わたしたちは哲学も宗教もしない?

わたしたちは哲学も宗教もしない。

それを誇りに思うようになって、どれくらい経ったことでしょう。

昔、地下鉄サリン事件という大きなテロ事件が起こりました。覚えている方はいらっしゃるでしょうか?

オウム真理教というカルト団体が起こした大規模犯罪は、世の中を震撼させました。それと同時に「宗教」というものに対する敵視・蔑視も非常に深まったと思います。

あのころは非常に幼かったわたしですが、宗教というものを、ほんとうに唾棄すべきものだと信じていましたし(なぜなら大人たちの反応がそうだったから)、どうして人間はそんなに下劣なものに対して情熱を挙げるのだろうと、心から不思議に思ったものでした。

また911のようなテロ事件が起こった時も、宗教というのは人間をとにかく邪悪なものへ導いていくものに違いないという思いに強く囚われました。わたしは心を強く持って、そのような邪悪ないざないに対抗しなければならない、

いやむしろ、そもそも主義主張といったものを持つこと自体、人間にとっては何か危険なものであり、自分自身「わたしは変わった人間です」と宣伝するようなものではないか、そしてそのようなことを言う人間は、

自分勝手な主義主張のために何をするのかわからない、そうして悪びれない、非常に危険な人間だという認識を持つようになったのです。

この思いは、日本人の感情とどれくらい一致しているでしょうか?
わたしはかつて非常に影響を受けやすい(そして自分で物事を考えない)子どもでしたから、実際これは周りの大人たちの一般的な感情・雰囲気そのものであったと思います。

ええ、まあ、上記のような思考はもちろん間違っています。
しかし……というわけです。

しかし……間違いだからといって、それを無視してしまってもいいものだろうか……。

考えてみましょう…

わたしは高校生から、自分で物事を考えるようになりました。
理由は、中学生のころにクラス・部活双方においていじめによって追い込まれて、不登校になったからです。客観的に見れば、わたしは相当我慢強かったようで、その後に様々な人から驚かれました。頭がおかしくなって、通学時にひとりで街を放浪するようになるまで、決していじめの事実を誰にも言いませんでしたし、そもそも自分自身いじめだと信じていませんでした。

発覚してから、見て見ぬふりをしていた教師たちからは、深い謝罪を受けましたが、わたしは本当に頭がおかしくなっていて、それが何の謝罪なのか分からなかったのです(暴力が日常茶飯事だったのにもかかわらず)。

とまあ、それは置いておきまして、わたしは学校に行かない間、とっぷりと時間を使って考えるようになったのです。理由はいろいろあります。結局、誰が原因で今回のことが起こったのだろうとか、自分はどうして嫌われてしまったのだろうとか、防ぐ手立てはなかったのかとか。

そうしてわたしは「無思考の壁」を乗り越えたのです。

べつに自慢をしたいわけではないですが、誇りには思っています。
わたしが言う「考える」とは、自分の人生を生きるということと同じです。つまり「考えていなかった」自分は、自分の人生を生きていなかったことになります。

ですからこれは、巷でいう「自分の頭で考える」ということの意味とは少し違います。
「主体的に考える」とも少し違う。それは「自分を出す」ということです。
「自分」を前に出して、批判や思想の雨を浴び、世界と勝負をするということです。

それは確かに、非常に危険な行為でありますし、であれば幼いわたしの直感は間違っていなかったことになります。他人にも自分にも迷惑をかける行為であると思います。

しかしこれほど、伝えづらく、そしてたいせつな意味を持つものはほとんど存在しないのです。

なぜなら生きるというのは戦いだから…

すこし話を戻しましょう。
われわれは哲学も宗教もとうの昔に捨て去ってしまいました。

「日本人は無宗教です」といってはばからず、
「哲学」といえば、なんか頭でっかちで偉そう、かっこつけてんじゃねーよ

で済まされてしまいます(潜在的な感情としては当たっていると思います)

実際「宗教」とか「哲学」とかをあげつらって論じる人間はこの世で最も鼻持ちならない人間であるのは間違いないでしょう(次点で風呂に入らない男性、でしょうか)。

しかしわたしたちは、常日頃からあらゆることを考えています。

友情とは何だろう、恋愛とは何だろう、家族って何だろう、仕事って何だろう、上下関係って何だろう、勉強って何だろう、対戦ゲームで必要なマインドって何だろう、どうしたら有名になれるんだろう、いい努力の方法ってないかしら。

これらのことを考えない人がいたら、聞いてみたいもんです。

われわれはものすごく考えています。そしてわたしは、それこそ「哲学」であり、「宗教」に繋がるものであると思っています。

悩まない人間などいない…

しかし、悩みなんてない方がいい、という人もいると思います。
当然です。
それは「苦しみなんてない方がいい」と言っているのと同じです。

しかし「苦労はした方がいい」という人もいます。
これはどうでしょうか?
恋愛関係について悩んだことのない人間は、もはや感情の欠落したロボットのような存在に違いありません。最も恐ろしい人間がいるとしたら、多分そのような人でしょう。

これはいったいどういうことなんでしょうか?

