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他人を愛するって、こういうことかもしれない

あ、今、自分以外を愛するフェーズなのかも。

ふと気付けたのは昨日のこと。
節目を迎える親への贈り物を探しに、ほうぼう2時間以上歩いていたとき。


他人なんてどうでもいいくせに、どう他人を大事にできようか

私は、人への関心が薄い。
人が多い場所は苦手だし、雑談や飲み会は苦痛に感じることが多い。
でも一方で、人が内面を吐露する様子、生き生きと目を輝かせる様子には胸が熱くなるし、エッセイやX(旧Twitter)で人がどんなことに心を動かし、生活しているのかを垣間見ることは大好きだ。小説や漫画もしかり。心から満たされる。
そんな自分が抱える矛盾を飼いならすのに、物心ついてから随分格闘している。

そんな私には、自分本位でしか生きられないのではないか、という心配ごとがずっと付きまとっている。
人と触れ合うと相手との境界線がとけて、自分をすりつぶし、自分の生活が立ち行かなくなる。ちょっとした刺激で気持ちを病んでしまう。自分のことで精いっぱいで、他人を構う余力がない。
自分を守るためには、人との関わりを最小限に抑える。それが私の処世術。

かといって、それでいいならいいじゃん、と割り切るには孤独に強くないのが、また手のかかるところ。
一生ひとりきり、誰にも理解されない、と思うと、不安で恐ろしくて眠れない夜も何度もあった。
パートナーは欲しい。一人で生きていくには、きっとこの世界は厳しくて、絶望してしまう。信頼しあって、つらいときは互いに支えになれる、戦友のような、そんな存在が欲しい。
結局、自分にとって、人とのベストな距離感・関係を模索し続けるしか、この苦しみから解放される近道はないんじゃないか、というのが私の考え。

(ここまで書いて、「自分」という言葉が登場する頻度が、私が関心を向ける先をよく表している、と笑ってしまう。本当に他人に興味がないんだなあ……)

他人を愛する練習をしてみる

そんな考えのもと、「誰のことも大事にできない、愛せない」と思っていた私にパートナーができた。

大事にされたい。でも、他人にそれを要求するなら、まず自分から大事にできるようにならないと。
という考え方は、小説で学んだ。なるほど、確かにそうじゃないとフェアじゃない、というのは納得している。
「私はあなたのことどうでもいいし、何もしてあげないけど、私のことは無条件で肯定して機嫌とってくれる都合の良いパートナーでいてね」
うん、確かにフェアじゃない。

いずれは一生を共にするパートナーが必要で、でも私は誰かを大事にする方法を知らない。そんな状態では、もし運よく良い縁に恵まれても、上手く関係を築けるわけがない。
私は、大事にしたい人を大事にする練習をしたい。そんな思いで、付き合いが長く信頼している人と関係を結んだ。
こう書くと愛もへったくれもなく、ひどく打算的で、そんなふうにしか考えられない自分にもやっぱり嫌気がさすけど、大真面目だ。

しばらく付き合いを続けてみて、心境の変化があった。
この関係は、「私が主体的に愛すること」を目的としていたので、向こうに「私を愛すること」は求めていなかった。期待するとつらくなるに違いないから、そこは我慢のしどころだと言い聞かせていた。
でも、覚悟していたよりずっと、こちらを大事にしてくれそうだ、と思えるようになってきた。それがここ数日。

なんて事はない、当たり前のこと。
相手も人間で、「向こうは私のことを相手にしないだろう」というのは、私の予想でしかなくて、それが必ずしも正解ではないんだ、というのが実感をもって驚きだった。
やっぱり、自分の手の届かない部分も、動かない要素として決めつけて、自己完結してしまうのは、私の悪い癖で、もったいないたちだなあと、改めて気付かされた。

何度も言葉を交わして確かめて、「大事にされている」実感が芽生えると、自然と自分も相手に返そう、という気持ちが生まれるのが不思議だ。
なんというか、一方的に与えている、と思っていた時は苦しかったけれど、相手から与えられるものに気付けたときには、相手のためを思えるというか。
これも当たり前だけど、関係構築は双方向に行うもの、というのはこういうことなのだと思えた。
この心の変化は、自分でもまだ解像度が低いので、うまく表せない。じっくり考えていきたい。

相手本位の行動ができたら、愛もわかる?

長くなったけど、ようやく冒頭に戻る。
そもそも、私は贈り物とかダルイな……と思うタイプ。
もらったら普通に嬉しいけど、まあなくても別に。
あげるのも、義理として必要なのはわかるけど、なんでこんな文化があるんだろう、と思ってしまう。案の定。

それでも、さすがに節目の年を迎えた親は祝うもの、というのは知ってる。
久しぶりに親に贈り物をすべく、どうしたら喜んでもらえるか、考えた。
自分の大事な時間を費やして、相手の普段の生活、身につけるもの、好きなものや言動を一生懸命記憶から掘り返して、ヒントになるかもと写真も遡って、あれこれ想像を巡らせて、喜んでもらえることを考える。

でも、これだけ悩んでも、相手にとっては知ったこっちゃないし、喜んでもらえるかわからないよな。物を贈りたいのは、私の自己満足なんだから。
ノープランだったせいで荷物が重たくて、靴も歩きにくくて、全然買い物向きの装備じゃなかった。くたくたになって少し座って休憩したとき、ふと思った。

ああ、これってすごく相手本位だな。
もしかして今、私、相手を愛せているんじゃないかな?

一生懸命選んだ贈り物を、相手がどう扱おうが、こちらは何も言えない。
それでも、自分があげたいからあげる。
これは義理じゃなく、素直にそうしたいと思えた。
私にもそんな感情があるんだな。
相手を愛する行為は、この気持ちの延長にあるんじゃないか?

大事にされたい。でも、他人にそれを要求するなら、まず自分から大事にできるようにならないと。
私は、これをギブアンドテイクとして理解したけれど、こう言われるのも納得できた。「相手を大事にしたことがないと、相手に大事にされていることに気付けない」
まさにそうで、相手が自分のために時間を割いて、してくれたこと。それを想像できず軽視できるのは、私自身が誰かにそうしたことがないからだ。それを、恥ずかしく思うべきだ、きっと。

何十年生きてきて、それなりにプレゼントを贈り合う機会もあった中で、今更かよとも思う。子供でも知ってそうなことだ。
でも、本当の意味でこの行為の目的がわかりそうになって、嬉しかった。
そしてそう気付けたのは、間違いなく、わからないなりに相手を愛そうとした、その機会をくれたパートナーとの関係のおかげだと思う。

与えることを楽しめたらいいな

結局、私はまだ「愛とは何か?好きとは何か?」がわかっていないし、掴んだ気がする「大事にされている」感覚も、本当にそうか信じ切れていない。勘違いではないかと思うと、信じるのが怖い。
本当の愛、真実の愛ってなんだよ、夢見がちちゃんかよ、そんなもん多分ないよと自分でも思うけど、そう思ってしまうんだからしょうがない。

でも、これまでの自分本位な姿勢は一旦横に置いて、パートナーや家族といった身近な存在から、与えてみる。与える喜びを味わってみる。
そんな人生のフェーズが巡ってきているような、そんな気がする。

私が人並みに「愛」を理解するには、まだまだ先が長そうだけど、そのとっかかりを得られたような気がした、そんな出来事でした。
書いてみたら当たり前のことばかりで、びっくり。やっぱり、本や他人の経験からわかった気になっちゃいけないね。

とりとめなく書いてみましたが、ここまで読んでくださった方がいらしたら、ありがとうございます。


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