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3.12 財布の日

夜更けにアパートのチャイムが鳴った。
僕は隣で寝ている彼女が起きていないことを確認してから、目をこすってそっとベッドを這い出た。
したたかに酔っている彼女としたたかに酔っている僕の違いは、酔うと寝てしまうタイプか、かえって過敏症になってしまうタイプかだと思う。
空き缶の転がったダイニングテーブルの横を、ほとんど無意識のまま玄関に向かう。
左足のすねを流し台の角にぶつけたために、痛みで少し目が覚めた。
「・・・いやいや、こんな時間におかしいだろ」
月明かりを頼りに壁掛け時計を見ると、二本の針は十二時二分を指していた。
「これは、もしかして」
僕は念のため、納戸から掃除機を取りだして構えた。戦えそうな長い棒が他に見あたらなかったためだ。
僕の寝起きの脳みそにわきあがってきた想像はこうだ。
実は彼女にはとても怖い彼氏がいる。
その彼氏はきっとストーカー気質で、彼女の携帯電話に勝手にGPSアプリをインストールしている。彼女はそれを知らない。
今夜、正しくは昨晩に彼女は友達と飲みに行くと言って彼氏の家を出た。
しかし、会っていたのは僕だ。
飲み過ぎた彼女は彼氏にアリバイ工作をすることもなくこの家に来て僕とベッドに入った。
GPSのアプリは僕のアパートの場所を点滅しながら指し示し続けていたことだろう。
怖い彼氏は鬼のような形相で僕のアパートを、つまり彼女のいるこの現在地を突きとめた。
そして、片っ端からアパートのチャイムを鳴らしている。
僕は、怖い彼氏に勝てるだろうか?

狸寝入りをしようとしても、怖い彼氏はなにせ怖いから、明日彼女が部屋から出てくるまで電信柱の後ろで待っているかもしれない。
夜戦うよりも朝弱ったところで対戦すべきだろうか。
そんなことをぐるぐると考えているうちにまたチャイムが鳴った。僕の焦りと裏腹に、のんびりとした音が響く。

このままでは彼女が起きてしまう。

とりあえず相手を確かめるために、僕は忍び足で玄関までの短い廊下を進み、上体を伸ばして覗き穴から外の様子をうかがった。
「ん?」
狭い視界に見えたのは、何の変哲もないお向かいの家の玄関だけだ。
冷たいドアに耳を押し当ててみたが、物音ひとつしない。もしかすると、怖い彼氏は諦めて帰ったのかもしれない。
十分ほどしても状況が変わらなかったので、僕はそっとドアを開けてみた。

やはり冷たい夜風が吹き込んできただけで、変わった様子はない。
「よかった。酔っぱらいが部屋間違ったかな?よし、寝よう」
「いやいや、お待ちください」
「ひえっ!」
僕は文字通り腰を抜かした。ついでに彼女のヒールの高い靴を踏んだ拍子にすっ転んで尻を打った。掃除機は洗面所の方に飛んでいった。
「大丈夫ですか?」
慌てて中に入ってきたのは、尻餅をついた僕と目線の高さがまったく変わらない、むくむくの獣。
二足歩行の狸だった。
「お、おば、おばけ!」
目をむいてムンクの叫びのような顔になった僕を見て驚いた狸が、同じような顔で叫んだ。
「た、たぬ、たぬきです!」
しばらく同じ顔で固まっていた我々だったが、狸がどうみても丸々と毛並みのよい獣にしか見えず、さらにその獣が眉毛が太くて表情豊かだったので、僕のほうが先に怖さを失った。
「あの、どちらの狸様ですか?」
僕より少し長く驚き顔をしていた狸は、それが恥ずかしくなったのか急にはにかんでもじもじしながら答えた。

「居酒屋きゅうべえの裏に住んでいる者です。今日、あなたの残したあぶらげと鳥皮をいただきまして。ごちそうさまでした」
「ああ、さっきまでいたあのきゅうべえの。一緒にいた女性が急に眠くなったと言い出したから、途中で出てしまったんです。心残りだったから、あなたが食べてくれて良かった」
「あそこの鳥皮はぜっぴんなので、また食べにくるとよいですよ。でも、ぜっぴんすぎて皆残さないのでおいらはなかなかありつけないのですが」
「そう聞くと、やっぱり食べられなかったのは心残りだなあ。また行きます。それで、今日はそれを言いに来てくれたんですか?時間も遅いので、その」
純真無垢を形にしたような狸が鳥皮のうまさを語りながら爛々と目を輝かせるので、僕は話を切り上げづらくなっていた。
狸はハッとして、背中に背負っていた緑の風呂敷を短い手で漁りはじめた。狸に風呂敷なんて、昔話みたいでかわいらしい。
狸は折り畳んだ隙間から懸命に何かを取りだした。最後まで抜き取ると、それを大事そうに両手で僕に差し出す。

「これを落としていかれましたよ。匂いを追って、来るのが遅くなりましてすみません」
狸が手渡してくれたのは、見慣れた紺色の僕の革財布だった。
「あ!僕の!」
「そうでしょう?鳥革の串と同じ匂いがしたもので。女の子と出て行ったようでしたし、お金が無いんじゃ色々と格好がつかなかったり、困ったりするのではと思って慌てて届けにきた次第です」
狸の口から出てきた色々と、が何だか含みのある恥ずかしい意味のような気がして、僕は黙って頬を赤らめた。
「夜分遅くにありがとうございました」
「いや、なんの。おいらも一応立派な漢ですからね。こういう時は助け合わないと」
にっこりと目を細めた狸の言葉には裏の意味などないのだろうが、浅ましい人間の僕はつい深読みしてしまい、今度は耳まで赤くなってしまった。
「では、これで」
「あ!待ってください!」
僕は裸足のまま急いで部屋に駆け戻り、冷蔵庫からありったけの食材を掴んで玄関に戻った。
「こんな、ほとんどレトルトしか無いんですけど、よければお礼にどうぞ」

貧しい食生活で申し訳ないと少し反省する。
しかし、狸は目を輝かせて食材を吟味した後、サラダチキンを一本だけ手に取った。
「いや、全部差し上げますよ。僕の漢の沽券を守ってくれたお礼に」
「いいんですいいんです。たぬきはそんなに持てませんし、気持ちだけで十分です。
それに、食べてみたかったんですよ、このサラダチキンってやつ。痩せるし筋肉がつくんでしょう?楽しみだなあ!」
狸はほくほくとした顔で背負った風呂敷の隙間にぎゅっとサラダチキンを半分ほどねじ込んだ。
「では、これで」
「本当に、ありがとうございました」

僕が深々とお辞儀をすると、狸も「これはかえって」と言って深々とお辞儀を返してくれた。
僕が玄関先まで見送ると、狸は何度もこちらを振り向いては手を振り返して、五度目くらいでついに見えなくなった。
不思議と喋る狸への恐怖は無くなり、僕は心優しい友人が出来た気持ちだった。
今度きゅうべえに行った時は、鳥皮をお持ち帰りにしてもらって、あの狸にプレゼントしよう。
鳥皮はちょっと多めがいい。
きっとあの立派な漢狸にも、素敵なガールフレンドがいることだろうと思うから。
夜闇は深々と冷えこみ、僕は寒空の下で昔話みたいにひとつ大きくくしゃみをした。

3.12 財布の日
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