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そのニュースが好き嫌いの余地はない

ガザは「文明崩壊の危機」 電柱切り倒し燃料に WHO
2023/12/9(土) 5:35配信 時事通信

ジュネーブでの記者会見で語った。時事通信
【ジュネーブAFP時事】世界保健機関(WHO)のリンドマイヤー報道官は8日、パレスチナ自治区ガザの人道状況について「人々は暖を取ったり調理したりするため、わずかなまきを得ようと電柱を切り倒し始めている」と述べ、「文明社会が崩壊しかけている」と警鐘を鳴らした。
 


既にこの攻防が始まって幾日の時間が経過しているが、全く好転の兆しがない、もしくは、最終淘汰までやろうとしているのかと思わせるせん滅行為に、身のけがよだつ。

誰かが何かをしないといけないと、世界規模で考えてみるものの、3千年来の民族の戦いに、易々と手をだすわけにはいかない、それが実際の実情と思われた。

昨日は自国「ウンブキ」についてのうんちくを語り、再度、注目の記事となったが、翻ってこの中東紛争の掻痒として、のっぴきならない問題は、この日本では、避けて通る、という状況にあることは事実なのだ。ましてや提供サイトの一定ライン堅持アルゴリズムに捕捉されてしまうと、惨憺たるPVになることは自明である。

で私がプロのメディア人でないからといって、それをスルーすることは良心云々に照らし合わせても、責められる筋合いのものではない。報道は、本来一般人の井戸端的な語らいの場、と私は心得ているが、どうもそうではないらしい。
だから、この「連合赤軍」記事を、いまの時世に抗って書くのは躊躇したが、やはり知っている者が当然のこととして社会に知らせる、という責任は負っている、そんな微塵の気をおこして書いてみたい。
内容は、自著ブログ転用で、目新しいネタではないし、まして話し自体が古い。

■ドイツ赤軍は1970年に結成された組織で72年の西独フランクフルトの米軍兵舎への爆弾テロなどを引き起こしたグループ。銀行強盗や、政府、経済人ら要人の殺害、ハイジャック事件など重大事件を起こし注目をあつめた57年前の事件である。 部分抜粋

その頃と、いまの国際情勢はまるで変っているが、変わっていない、もしくは折り合いがつかない国家間の軋轢は、その隔年57年経過しても、まったく変わらなかった。
この記事では、当時者が革命的使命を背負って他国で何がしたいか、という話しではない。また「重信房子」という個人の素性を追求する物語りでもない。
そのことをまったく知らない世代が、いまの日本の主要なポストを占めるようになって、それを知らない、では国際人としても通用しないと思うからだった。メディアの仕事、ただ事実を記録する、それに専念すれば、おのずとプロもアマもない。

「もがり笛 第二部」.1 2022年2月22日 08:32 より抜粋

すべては歴史の記録一ページとして

#世界史がすき 応募作品の中で、「もがり笛 第二部」が先週特にスキを集めました。おめでとうございます!
noteからその案内文が届いた。ことのほかその記事に興味があったようだった。意外なことに。
事の始まりは、2月15日付、時事ニュースがそれを掲載したので、ならば、その関連記事には事欠かないと、過去のストック記事をnoteにしたためたものだった。
抽出拾ったブログ記事は、2014-8-8 2016-8-29 2020-11-17、である。
とくに集中して書いたものでないことはその日付で判る。その動機はというと、浅間山荘事件もさることながら「連合赤軍」という特異な「政治結社」が何をしようとしていたのか気になったからだ。

いまならそれらは、一時学生の「流行り病」と結論されるが、その犯行当人たちと、社会(日本国政府、警察、機動隊)は、決死の覚悟(死者も出した)で戦ったからである。
アバウトな捉え方でいうならそれは思想闘争だった。

以下、記事は2部3部に別けて書く

*** 第一部「メディアの的となった赤軍女闘士」
日本赤軍 日本赤軍は、中東など海外に拠点を置いて活動を行っていた日本の新左翼系団体。1971年に共産主義者同盟赤軍派の重信房子らが結成し1970年代から1980年代にかけて多数の無差別テロ事件(日本赤軍事件)を起こした。2001年に解散。アメリカ合衆国国務省の国際テロリズム対策室は日本赤軍を「国際テロ組織」と認定していたが、解散したために認定を解除した。