悩みとは、この世界の「秘密」なのだと思います。

悩みとは「問題」です。そして同時に「現象」でもあります。
なぜ、そういったことで悩むのでしょうか。どうしてあの人と付き合いたいのでしょうか。
どうして、逆にあの人とは付き合えないのでしょうか。

どうしてあの人は仕事がするするとうまくいき、自分は仕事がうまくいかないのでしょうか。

そのことについて深く深く考えることが「哲学」をすることであり、まだ目に見えていない人間学的なルールを見破るための歩みなのです。

そうしてその先に、我々が数千年向き合ってきた「宗教」という、本物の知恵の扉が控えている、といってもいいわけです。

まあ、というのはですね、古代の宗教とは、同時に哲学体系であったからなんです。

宗教といっても、科学的に証明できないことを一心に信じなさい、信じなさい、信じなさい、信じないあなたは愚か者です……!!!

なんて圧が強いものばかりではないですし(それは現代のカルト宗教)

深い「人間学的洞察」に基づいた教えを、キリスト教やイスラム教、仏教などはいくつもいくつも残しています。

たとえばなぜ、キリスト教では日曜日に仕事を休むように言っているんでしょうか?
当然です。休まなかったら死んじゃうからですし、仕事の効率が落ちるからです。

またどうして、他者を許しなさいと教えられているのでしょうか。
それは当然です。許さなかったら争いが終わらずに滅んでしまうからです。またつらくなったら神に祈りなさいというのも、祈る手段がなかったら、誰にも言えずにつらいことを我慢し続けるなんて死ぬほどしんどいからです。

イスラム教であれこれ戒律について言っているのは、砂漠での生活が非常に厳しいからです。女性が黒い布で肌を隠すのは、子どもをたくさん作られたら困るからです(だって砂漠ですよ)。

怖すぎる……

まあ、もちろん、宗教というのは非常に恐ろしいものでもあります。
「信仰」をダシにしてさまざまな悪いこともしてますし……。

まあ、というかそれは、どちらかといえば「宗教」という仮面をかぶった世俗的な権力機構が起こしたものですから、実際「宗教」はあまり関係がありません。
とは言ってもね……となると思います。
まあ、そこを突き詰める気はありません、自分には。

わたしが思うのは、考えるのをやめる理由が「哲学」や「宗教」という語の持つ背景にあってはならないということなんです。

ん?

たとえば先ほどの人間関係のお話。どうしてあの人と付き合えなくて……とか、どうして彼女と別れてしまって……とか。

わたしが昔から嫌いだったのが「あの人とは合わなかったんだよ」とか。

「考えたってしょうがないよ」

「考えすぎるのは体に毒だぜ」

「顔で判断する女なんだよ。クズだよ、クズ。早く忘れろよ」とか。

そういう言い分。

もちろん言いたいことはよく分かります。精一杯慰めてくれているんだと思います。

しかし「慰める」という段階を通りすぎてしまうと、とたんにそういう考え方は馬鹿げたものになってきてしまいます。

たとえば彼女に振られた理由が「レストランで店員に横柄な態度を取ったから」だとします。

また「毎日連絡してほしいって言ったのに面倒くさがったから」だとします。

一体どうやってそれに気づけっていうんでしょう?

「合わなかっただけだ」という話を真に受けたとしたら。

あれ……?

結局そこで、周りの人間が意図していることに気づけなかったことしたら、笑いものにされてしまうでしょう。

周りの人は、感情に流されて、あれこれと気のないことをいってその責任は別に取らないものです。
でもそれは当たり前です。だって自分のことじゃないですもん。
適当なことを言って相手がそれを信じたら、「ああ、あれは適当言っただけだよ」と。

べつに笑いはしないでしょうが、困惑はするでしょうね。それで直らなかったら「あいつは馬鹿で成長がない」といわれてしまうでしょう(一体どうしろと?)。

もちろん優しい人は違うと思いますよ。真面目に生きている人も絶対に違う。誠実な人は絶対にそんなことは言いません。でもそれってすごく難しいことだと思うんです。

だったら、やっぱり考えなきゃいけない。

でも考えるのは……

でも考えることって、昨今では非常に難しいことだと思うんですよね。
それが「哲学」や「宗教」の持つ語のマイナスイメージから来ているんだと思います。

考えることに対する「正しさ」のイメージがない。
これは結局のところ、どうしてなんでしょうか。

まあ、いろいろあるんだと思います。大量生産・大量消費時代が進行して、人間が刹那的になっていったとか。

本が読まれなくなって、相対的に文学や哲学書の地位が低下したとか。

テレビドラマ・漫画・アニメなどで語られている価値観が、ダイレクトに広がっていったとか。

あとは先述したカルト宗教団体が起こしたテロ事件なども絡んでいるかもしれませんね。

とにかく「頭のいい、自分の頭で考える人間が怖い」という空気感が生まれたんだと思います。

べつにその考えが生まれること自体はおかしなことではないと思うんですが、何か足かせになって、考えることが恥ずかしいとか、怖いとか、面白くないだなんていう、灰色じみた世界観が生まれてしまったら、結局それはディストピアに繋がるだけではないかと思うのです。

