形式に対して解像度が粗い〜『ダンス・ウィズ・ミー』
日常生活の中で突然歌い踊ってミュージカル・ワールドに没入しはじめたら、唖然とされる。かと思えば、ミュージカルに対する反発を熱弁したら、白い目で見られる。
結局、この世界はミュージカルをどう位置づけたいの?
『ダンス・ウィズ・ミー』は、「ミュージカルをやりたかった」けれど「ミュージカルに対して疑問を抱いていた」という矢口史靖監督の新作である。
8月31日に見てきた。
ミュージカルという形式の核心を作品の出発点にしていることで、楽しみにしていた。だが、肝心のミュージカルに対する作品全体で貫かれるスタンスは、冒頭の通り非常に中途半端なものと言わざるをえない。
大手(と思われる)企業で働く鈴木静香は、ある時落ちぶれた催眠術師マーチン上田の「ミュージカル・スターになる」という暗示にかかってしまい、音楽が聞こえると歌って踊らずにはいられなくなってしまう。実は、静香は小学生の頃の学芸会で失敗した過去を引きずっており、ミュージカルに対する苦手意識をこじらせてしまっていた。にもかかわらず、催眠のせいで我を忘れて歌い踊ることで場をめちゃくちゃにしてしまう静香は、夜逃げした催眠術師を追って、お調子者の元助手・斎藤千絵と旅を始める。
と、あらすじを見るに、ミュージカルの「不自然さ」を巡る映画であることは推察される。
しかし、いざ映画を見てみると、映画自体のミュージカルという芸術に対するスタンスや、ミュージカルであることによって可能になる表現の追求が全く中途半端で、激しく消化不良・不完全燃焼な気持ちを味わった。
まず、「劇中のどの時点で静香の歌やダンスが破壊的でなくなるか」というターニングポイントがクリアーに描けていない。
暗示にかかった静香(三吉彩香)はマンションや会社、レストランで気持ちよく音楽に乗せて歌い踊るものの、彼女を取り巻く環境はミュージカル・モードと齟齬を起こしてしっちゃかめっちゃかになる。音楽が止まり我にかえった静香は、いたたまれなくなってその場を逃げ出さざるをえなくなる。
このように、映画前半での静香の歌とダンスは基本的に秩序を破壊する行為として描かれる。
しかし、やしろ優演じる催眠術師の元助手・千絵と旅に出る中で、静香の歌・ダンスは破壊的なものから協働的なものへと変化していく。ダンス・バトルでイキり合う新潟の不良グループに巻き込まれた時には静香(と千絵)のダンスが場を収め、ドレス姿でギターを爪弾く路上シンガーの歌に飛び入り参加して旅費を稼ぐといった具合に。ちなみに、千絵は歌い踊ることに反発するどころか積極的であり、ミュージカルのスタジオを開設することを夢見るキャラクターとして造形されている。
『ダンス・ウィズ・ミー』は、学芸会というハレの場で大失敗してから歌とダンスを拒絶している静香が、歌い踊る行為は日常から切り離された特別で異様なものではなく、日常から地続きでありつつほんの少し祝祭へ飛躍するものなのだ、ということを学んでいくストーリー・ラインを有している映画と大雑把にまとめることができるだろう。
とすると、静香がミュージカルへのスタンスを変えていく契機は、作品の中で非常に重要になると思われるだろう。残念ながら、この映画では転換が全く際立っていなかった。
静香はいつの間にか、場を荒立てずに他者と歌い踊ることができるようになっているのである。
静香が最初に、他者と共に歌い踊る場面は、実は旅立ちを決意する以前に置かれてしまっている。三浦貴大演じる上司・村上涼介が、静香を引き抜こうとマンションの前で待ち構えている場面である。
この上司は、物腰は柔らかいがいちいち気障ったらしい人物として描写されている。
車から流れる音楽に乗せて、静香は上司の手を取り踊り出し、上司は静香を拒絶せず、共に踊る。
このダンス場面のカメラ・ワークや振り付けは、『バンド・ワゴン』の「暗闇でダンス」("Dancing in the Dark")のオマージュである(あるいは、「暗闇でダンス」をオマージュした『ラ・ラ・ランド』の「素敵な夜」("A Lovely Night")のさらなるオマージュか)
上司と静香がデュエット・ダンスを踊る場面が置かれていることで、秩序破壊的な歌・ダンスが協働的な歌・ダンスへと変化していくことと、静香のミュージカルに対する認識の変化との連動が途絶えてしまうこととなる。
上司と静香のダンスは、『ダンス・ウィズ・ミー』の弱点をもう一点照らし出す。
ミュージカルでは、同じ身体モードで生きることができる二人は伴侶となるポテンシャルを有するという暗黙の了解がある。『バンド・ワゴン』のアステアとチャリースのように、『ラ・ラ・ランド』のゴズリングとストーンのように。
だが、『ダンス・ウィズ・ミー』の静香と上司は伴侶とはならない。静香は暗示が解けた後、職場に復帰せずに千絵が開設したミュージカル・スタジオに向かう。彼女が伴侶とするのは、千絵なのである。
ミュージカル・ワールドを共有できるが気障で周囲からも「できる上司」キャラ化された=自然体ではない上司ではなく、自然体で歌と踊りを楽しむ千絵を選ぶという理屈は通っている。
であるならば、静香と千絵は、同じ身体モードで歌い踊り、同じミュージカル・ワールドを共有できる関係であることが随所で示されなければ、それなりに長尺のデュエット・ダンスが描く上司との親密さ(その可能性)を凌駕することはだいぶ。そして、この映画では凌駕できていなかったと感じられた。
静香と千絵がともに歌い踊る場面を整理すると、
①カーステレオの音楽をつけるつけないで一悶着
②カーステレオの音楽をともに歌う
③不良グループのダンス・バトルに巻き込まれる
④路上シンガーの歌に飛び入り参加する
⑤路上シンガーのホテルでのパフォーマンスに参加する
となる(確か)。
二人の関係性構築において、①と②はささやかながら非常に重要な場面であることがわかる。
①で千絵は静香が暗示にかかって歌い踊らずにいられない状態になっていることを知る。②でともに歌うにあたって、「歌い踊ると他者から白い目で見られて静香はいたたまれなくなる」というハードルが乗り越えなければならない。
しかし、本作では静香と千絵の関係の間に設けられたハードルに対し、劇的な葛藤や衝突は全然丁寧に描かれていなかった。静香の歌とダンスが連帯をもたらすものへと変化していくきっかけとなるというミュージカル的にきわめて大事な場面なはずなのに、ミュージカルとして大事に描かれていないことが残念だった。
毎日新聞の記事を見るに、矢口監督はミュージカルが持つ矛盾や弱点を『ダンス・ウィズ・ミー』では回避や解消ができていると考えている模様だ。
だが、回避や解消できた、ということは、ミュージカルとして練られている、ということとは決してイコールではない。
ミュージカルという形式では、作劇上の趣向があの手この手で試みられ、劇作法の土壌は踏み込んでみると豊かに広がっている。
ミュージカルという形式に対する解像度の粗さが拭えない作品だった。
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