始めた。五時間目から二時間続きの体育の授業は体育館でやることになった。そろそろ夏って時期にグラウンドで運動したくなかったから、それだけでも嬉しかったし、同じように喜んでいる子たちもいた。
 その子たちよりもわたしは喜んでいた。もちろん、ひそかに、誰にも気づかれずにだけど。

 二つ、その雨がそれなりに強いこと。
小雨くらいだったら、天海くんは傘を差さないはず。傘を差さないということは、差し出された傘にも入らないということ。
 でも反対に雨が強すぎると、相合傘には向かない。一人で傘を差しても濡れるくらいの雨だと、二人で分けたら大変なことになる。半分びしょ濡れの人が二人できあがる。
 今日の雨は、それなりに強いくらい。しかも風が吹いていなくて、ほぼ真上から降っている、相合傘のための雨だ。

 三つ、ミキちゃんが学校を休むこと。
 ミキちゃん、本名は櫻井美姫。生まれたとき(もしかしたら生まれる前かも)に「美しい姫」なんて名前を与えられた子どもは、本当にそのとおりに育つらしい。ミキちゃんはいつもクラスの中心にいて、ちょっとワガママなところもあるけど、かわいいから誰も逆らえない。
 わたしなんかが、「ちょっとワガママ」なんて口に出すことは絶対にできないし、「ミキちゃん」とも呼べない。ミキちゃんが姫なら、わたしは――。
 しかもミキちゃんは天海くんと付き合っているらしい。らしいというのは、わたしが直接誰かにその話を聞いていないから。でもクラスのみんながそういう話をしている。
 だから、ミキちゃんが学校に来ているのに、そのミキちゃんを差し置いてまで、天海くんと相合傘をするなんて、絶対に無理なんだ。

 条件三つのうち、いちばん達成しやすいのは、実は三番目。
ミキちゃんはよく学校を休む。週に一回から二回。一週間のうちにぜんぜん来ない日もある。
 そういうとき、やっぱり噂は教室中を駆け巡る。それはわたしに向けられた言葉ではないけど、耳に入ってくる。
 ミキちゃんが学校を休む本当の理由は、誰も知らないみたいだ。休み明けに学校に来たミキちゃんが休んだ理由を言うことはないし、みんなもあえて聞こうとはしない。だから、ミキちゃんがいないとき、根も葉もない噂に尾ひれがついて、すいすい泳いでいる。
いい噂は、どこかの芸能事務所に所属している、みたいなやつ。確かにミキちゃんの顔なら納得がいく。わたしの学校は校則がゆるいから、学校外の活動が禁止されていない。三年生の先輩が声優をやっていると聞いたこともある。気になって「櫻井美紀」で検索したことがあるけど、本名では何も出てこない。その時点でお手上げだ。わたしはミキちゃんのことを何も知らないから。
 悪い噂のほうが、多い。教室では偉そうにしているけど、実は精神的に不安定だとか、ウリをやっていて、ワルイ人たちと付き合っているとか。

 ミキちゃんが学校に来ても、学校を休んでも、天海くんの態度は変わらない。というのも、付き合っているはずなのに、二人が一緒にいるところを見たことがない。もしかしたら付き合っていることも噂に過ぎないのかもしれないけど、いい噂や悪い噂よりも広まっているから本当なんだろう。
 それに、学校の外での二人を、わたしは知らないから。

 それなりに強い雨が降っている今日、ミキちゃんは学校を休んでいる。
 条件が三つ揃った。
 でも、この条件は前提条件。これを満たしていないと先に進めないというだけで、これを満たしたら相合傘ができるわけではない。
 だから本当の条件は三つどころではなくて、数えきれないくらいの偶然が重ならないと、わたしと天海くんの肩が触れ合うことなんてない。絶対にない。

 ――はずだったのに。
 今、わたしの隣には天海くんがいる。それは天海くんの隣にわたしがいるということ。肩から二の腕くらいまでがピッタリ触れ合っている。
ワイシャツの下のキャミソールの下の肌がどんどん汗ばんでいくのを感じて、それが布越しに天海くんに伝わってしまうのが恥ずかしくて、でもわたしの体は石のように固まって動かせない。
天海くんは反対の肘をバスの窓枠について、結露のせいで何も見えないのに外を見ている。「座る?」なんて手招きしたくせに、わたしが体を縮こまらせて座ったとたんに、そっぽを向いた。
すごい気まずい。

