【連載小説】パラダイス・シフト_6

「おい、工藤!」
「ああ、カジカジ。おかえり。ずいぶん早かっ――」
 振り返り手を挙げようとした工藤の左頬を、おれの拳が捉えた。はんぺんを素手で掴んだような感触が一瞬で消える。人を殴ったのははじめてだが、聞いていたほど痛みはない。
「ってて……ひどいじゃないか、いきなり」
 わざとらしく薄紅色の頬をさする工藤には、たいして効いていないようだった。
「いい加減にしろよ。もう二度とおれの前に出てくんな」
「ひどいなあ。それを言うために戻ってきたのかい?」
「ったりめぇだ。人の命をなんだと思ってんだよ。だいいち、こんなところで赤の他人を監視しているなんて趣味がわりいな」
 ツカツカ、と音が近づいてくるかと思えば、マーガレットがおれを見上げていた。「アンタ、救いようのないバカね」
「救いよ……おい、今なんつった」
「ねえ、クドウ。なんでこんなやつを3人目に選んだわけ?」
「簡単なことさ。僕たちにないものを持っているから。三匹の子豚だってそうだろう? 藁と木の枝、二匹だけでは狼に負けてしまう。三匹目がレンガを使ったことで、狼に勝てたんだ。カジカジは三匹目の子豚であり、三本目の矢でもある」
「その喩えだと、あたしたちが死ぬことになるんだけど」
「あはは。それは困るね」工藤はおれに向き直ってこう言った。「カジカジ、最後に話を聞いてくれよ。ぜんぶ説明するからさ」

***

「カジ、顔色悪くないか?」
 いつもどおりの喫煙スペース、おれの知らない銘柄の煙をくゆらせて、権藤さんが言った。
 鏡を見る暇もなかったからわからないが、体調は最悪だ。体調だけではない。気分も最悪だ。最悪と最悪を掛け合わせても、最良にはならない。
「ちょっと昨日眠れなくて」
「ああ、暑かったからな」
 そうですね、と適当に相槌を打つ。眠れなかった理由は、無論熱帯夜ではなく、今もポケットの中に角ばった感触とともにある。
 良かったことも少しだけある。磯貝が何も憶えていなかったことだ。ベロベロに酔っ払い、記憶を失った磯貝は、おれが助けてやらなければ死ぬところだった――わけではないが、そのつもりで動いたのだから、感謝はされてしかるべきだ――ことも露知らず、酒くさい顔でパソコンと向き合っていた。
「そうだ、カジ。昨日のことなんだけどさ」
 心臓の鼓動が速まるのを感じた。昨日のことなんだけどさ。昨日のことを、権藤さんが知っている?
「ああ、その、なんだ。磯貝のことだ」
「え、権藤さんも見てたんですか?」
「はあ? 見てたも何も、一緒にいただろう」
 慌てて記憶を辿るが、一睡もしていない脳の引き出しはなかなか開かない。トイレに飛び込んで磯貝を捕まえたとき、近くにいたのだろうか。すぐに停電が起きたから気づかなかった。
「すいません。ちょっと昨日眠れなくて」
 同じ言い訳を繰り返すと、権藤さんはため息まじりの煙を吐き出した。
「ほら、磯貝がカジのことを馬鹿にしたから、俺が怒っただろ」
 一瞬の混乱のあと、すべてを思い出した。「ああ、なんだ、そのことですか」
 なんだ、じゃないだろ、と権藤さんが厳しい顔を見せたが、その語気は強くなかった。「俺もカッとなっただけで、悪かったと思ってるんだ」
「はい」
「だから、俺が悪かったと思っていることを、磯貝に伝えてほしい」
「なんですか、それ。中学生の告白じゃないんですから」
「仕方ないだろ。部署が違うとはいえ、立場がある。面と向かって頭を下げることなんてできない」
 ああ、この人は不器用なんだ、とあらためて思う。「権藤の乱」が起きたときもそうだった。厳しく言いすぎたことはわかっても、それを自分でフォローすることができない。
 おれが権藤さんの代わりに磯貝と話すことは、とても簡単なことだ。それがいちばん手っ取り早い。
 だけど、それではダメな気がした。その場しのぎを繰り返しても、根本的な解決にはならない。権藤さんが変わらなければいけない。
 おれは、ポケットからあれを取り出して言った。
「権藤さん、運試しで決めるってのは、どうですか?」

***

「運試しで使うのはやめたほうがいい」
 工藤がそう忠告したとき、おれはすかさず「お前もやっていたじゃないか」と言った。あの再会のときの、勘定をめぐるやりとりのことだ。
「あはは。カジカジは痛いところを突いてくるね。やめたほうがいいけど、やめないといけないわけではない」
「クソ。またまどろっこしい言い方をしやがって」
「ごめんごめん。このパラダイスはとても貴重なものでね、ただしその価値がわかる人とわからない人がいる」
「要は、最初のおれみたいに、普通のサイコロだと勘違いするやつもいるってことだろ?」
 お見事、とマーガレットが口を挟む。「この数十分でずいぶん物分かりがよくなったわね」
 この数十分間は、理解できないことの連続だった。工藤がまどろっこしい説明をして、おれが自分なりの言葉に変換して、それをマーガレットにチェックしてもらう。あっという間に時間が過ぎた。

 わかったことがいくつかある。
 ひとつ、モニターは本当に未来の様子を映しているということ。
 ふたつ、三分より先の未来は変えることができるということ。
 みっつ、そのためにはパラダイスを振る必要があるということ。
 要するに、工藤たちはモニターを通して他人の未来を覗き見て、気分次第その未来を変えることができるらしい。
 工藤たち――すなわち、工藤と、マーガレットと、そしておれだ。

 そしてもうひとつ、磯貝の種明かしはこうだ。
 おれはてっきり磯貝が死ぬから画面がブラックアウトしていたのだと思った。だから全速力で助けにいったのだ。ところが磯貝は死ぬこともなく、ただ停電が起きただけだった。停電のせいで画面がブラックアウトしていただけだ。そう思って、ここに戻ってきて工藤を殴った。
 結論からいえば、これも間違いだ。
 磯貝は本当に死ぬところだった。おおかた、千鳥足でホームから転落することになっていたのだろう。
 では、なぜ死ななかったのか。工藤がパラダイスを振ったからだ。それにより磯貝の未来が変わった。磯貝の未来が変わったことは、おれの未来にも、権藤さんの未来にも影響を及ぼした。
「誰かを助けるのは簡単なんだ。パラダイスを振ればいい。それだけだ。回数制限もないし、それによる代償もない」
 工藤はそう教えてくれた。「だけどね、カジカジ」そのあとに続く言葉は、なんとなく予想ができた。
「じゃあ、僕たちは何度未来を変えれば気が済むんだろうね」 

(つづく)
 

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