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社会科学を学んで良かったこと。「思考の枠組み」を手に入れる。

私は大学院で国際関係学を専攻している。学部時代は文学部で美学美術史を勉強していたため、今の専門とは随分違っている。本当は、大学院でも美術系を専攻したかったのだけれど、日本以外の大学院に進学することを最優先にしたために、国際関係学に進むことになった。(美術系の修士課程でちょうどいいものが見つけられなかった。)

こういう経緯だったから、1セメスター目はとくに授業についていくのに必死だった。政治・経済・国際開発系の授業が主だったのだが、美術を専攻していた私には、その知識がほとんどなかった。きっと、大学院レベルにしてはかなり基礎的な部分から説明されていたのだとは思うけれど、英語というバリアも相まってさっぱり分からないこともあった。

例えば、国際政治の授業でリアリズム、リベラリズム、コンストラクティビズムを扱ったのだが、それぞれの特徴と違いを理解するだけでも時間がかかり、日本語でまとめ記事やYouTube動画をあさった。2セメスター以降は、要領も良くなりそこまで苦労することは無くなったが、それでも論文の5割ほどしか理解できないこともままある。やっぱり自分は社会科学よりも美術が向いている、好きだと思ったこともあった。

けれど、最近は、美術だけでなく社会科学もやって良かったと思えるようになった。必ずしも修士課程として学ぶ必要はないだろうが、それでも社会科学的なものの見方ができるようになると、人生の色々な場面でいいことがあると思う。

一つ目に、社会科学を学ぶことで、ある事象について考える際の「思考の枠組み」を得られる。より正確に言えば、私の場合はそもそも「思考の枠組み」というものがあること自体をちゃんと認識していなかった。

例えば、国際関係学で「戦争」というトピックについて考える際、リアリズム、リベラリズム、コンストラクティビズムという3つの異なるセオリーから論じるのが正攻法の一つだ。戦争は一つの事象ではあるが、3つの観点のうちどれを自分が選択するかによって、違った論じ方ができるようになる。

はじめは、リアリズム、リベラリズム、コンストラクティビズム…様々なセオリーを知ることがどのように/なぜ大切なのか分からないままだったが、とにかく、それぞれを理解してみようとした。そうすることで、徐々にどの観点が正しい・信じるといった範疇を超えられるようにもなり、ある事象に向き合う際に、それらセオリーの一つ一つを当てはめて様々な解釈ができるようになった。

やや話が飛躍するが、山口周さんの『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』を読んだときも同じようなことを感じた。この本では、「人」「組織」「社会」「思考」という4つのキーコンセプト(シチュエーション)にアプローチする際、有益な「武器」となる様々な思想を端的にまとめている。例えば、「人」=「なぜ、この人はこんなことをするのか」を考える際のヒントとしては、アリストテレスの「ロゴス・エトス・パトス」やハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」の主張などがピックアップされている。

私は読み進めながら、たとえ数百年前の思想や主張でもそれは古いさび付いたものでは決してなく、現代に起こる事象や問題にも十分に活用できる「思考の武器」だと分かりワクワクした。

これら4つのキーコンセプト以外にも、もっと個人的なこと、例えば「自分って本当は何がしたいんだろう」と将来に迷った時には、サルトルのアンガージュマンという「思考ツール」を引っ張り出し、自分の状況に「えいやっ」と当てはめて模索することができる。

医療や科学、コンピューターなどの分野では、ある問題が生じた時には、こう対処するという一種のパターン/処方箋が確立されている場合が多いだろう(おそらく)。一方で、人生や個人的な悩みといった曖昧で捉えどころのない事柄に立ち向かう際の処方箋が、哲学や社会科学的知見なのだと思う。


数十年の人生経験に基づいて、自分一人の頭で考えようとしたところでたかが知れている。それよりも、知の巨人たちによって世紀を超えて磨かれてきた思想を拝借して当てはめてみると、個人的な事柄でもずっと理解しやすくなり、何らかの対処もできるようになるのではないだろうか。

これは全くの余談だけれど、その本では取り上げられた哲学者や思想家、それぞれの生誕年と没年が記載されており、彼らは比較的長生きしていることに気がついた。対して、芸術家にはそういうイメージはあまりないし、自ら命を絶つケースや精神的健康を損なうケースも少なくない気がする。

哲学者も芸術家も似たようなテイストを持っていそうにも関わらず(生や死、愛などを追求している)、なぜこの違いがあるのかとぼんやり考えて気がついたのが、「哲学者はそれぞれが得た『思考の枠組み』でもって客観的に世の中や人生を『考える』ことができる」のに対し「それを持ちえない芸術家は『考える』というよりも『悩む』に終始している」からではないか、ということだった。

これは私がただ思っただけで確かめようもない。けれど、私は哲学者のように「思考の枠組み」を身につけ「考える」生き方をしたいと思った。

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