 わたし――歌川萌音――は、美術部に所属している。美術部の活動は天気なんて関係なくて、それなりに強い雨が降る今日も、完全下校時刻まで活動していた。部活動といっても、みんなで協力して何かをすることもない。だから来たいときに来ればいいし、帰りたいときに帰ればいい。帰りどきを見失ったわたしは、完全下校時刻のチャイムまで美術室にいて、気づいたらひとりだった。
 鍵を施錠して職員室に返したところで、顧問の岡本先生に話しかけられた。
「今日はどうだった。思うように描けたかい?」
 岡本先生はこんなふうに、部員のことを気にかけてくれる。真っ白い髪と真っ白い髭がトレードマークで、逆さにしても顔に見える絵みたい。
「はい。でも時間がかかっちゃいました」
「アートは時間をかけるもの。文化祭に間に合わせようなんて思わないこと。いいね」
 岡本先生の言いたいことはわかる。わかるけど、わたしが唯一主役になれるのが、文化祭。コンテストに目標を定めたり、課外活動のために作品を制作している部員もいる。でも、わたしにとっては、文化祭しかない。絶対に作品を完成させないといけない。
 なんて言い返すことはできないし、岡本先生の言葉の意味もわかるから、「はい」とだけ言って職員室を出た。

 もう校舎に残っている人はほとんどいなくて、昇降口に立っている先生が「おつかれ」と声をかけてくれた。
 雨はすっかり弱くなっていた。傘を差さなくても大丈夫なくらい。たぶん天海くんだったら差さない。
 校舎からバス停までの距離と、少しだけ差した傘を干す手間を考えて、わたしも差さないことにした。小走りでバスまで向かって、運転手さんに「お願いします」と言って定期券を見せた。
 放課後になったころは大雨だったから、外で活動する運動部はとっくに帰ったみたいで、完全下校時刻にしてはバスはガラガラだった。みんな一人で座って、隣の席に荷物を置いているせいで、座れるところがない。
 右、左、と首を動かしながら進んでいくと、後ろから三番目の席が空いていた。そちらに腰かけようとしたときに、その反対側から声が飛んできて、わたしはわけがわからなくなった。

 バスがエンジンをふかし、扉がしまったあとで、やっと天海くんが体を動かした。触れ合っていた肩が離れて、物足りないようなほっとしたような気持ちになっていたら、かわりに顔がこっちを向いた。
「ねえ、歌川さん」
 ウタガワサン――天海くんの口から出てきたその言葉は、自分の名前ではないような気がした。だから反応が遅れて、また「ねえ」と言われる。
「は、はい」
「いつも、この時間のバスなの?」
 バスのエンジン音のせいで、天海くんの声は隣にいるわたしにしか聞こえないくらい小さい。もしかして、そのために話しかけるのを待っていた?
「いつも、じゃないけど……」
「曜日によって違う感じ?」
「曜日というか、気分」
「気分?」
 そこからわたしは、岡本先生と話したこと、そのときに考えていたことを、ひとまとめに喋った。天海くんはずっと相槌を打つ役に徹していて、信号でバスが停まったときにようやく、「どんなのを描いてるの?」と聞いてきた。
 自分からその話をしておいて身勝手だけど、いちばん答えにくい質問だった。それは制作途中の作品について語ることはできない、みたいなプロ意識からくるものではない。
 わたしが描いているのは、今隣にいる人だから。

「雨の絵かな」
「へえ。雨、好きなの?」
「うーん。好きなところもあるし、嫌いなところもある」
「たとえば?」
「においは好きだけど、ジメジメするのと濡れるのは嫌かも」
「あ、それはわかる気がする」
 こんなふうに天海くんと会話できている自分がいることに驚く。でもこれは全部天海くんが質問を投げてくれるからで、会話じゃなくてインタビューだ。わたしが自分の話をするだけの空間ができあがっている。
わたしだって、天海くんのことをもっと知りたいのに、何を聞いたらいいのかわからない。
 わたしだって?
 わたしに質問責めをしてくる天海くんは、わたしのことを知りたいと思っているのだろうか。それとも、沈黙に耐えられないから、無理して場を持たせようとしてくれるのだろうか。だとしたら、「座る?」なんて言うの? 座ってもらえる自信がない人は、「座る?」なんて言わない。

 バスが駅前の最後の信号で停まる。
 それまでわたしはずっと、自分の話をしていた。こんなに自分の話をしたのははじめてで、その中にはわたしの知らないわたしもいた。ああ、わたしは本当はこれが好きだったんだ。天海くんが気づかせてくれた。
 わたしも天海くんのことを知りたい。話を聞いてほしいのも半分あるけど、もう半分の話を聞きたい気持ちがある。でも、信号が青になって、バスが駅前のロータリーに到着すれば、バスを降りて、「じゃあね」とか「また明日」とか言って、終わりになる。教室では、特にミキちゃんがいるときには、喋れるわけがないし、今度はいつバスで一緒になるかもわからない。
「ねえ、天海くん」
 アマミクン――わたしの口から出てきたその言葉は、自分の声ではないような気がした。それでも天海くんは「なに?」と返事をする。
「電車、どっち方面?」
 もう止まれない。出てくる言葉を止められない。信号待ちのバスよりも大きく長く、わたしの体は震えている。
「あっち」
「あっちって、どっち」
「歌川さんと一緒」

 雨はもうやんだ。わたしが天海くんの隣にいるために、雨も傘も必要ない。バスの扉が開く音を聞きながら、わたしは描きかけの絵のことを考えていた。

(つづく)


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