ライブドアブログ~日本赤軍 重信房子
日本赤軍 重信房子 (2014-8-8自著記事抜粋 日本赤軍・については下記ウキペディア参照)
 母らの起こした空港乱射事件・・・いま風に言えばSNSですよ。
メイ(娘)は「今はインターネットやSNSなどがある。だから私は(日本赤軍とは)同じことはしない。ただ、当時は大手メディアにしかニュースを発信できなかった。軍事作戦はメディアの注意をひくためのものでもあったのです」と話した。 
◇文中一部本人(メイ)の言葉と思われるものを抜書きした。(筆者)
 
 こうした一連の記事または伝記とか記録モノは私は好きではない。たしかに、それは事実あった事件であるし世間の注目度からしたら「記憶」から消し去ることのできない一場面だった。また、それに拘わった人物にスポットをあて、殊更、時代の寵児のような扱いが気に入らない。
 これを物語、読み物として構成するには格好の素材だ。ましてや、その子が存在し、いまや社会の中枢で生きている一人の人間、メイという娘が、本人をクールに客観的に分析している様子など、それを見ただけでもドキュメント作品として充分価値がある。また、そうおもわせる。

 そうした大筋物語の展開として比喩を挙げれば、有名俳優の子息が世襲して同じ道を選択するのと似て、それが結果に繋がるか、ということを抜きにしてネームバリューブランドだけで一時飯は食える。

 その延長線上では娘「メイ」は世襲といえるのだろう。しかし、そのフィールドワークがまったく別世界で、「飯は食えない」という楔がメイを、日本のその手の女とは、まったく自立次元を異にする。だからメイの言説、一つ一つは親を語っているが親のいた組織に及んでは、まったくライバルのような分析をしている。やはり「したたか」だ、とおもった。(いい意味での)

 記事には「重信房子」本人の写真が添付されている。まるでそれはお見合い写真かなにかのような笑顔の、まったく屈託がなく、闘士という微塵も感じさせない。(井戸端論評がきこえそうだ、お~お虫も殺さぬような綺麗な顔して・・・と)

 おそらく編集者は、そのギャップを狙って意図的に採用したのだとおもう。写真は同じ人間被写体でも、撮る角度によっては別人に映る。ましてや、それだけ知名度のある人間だったら枚数にことかかないはずだか、敢えてお見合いのような写真をメインに添えた。とは私の推論である。
 もう一つ、娘メイの写真も添えられている。これを、なんの関連もないニュースか記事に載せたら、どこぞの映画スターのデビュー写真かと、信じてしまうほどのスナップだった。たぶん、これも編集者の目論見なのだろう。人をアッと驚かせる、それが常套手段だ。

革命が本当に起こる、と思ったのだろうか、という疑問

 その当時、私だって社会の臭いは感じとっていた。ヒッピーが蔓延し、退廃がはびこり「村上春樹」ではないがマリファナを吸って、反体制を擬似コピー(アメリカ)する。その挙句、バイクに乗って走っているところをショットガンで撃ち殺される、という結末まで用意されているのだから、いまから考えればよく出来ていたハリウッド映画、そのものだった。それを何でもできる、と「村上春樹」は形容した。

 たぶん重信房子も、そのヒロインの一役だと、大きな勘違いをしていたのだろう。なんでもできると。

 現在、日本国内の治安といえば世界に類例のないほど安定し、安全が保証されている。だから「集団的自衛権」がこれほど騒がれるのも、そのパラドックスから発生しているのだろう。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍による日本の広島市に原子爆弾を投下した日。そうした重大な歴史を抱えて今日の安全が保障されている。としても日本の重要課題、安保改正はいまだ成就していない。

 メイの言葉「母らの起こした空港乱射事件・・・いま風に言えばSNSですよ」、とはまさに正鵠な論説だ。

 にべもなく簡単にそう言い放つメイの言葉の裏には、地獄の底を数回覗いたものでしか表現できない、その強い心象がよく語られている。

 その手段が、SNSであろうとでデジタルであろうとアナログであろうと、革命という一発逆転の大博打は命と引き換えだ。そんな大それた考えを抱く日本人なんて今時いない。
 もしそれで不服があるとするならば、もう一度日本の歴史を読み直したら、日本中世より、いかに残忍な戦争をしていたかが判る。

