【連載小説】発砲美人は嫌われたくない_5

 スエヒロくん、と鱒沢さんの声が飛んできて、僕の背中が上下動した。
「ごめん、驚かせたかな」
 いえ、と曖昧に返事をしてパソコンの画面をチェックする。大丈夫、変なブラウザは立ち上がっていない。
「出張に行ってほしいんだけど」
「出張ですか?」このご時世に、とい言葉を吐き出す寸前で噛み砕く。「オンラインではダメなんですか?」
「クライアントがその手の機械に疎いらしくてね。使い方を覚えてくださいとも、こっちに来てくださいとも言えないだろう」
 それはそうだ。鱒沢さんが出すことのできる指示はせいぜい、直属の部下の僕に「出張に行ってほしいんだけど」と命じることくらいだ。
「まあ、そういうわけで。明日から一週間、北海道ね。急で悪いね」

「明日から一週間、北海道?」
 おうむ返しにしたヤカタさんは「わたしもご同行します」と言った。
 ヤカタさんの部屋で、僕たちは向かい合って座っている。正座の僕と、足を伸ばしたヤカタさん。
「何言っているんですか。これは仕事なんですよ」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないですけど……。でも、そういう相談をしにきたんじゃなくて。僕が留守にしている間、あれを……」
 ちらりと僕は壁越しに自分の部屋を見た。
「ああ、ペットの世話をしてほしいということですね。一週間の間に逃げ出したら大変ですもんね」
「それもそうですし、死なれても困ります」
「そう簡単には死にませんよ。結構しぶといんです、人間って」
 背中をなぞられたような感覚がした。今朝、鱒沢さんに話しかけられたときの驚き――そんなはずはないのに、鱒沢さんにすべてを知られていたらどうしようと焦ったのだった――とは比べものにならないほどの恐怖が、ある。
「ヤカタさん。つかぬことを伺いますが……」
「ダメですよ、昔の話は。今の話と」そう言って、ヤカタさんが立ち上がる。「これからの話をしましょう」

 人が明らかに少ないせいか、搭乗手続き特有のストレスはほとんどなかった。移動によるストレスはそのまま仕事のストレスに直結するから、そこを軽減できたことは良かった。
 しかし、良くないこともある。アメリカ風に言うならば、グッドニュースとバッドニュース、というやつだ。
 スエヒロさあん、と駆け寄ってくる美人がひとり。声のするほうへ顔を向けた人たちが、うっとりしたような表情に変わる。四方八方からの視線を集める美人は、何を隠そうヤカタさん、その人だ。
「荷物、大丈夫そうでした。さ、行きましょう」
 馴れ馴れしく僕の腕をとる素振りから、おそらく僕とヤカタさんはカップルのように思われていることだろう。否、バカップルである。僕は教科書通りのフォーマルスーツ、ヤカタさんは参考書にも載っていないアヴァンギャルドなお召し物。彼氏の出張に付き添う彼女のような組み合わせは公私混同もいいところで、これを会社の人間に見られたらお咎めだけで済むとも思えない。
「ヤカタさん、昨日も言いましたけど」と僕は声を潜める。「ついてくるのなら、もう少し目立たないようにお願いします」
「せっかく楽しみにしてきたのに……嫌ですか?」
「嫌じゃないです」
「それなら良かった。さあ、行きましょう」
 やれやれ、と首をひねるとゴリッという音がした。悩みのタネがあまりにも多く、昨日はろくに眠ることができなかった。
 数え始めたらキリがない。ただでさえ、仕事がうまくできるかどうかという最重要課題があるのに、そこにヤカタさんがくっついてきている。スーツケースの問題もある。
 会社用携帯のバイブレーションが鳴った。「鱒沢さん」と表示されている。
「もしもし、末広です」
「あ、ああ、スエヒロくん? 今、どこにいる?」
「羽田です。もう少しで搭乗するところです」
「ああ、ちょうど良かった。○番のところに行ってくれない?」
 嫌な予感がした。とてつもなく嫌な予感がする。
「クライアントの東京支社の方も同じ便らしくてさ。いやあ、ごめんね。すっかり言い忘れてて。座席は別々のはずだから、とりあえず、あいさつだけしてくれればいいから。向こう着いたらその人についていくように。いいね?」
 何もいいことはない。僕が持っているカードはたった一つ、「わかりました」だけだ。


「というわけなんですよ」とヤカタさんに事情を説明すると、頬を膨らませた。でもそれだけで、「わたしは勝手についてきただけですから」と引き下がってくれた。
 それからは、まるで喧嘩をしたかのように別行動になった。僕は鱒沢さんに指定された場所に向かい、それらしき人を探した。
 しかし、いっこうに見つからない。
 それもそのはずで、僕が知っている情報は、クライアントの東京支社の人いうだけだ。名前はおろか見た目も性別も知らない。
 鱒沢さんに電話をかけようと携帯電話を取り出した瞬間、破裂音が響いた。すぐにいくつもの悲鳴が重なり、出発ロビーは簡単にパニックになった。どの人も咄嗟に頭を抱えて、床に腹ばいになって身をかがめている。
 遅れて、僕も同じようにした。姿勢を低くしてあたりの様子をうかがう。
 すぐ近くで同じような体勢をしている女性と目が合った。その人は不思議そうな顔をしたあとで、「こんなときに、ごめんなさい」と言った。「わたし、東京支社のミサキです。スエヒロさまですよね?」
 こんなときに、と思った。僕はたった一つの「わかりました」のカードすら使い切っている。
「そうです。あいにく、名刺を切らしていまして」

(つづく)

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