そういう人が増えたら、そういう人しか周りにいなかったら、自分の人生を生きることが、ほんとうに恐ろしくて、罪深いことに感じてしょうがなくなってしまうんじゃないかと思うんです。

周りの意見に合わせて生きていくことのほうが、楽に感じるのは間違いないし。

既製品的な価値観をとっかえひっかえしている方が、安定した人生を送れるのは間違いありません。

それくらい「考える」のは危険な行為であり、場合によってはあらゆる方面に喧嘩を売ることだったりします(わたしは巷でいう「考える」とは別の意味で使っています)。

でもそれは同時に、人間の進化的行為であるのだと思うのです。

自分の立ち位置を、社会の中での立ち位置を、パッと視点を変えて捉えなおしてみる。

そのことに気が付くという認知的行為は、コペルニクス的転回のようなもので、普通の考えではたどり着けないものだと思います。

きっとそこにたどり着けた人は、「哲学」や「宗教」を偏見なしにきちんととらえ直すことができた人は、わたしのように何か一度死ぬ思いをしたことがある人なのかもしれません。

だなんて、すこし自慢げになってしまいましたが、結局わたしもまだ道半ばにいるわけで、何にもわかっていない一人の豆粒のような人間に過ぎないのです。

このわたしの考えも、いずれ修正しなくてはいけなくなる時がくるかもしれません。わたしはむしろ、今のこのような、愚かな考えを修正してくれる瞬間が来ることを、ずっと楽しみにしていると言っていいくらいです。

つらいことがあったら…

つらいことがあったら、それについてくよくよ悩む必要はないのですが、同時にそこから目をそらしてもいけないのです。

自分が悪いのか、相手が悪いのか、それともどちらも悪くないのか、気が済むまで考えてみるべきなのです。その考えること自体がつらいなら、だれでもいい、どんな神様にでも死んだおばあちゃんに対してでもいい、

祈ってみてください。

「祈る」という行為は、実は人間にとってのもう一つのコペルニクス的転回にも等しい、大発明なのです。

やってみてください。悩みは消えないでしょうけど、暗い思考は消えていくと思います。

「考える」ということは「生きる」ということと等しい。

「考えない」と決断した人でも、実際頭の中が素早く動いていて、そのことに対する悩みが消えなかったら、恐らくその人はまだ「生きている」のです。

そしてどう「生きるか」を、その人の中で捉え続けていることは、生きることの「真実」を生み出す行為に違いありません。

なぜならその人にとって、なんらかの「間違い」は決定的な間違いなのであり、そのことを断固として否定し続けていくだけの力がそこから生まれて来るからです。「間違い」を知ることは、その分だけ正しい道へ進んでいくことでもあるわけですから、その人は一ついい人間になったわけです。

世俗の風潮に流されて、だんだん自分で考えなくなっていくことこそ恐ろしいものであります。

「哲学」をイメージで語ったり、「宗教」をイメージで語ることもそうです。もしそれでかつてのわたしのように、唾棄して憚らなかったとしたら、そこに眠っている宝物がもしあったとしたら、それはきっと絶対にあなたのもとへたどり着かないのです。

「考える」こと自体が正しいことかどうかを考えるのもいいかもしれません。そういう思考を持つことは、おそらく正しいことです。

考えないことは楽なことです。しかし苦労をしないことは、罪悪に近いものであります。苦労をした人間は偉いのです。それは人にはない優しさを身につけたことと同義だからです。

もちろん世間には、さまざまなウソや中傷があります。カルト宗教もそうですし、それをあげつらって批判したことで「宗教」自体もやっつけることができたと思っている人もそうでしょう。

「哲学」をあげつらって、他人をバカにするために「哲学」を語る人も同様です。そういう人はきっと本当の「悩み」を持っていないのです。悩みを持っていなければ、哲学をすることもありません。彼にとって、哲学とは哲学者の名前やわけのわからない概念の羅列でしかないのです。それは真の哲学ではない。

悩みを持つことは偉大なことであると思います。それは世界の秘密を知るための戦いと同義であるからです。

そこから逃げてしまってはいけないのだと思います。今まさに目の前に宝箱が置かれている状態だからです。

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