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こどもの頃のお話

できるだけ毎日投稿したいなという思いがあり、色々と話題を考えてみた。

自叙伝風に書きたいなということもあるので、わたしのことを色々と書いていけばいいかということに思いついた。

ということで、本日はこどもの頃のお話を書いてみよう。

長くなると思うので、大体の感じで分けてみようと思う。


・生まれてから幼稚園まで


ごくごく普通の家庭に生まれる。

きょうだいはいないので、常に大人に囲まれていたので年齢の近い子達と絡みづらいのはこの環境にも影響してると思う。

そして、自覚がない頃から父方の祖母からの虐待があった。

加えて異常なレベルの父方の祖母による監視があった為、知らず知らずストレスがあったのだろう。

こういう背景もあり、幼稚園に行きだしても誰とも絡めず一人でいることが多かった。

ただ、母が守ってくれたり、母をはじめ母方の祖父母や親戚に可愛がってもらっていた記憶がある。


・小学生時代


低学年の頃は、多少は友達もでき遊んだりそれなりに楽しかった。

ただし、ここでも父方の祖母による監視などの影響で友達から敬遠されがちだった。

高学年になっていくと、クラスに馴染めなかったことやいじめられていたこともあり孤立することが増えた。

休憩時間に給食を教室で食べること、学校に行くこと自体が苦痛になったのもこの時期からだった。

この頃から父親の浮気が原因で両親が不仲になり、家庭内がギクシャクしだす。

両親共働きだったが、事実上母親のワンオペでありわたし一人家に残すことや父方の祖父母宅に預けることを恐れた母は、常にわたしを職場や色んな所に連れて行ってくれていた。

幼いながらも、色んな仕事を間近で見るいい機会だったなと今ではとても感謝している。

加えて、母はわたしに習い事をさせてくれた。

同じ年代の子たちとの交流であったり、母自身がやっていた習い事やわたしにさせたかったことをやらせてくれたことはとても良かったと思う。

習い事に関しても、書道以外に関しては母が「やってみる?」と決定権をわたしに委ねていた。

この頃から、自分の意志で決めることを教えてくれたのだろう。


・中学生時代


中学生になってからは、3年間ほぼいじめられていた。

保健室登校を始めたり、行くふりをして公園で過ごすことも増えた。

ただ、親に言うことができなかった、心配させたくなかったので一人で悩み続けていた。

そして、家庭内でも父親の勝手な転職で経済面が苦しくなっていく。

それでも父方の祖母は、母とわたしに対して精神的虐待を繰り返し行っていた。

わたしに対しては、影で暴力も振るっていた為、この時期に初めて祖母に対して反撃したわたしの言い分を一切聞かずわたしを悪者に決めつけてきた父や祖父に対しド正論をかまし祖母を完膚なきまでに叩き潰した。

この時、母がとても中立な立場で話を聞き意見したことも効果的だったのだと思う。 

これを機に、祖母はわたしと母に対してご機嫌を伺い始め、わたしを怖いと思い始める。

それもそうだろう。

それまでずっと、母もわたしも耐えてきたんだから。

長年耐えていたことに対し一度爆発しただけだ。

祖母は、それでも被害者ぶったし常に祖母自身が気に入っているよその子(近所の友達)とその親ばかりを褒めちぎり、わたしや母のことを存在否定、人格否定し続けた。

これは祖母が死ぬまで変わらなかったが、こちらが反論する、酷い時は睨みつけるだけで黙らせた。

こういう背景があり、わたしは父方の祖母が死んだ時は通夜には渋々出たが、葬式には参列しなかった(それは暫く先の話)。


・高校時代


高校に入ってからは、3年間ずっといじめられていた。

今で言うスクールカウンセラー(外部から先生が来て個人面談)を利用していた。

これにプラスして保健室登校もしていた。

担任もハラスメントのデパートだったし、クラスメイトも殆どがヤンキーという地獄のクラスだった。

厳しいことを言う母でさえ、愕然とし

「このクラスは酷すぎる。これでは勉強したいのにできないし、好きなものも嫌いになってしまう。無理はしなくていい」

と言うほどのものだった。

結局、高校入学当初に予定していた進路から大幅に変更し、このクラスには3年間我慢し卒業はしたものの大学は全く違う大学に行った。

部活動は楽しかったが、先輩からのいじめ、顧問から良いように小間使いにされることはあった。

進路変更したのも、部活動がきっかけだった。

受験勉強はとても大変だったけれど、母のバックアップや応援もあったので(父からは大反対された)充実したと思う。

その大学を卒業することはできなかったことは大きな心残りだが(この世は学歴社会なので学歴差別が生じている)、進路変更したことに対して後悔はない。

家庭内では、両親がほぼ別居だったこともあり関係は破綻していた。

このタイミングで、更なる父親の身勝手な転職があり母もわたしも呆れていた(それでも父方の祖母はわたしや母を罵倒していた)。

まだこの時点では、父もどこかしら後ろめたさはあったのだろう…多少の金銭面の援助は行っていた。

わたしが、両親に「この高校に行きます」と言った時の両親の言葉が未だに忘れられない。

母は、「あなたの決めた道だから、頑張るんだよ」と背中を押してくれた。

対して父は、

「何でそんな金のかかる高校に行くんだ。お前みたいな馬鹿は高校なんか行かなくていい、風俗とかで身体売って働け。」

わたしはこの時点で、こんな奴の血がわたしの身体に流れていることに絶望した。

自分の転職は棚に上げて、実の娘にそんなことが言えるのか?

父の人間性を疑った。

流石に母も絶句していたし、わたしへのフォローをすかさず行っていた。

父のこの一言を気に、わたしは一切父とは口を聞いていない。

これ以降父とわたしは母を介して会話をする形になったが、父に対しては絶望感と嫌悪感しか無かったので存在を無視し続けた。

こういう状況は、母方の祖父母達は分かっていたので

「Nagomiもお母さんも、ここに住まわすわけにはいかないけどある程度なら泊まっても構わない。辛くなったらいつでも帰っておいで。美味しいご飯ならいつでも用意して待ってるから!」

といつもそう言ってくれたこと、支えてくれたことは本当に感謝している。


わたしがいじめられて辛い時でも、反抗的になったりこの時点でヤンキーになったりしなかったのは母や母方の祖父母の存在が大きかったのだと思う。

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