 重信房子という人物が、時代のヒロインの一役だと大きな勘違いをしていたのは事実だ。そしていま現役でいながら、このデジタルな2次元画面に登場している。おそらく、この記事を編集構成している担当者は、そのリアル世界を知らない世代が執筆していることだろう。

 その全部を含めて、さらに追跡して闘士「重信房子」を書いてもらいたいと願う。そうすることによって、なぜいま「集団的自衛権」なのかが判るだろうし「村上春樹」の過去も理解できるだろう。
 
 世界をつなぐ「インターネット」が、どのような使われ方をしているのか、我々も知る必要がある。もちろん、前に書いた記事内、「フェイスブックやツイッター(X)は反政府勢力にとって極めて貴重な情報源」とか「アラブの春のようなSNSに端を発した民主化運動」などのニュースは、世界的事実として記録保存されている。

 その情報がもたらす作用は使い方次第でいかようにもかわる。今の政治に不満があるからといって、安易に記事発信すると革命分子として追跡され場合によっては逮捕される。そうしたことをアメリカもロシアも今やろうとしている(今では徴兵という強制手段)。おそらくこの「革命」という字を書いただけでアルゴリズムシステムが作動して、あるファイルに記録保存されるだろうし、当然ブラックリストの一遍に編入されることだろう。
 
いま、そういう「ネット時代」になったのである。

テロリストの母は「他のやり方を考えれば…」と反省を口にしていた
娘が見た日本赤軍の女王「重信房子」の“素顔”2014.7.31 12:00
[衝撃事件の核心 west] 産経ニュース
テロリストの母は「他のやり方を考えれば…」と反省を口にしていた…娘が見た日本赤軍の女王「重信房子」の“素顔” 衝撃事件の核心2014.7.31 12:00

【衝撃事件の核心】テロリストの母は「他のやり方を考えれば…」と反省を口にしていた…娘が見た日本赤軍の女王「重信房子」の“素顔”
- 産経ニュース www.sankei.com

明治大学の二部の学生だった重信房子は学費値上げ問題をきっかけに学生運動の世界に足を踏み入れたという。上映映画 http://www.u-picc.com/kakumeinokodomo/

 “テロリストの女王”と呼ばれた日本赤軍の元最高幹部、重信房子(68)とドイツ赤軍の指導者、ウルリケ・マインホフという2人の女性闘士の母としての姿を描いたドキュメンタリー映画「革命の子どもたち」が公開されている。
 映画は、2人にはそれぞれ娘がいるのだが、テロリストの娘と呼ばれ、ときには窮屈な思いも強いられてきた彼女たちの心情に迫った作品だ。現在、医療刑務所にいる重信は娘の目にどう映っていたのか。

重信の娘、重信メイ(41)が語った。(河居貴司)
 対称的な2人の娘 この作品の監督は、英ロンドンを拠点に活動するアイルランド人のドキュメンタリー映画作家、シェーン・オサリバン。政治史に焦点をあてた長編ドキュメンタリーの製作などを手がけてきた。
 作品は、メイと、ウルリケ・マインホフの娘、ベティーナ・ロールへのインタビューを中心に進むが、ベティーナが母親について、冷ややかな思いを吐露するのに対し、メイは母への肯定感が強いのが印象的だ。どちらもテロリストの娘なのだが、2人の間の差はいったい何なのか。メイはこう解説する。
 「ベティーナさんは、お母さんと交流できる時間が少なかった。もしベティーナさんに直接会う機会が持てたら、あなたのお母さんはあなたのことをきちんと考えていたのよ、と話したい」
 ドイツ赤軍は1970年に結成された組織で、72年の西独フランクフルトの米軍兵舎への爆弾テロなどを引き起こしたグループ。銀行強盗や、政府、経済人ら要人の殺害、ハイジャック事件など重大事件を次々と起こした。
 マインホフは逮捕され、76年に獄中で首つり自殺している。娘のベティーナは、母の死をラジオのニュースで知ったという。
 反省の言葉も 現在は中東を拠点にプロデューサー、ジャーナリストとして活動を続けているというメイに取材を行ったのは今年6月。まず尋ねたかったのは、母親に対する評価だ。
 最過激、世界革命“テロリストの女王”は「日本の外交官と一緒に草野球してた」
 母親が無差別テロを行った集団のリーダーと見られていることには、「一方的な見方しかされていない。なぜそういうことをしたのか。当時の時代背景などもあわせてみないとフェアじゃない」と語気を強めた。
 潜伏生活を送っていた母親とは幼い頃から一緒には暮らせなかったというが、一定期間ごとに、母子が向き合う時間も取れたそうだ。

