【連載小説】発砲美人は嫌われたくない_1

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 ぱあん、ぱあん、とリズミカルな音が聞こえてきて、僕は世界を閉ざした。
 ここのところ、ずっとだ。具体的には、四日連続になる。
 はじめて聞こえたのが三日前で、腹を立てて壁を叩いたのが二日前。それを管理人に注意された昨日から、イヤフォンで大音量の音楽を流すことにした。サブスクリプション・サービスのランキング上位を独占する、素性が謎に包まれた二人組ユニットの曲。
 ハイハット・シンバルを打ち鳴らす音が、ぱあん、ぱあん、と聞こえるようで落ち着かない。たまらずバラードを流すと、ローテンポなイントロでは、本物の音が聞こえる始末で、八方ふさがりだ。
 どうしてこんな状況になったのかといえば、話は三日前に遡る。

「隣に越してきたヤカタです」
 開けた扉のすぐそばで、マスク姿の女性が会釈をした。
 その数十分前に、僕は宅配サービスで昼食を頼んだところで、玄関前に置いてもらうように伝えていた。だからインターフォンが鳴ったとき、それが届いたものだと思い、無防備な格好で扉を開けた。白のタンクトップに、トランクスが少しだけ長くなったようなステテコ。当然マスクはしていないし、無精ひげが伸びていた。
 これでも二十代前半の社会人だ。外に出るとき、とりわけ女性に会うときは、それなりに身なりに気をつかう。
 それは裏を返せば、人に会わないなら身なりに気をつかわないことになる。
 今日はその予定だったのに――。

 つまらないものですが、とヤカタさんは箱を差し出してきた。宅配便でさえ対面受け取りを控えるこのご時世に、不用心ながら僕はそれを受け取った。見た目のわりには重量があり、ヤカタさんよりも腕の位置が下がってしまう。
「ご、丁寧にありがとうございます」それで終わっても良かったが、相手が名乗っているわけだし、と「末広です」
 ヤカタさんは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、「スエヒロ」と呟いた。同年代らしいとはいえ、いきなり呼び捨てにするとは馴れ馴れしいのではないかと思っていると、「素敵なお名前ですね」と続けられ、心中の発言を撤回する。
「よく言われます」
 はにかんだでみたものの、起きてから歯を磨いた記憶がなくて、すぐに口を結ぶ。
「ほら、わたしも八方なので、八が入っていて」
「ああ。お互い、縁起がいいですね」
「ええ。これも何かのご縁ですね。よろしくお願いします」
 八方さんは、エレベーターホールのほうへと踵を返した。つまり部屋番号が若いほう、802号室ということだ。

 宅配サービスは八方さんの三分後に来た。腹を空かせていたから、すぐにたいらげて、食後にはたっぷり昼寝をした。
 自由に過ごすことを許された休日、何をしようが僕の自由だ。
 そういうわけで、「つまらないもの」は開封することもないまま、電子レンジの上に放置された。どうしてそこに置いたのかと聞かれれば、答えは至極簡単で、「そこに置き場所があったから」だ。

 最初の異変はその晩、日付が回ろうかという時分のことだった。
 昼寝をしたことで、夜ふかしを決め込んでいた僕は、録画した金曜ロードショーを観ながら晩酌をしていた。
 プリズン・ブレイクものの映画のクライマックスで、決死の逃亡を続けていた主人公が、拳銃を構えた警官に囲まれ、両手を小さく挙げている。哀しいバイオリンのメロディーが流れ、これまでの逃亡劇が走馬灯のように映し出される。
 そしてバイオリンの音色が途切れ、油で汚れた主人公の顔をカメラがアップにした瞬間、ぱあん、と銃声が鳴った。
 隣の部屋からだった。隣の部屋、というのは、八方さんの部屋だ。
 もう一発、ぱあん。
 僕は思わず「え?」と言った。背を向けていた壁を振り返ると、それを待っていたかのように、さらに一発。
 今度は反対側から聞こえてきて、それはつまりテレビ画面からの音で、主人公がスローモーションで倒れていくところだった。
 録画を一時停止して、しばらくじっとしていた。
 しかし、それ以降、物音は一切しなかった。

 その翌日、つまり二日前、同じ音が聞こえてきたときは、さすがに銃声だとは感じなかった。
 拳銃を撃つぞ、撃つぞ、というシーンを観ているときに、それに近い音が聞こえてきたから錯覚してしまっただけだ。よく耳を澄ましてみるとそれは拳銃ではなく、蕎麦やうどんを打つときの音に近いようだ。やわらかいものを打ちつけたときの扁平的な音だ。
 昨日は試運転や準備体操みたいなもので、ちょうどギターのチューニングの役割だったのだろう。無事に調律を終えたということは、今日からが本番なのかもしれない。
 ぱあん、ぱあん、と音は十分近く続いた。
 その途中、三分くらい音が続いたところで、僕は壁を叩いてみた。壁を叩くことでやむのか、それを実験してみたくなったのだ。
 結果は不発だった。音はやむことも、強まることも弱まることもない。
 すぐに次の実験にうつる。音と同じテンポで壁を叩いてみた。それでも特に変化はなかったが、同じリズムを追体験することで、ひとつだけ気づいたことがあった。
それは、三秒に一回のペースで音が鳴っていることだ。
 五分くらい、三秒に一回のペースで壁を叩くと、どうなるか。
 翌日、僕は管理人にこっぴどく注意された。

 僕がこっぴどく注意されようが、それで壁を叩くことをやめようが、八方さんの部屋からの音はやまない。
 三日続くと、この先永遠に続くような気がしてくる。昨日、一昨日は休日だったからまだ良かった。仕事を終えて帰宅し、布団に入ったあとで音が聞こえてくると、さすがにイライラする。
 たしかに八方さんの第一印象は「素敵な隣人」だった。隣人でなくても、素敵な女性に違いない。それを少しずつマイナスにしてしまうくらい、音はストレスになるらしい。
 拳銃、蕎麦やうどん、を経由した。ずいぶん遠回りをしたが、冷静に考えれば、この音の正体はすぐにわかる。夜中、うら若い女性の部屋から聞こえてくる、肉体どうしがぶつかり合うような扁平な音。
まさか八方さんが、と信じたくなかっただけだ。
 その事実にようやく思い至り、僕は耳を塞いだ。

 やっと今日まで戻ってこられた。
 この三日間を思い返している間に、バラードは終わり、ためしにイヤフォンを外すと、隣室からの音もやんでいた。
 回想を終えたらやろうと思っていたことが一つある。
 電子レンジの上に置かれた「つまらないもの」の開封だ。回想を始めるまで、その存在をすっかり忘れていた。
 手に持ってみると、やはり見た目以上にずしりと来るものがある。「つまらないもの」の定番である、タオルやティッシュではなさそうだ。洗剤くらいの重さはある。
 ひと昔前までは、蕎麦を贈る習慣があったという。いわゆる引っ越し蕎麦というやつだ。「細く長くお世話になります」という意味があるらしい。ぱあん、という扁平な音が、本当に蕎麦を打つ音だったらおもしろいな、と思いながら、包装紙をビリビリに破いた。
 箱には何も書かれていない。ただの白い箱だ。シールやテープすら貼られていない。蓋がちょこんと乗せられただけで、だから油断した。
 おそるおそる、ではなく、気軽に開けてしまった。
そして中身を見た瞬間、中身ごと箱を落っことした。箱ごと落としたおかげで衝撃音こそ小さかったが、箱の上で中身が少し跳ねた。

 その音がうるさかったにしては、あまりにも苦情が早すぎる。
 こんな時間に、インターフォンが鳴った。ひっ、と自分の声が背中のほうから漏れた。
 居留守を使うことを諦めたのは、扉の向こうから「八方です」と聞こえてきたからだ。タイミングが良いのか悪いのかわからない。
 僕はきちんと蓋をしめた箱を抱え、扉を開けた。
「夜分すみません」とぺこりと頭を下げる八方さんは、ぜんぜんすまなそうではなかった。およそ寝間着とは言いがたい洋服を纏っている。
「八方さん、これ……」
「はい。中身を見ましたか?」
「見ま、した……。いや、見るつもりはなかったというか、すいません。これ、お返しします。たぶん、大事なものですよね?」
「いいんです。差し支えなければ、それを持って、わたしの部屋に来ていただけませんか? お話ししたいことがあります」
 翌日も仕事だから早く休みたいとか、そんなことはどうでも良かった。どっちにしたって、このまま眠れそうにはないのだから。

 八方さんの部屋は、三日前に引っ越してきたことを差し引いても、引っ越してきたばかりのように殺風景だった。
 ほとんど何もない。玄関の隅に大型のスーツケースが置かれているだけで、あとはワンルームの窓を遮光カーテンが覆っているくらいだ。
「立ち話もなんですから」と八方さんが示した場所には、フローリングしかない。そこにあぐらをかき、脇に白い箱を置いた。
 八方さんには透明なちゃぶ台が見えているらしく、ちょうどそのくらいの距離を空けて、向かい合って座る。
「中身を見たんですよね」
 いきなり尋問が始まり、僕は「はい」と言って箱に目配せをする。「見ました」
「どう思いました?」
「どうって……」
「率直な感想で結構です。どう思いました?」
「なんで、なんでこんな物が、って思いました」言ってから、「こんな物」はまずかったかと顔色を窺う。八方さんはさほど気にしていないようだった。
「それはわたしの物です」
 そうだろうな、と思っていた。何かの手違いで、引っ越しあいさつの粗品と、自分の持ち物がすり替わってしまったのだろう。よりによって、他人には見せていけないものを。それがこの短時間で僕が導き出した結論だ。
「お返しします」と箱をフローリングに滑らせる。
 八方さんは箱を大事そうに抱え、ためらいもなく蓋を開けた。中身を取り出し、その黒光りするボディをさっと撫でた。そして巻き戻しをするかのように、箱にしまう。
「取り違えたわけではないんです。この拳銃を、末広さんに預かっていただきたいんです」
 ケンジュウ。そう、中身は紛れもない拳銃だった。あのプリズン・ブレイクものの映画で、警官たちが構えていた、アレだ。
 僕が黙っていると、八方さんは同じ言葉を繰り返した。そして甘えるような声で、「わたしのこと、嫌いですか?」
 その目を見て、「嫌いです」なんて言えるはずがない。
 僕を射すくめた眼光の鋭さは、アレを使ったことがある人のものだったから。

(つづく)

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