 メイによると、重信は「なぜ自分たちのことをこんなに隠さなくてはならないのか」と聞く娘の疑問にも丁寧に答えていたという。また、重信が一連の事件を振り返り、「ほかのやり方があったら良かったし、手段を考える機会をもった方が良かった」と反省の言葉を口にしたこともあったという。

世界革命目指し中東へ
 
 重信は、1970年代、日本の新左翼グループの中でも、最も過激な集団といわれた「赤軍派」に所属していた。
 赤軍派は当時、世界革命を目指すため、世界各地に国際根拠地を建設する必要がある-との方針を掲げていた。これを受け、田宮高麿らは70年3月、よど号ハイジャック事件を起こし北朝鮮へ。一方、重信は71年2月にパレスチナに向けて出国した。
 国内では過激派として警察当局から徹底的にマークされていた重信だったが、メイによると、重信ら過激派グループが中東に入った当初は現地の日本人コミュニティとも親しくしていたといい、「日本大使館の外交官たちと一緒に野球大会をしたこともあった」という。
 ただ、重信たちが海外にあっても潜伏生活を送らざるをえなくなる事件が起きる。72年5月に起きたイスラエル・テルアビブの空港乱射事件だ。
 事件では、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3人のメンバーが、ロッド国際空港(現・ベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルで銃を乱射するなどし、民間人ら100人以上が死傷する事態となった。奥平と安田は自殺、岡本は逮捕されたが、この事件をきっかけに、重信らは潜伏生活に入ることになったという。

 母らの起こした空港乱射事件…「いま風に言えばSNSですよ」メディア露出のための“軍事作戦”

 空港乱射事件は、日本赤軍が無差別テロ組織としてイメージされる原点となった事件でもある。だが、メイはこの事件についても「きちんと理解されていない」と主張する。
「例えば、事件が発生したときはまだ日本赤軍が結成されていなかった」などと説明。「(日本赤軍が関連したといわれる事件のうち)この事件以降、人が亡くなった事件はない」とも強調した。
 日本赤軍が繰り返したハイジャックなどの“軍事作戦”については「当時は、ニュースに取り上げてもらうような事件を起こすことで、自分たちの訴えをアピールしようとしたという意味合いがある」と語る。
 メイは「今は、インターネットやSNSなどがある。だから、私は(日本赤軍とは)同じことはしない。ただ、当時は大手メディアしかニュースを発信できなかった。軍事作戦はメディアの注意をひくためのものでもあったのです」と話した。

28歳まで無国籍

 メイは、重信とパレスチナ人活動家の間に生まれ、幼少期をアラブ社会で過ごした。父親の素性が知られると、暗殺のターゲットにされる可能性があるとして、16歳まで父親が誰であるかは明かされず、28歳まで無国籍だったという。
 2001年3月に日本国籍を所得し、日本に入国。国内で予備校講師やキャスターを務めるなどしていたが、現在はレバノン・ベイルートに拠点を移し、中東の衛星テレビ局のプロデューサーなどとして活動している。
 幼少期は、自分の素性を隠しての生活だった。学校にも実名ではなく、国からもらった“仮身分”で通学したり、危険を感じるたびに転校を繰り返したりするなど、テロリストの娘として、かなり窮屈な思いもしたという。
転校ばかり“テロリストの娘”の青春…「反抗期ありません。だって…」

 それでも、思春期にも「反抗期はなかった」という。メイは、
「今になって思うとそれどころじゃなかったんでしょうね。そんなことをしていたら、誰かを危険にさらすかもしれないと思っていましたから」と振り返った。
(敬称・呼称略) ※記事は2014-8-8付のものである。


※以下続きは2部~ (時節柄掲載はしてない)

※本記事、場合によっては削除する場合もある。筆者 12/9

※画像は現在の「日本赤十字社」救援物資配送の様子を撮ったもの


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