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絶対許さなくたっていい

同じ感情に留まり続けることが精神衛生上もっとも良くないことだから、己の心の健康を保つには、常に自分の気を逸らし続けていないといけない。25歳で学んだはずのこと、未だに咀嚼しきれていない。いまいち思考に組み込めていない。翳りがないからといって、いくらでもそこに身を置いていてよいわけではないのだ。少なからず刺激が必要で、一ヶ所を守り続けるだけでは生きていかれない。生活を愛しているが、それだけではどうにも腐る。胸に飼っているヤンキーが、耐えかねて檻の中で叫んでいる。ヤンキーは、私が「5歳の私」を認識するずっと前からそこにいるけど、今にして思えば同一人物だったんだろうか。とにかく閉じ込めているばかりではいけない、時々思いきり野に放ってやらないと、消化不良になってしまう。5歳のこねた駄々をただ肯定してやるだけ、抱きしめてあげるだけでは満たされない。彼女のわがままプランに思いっきり振り回されるような日がたまにあったっていい。

5歳が、勉強したくない!仕事休みたい!と騒いだ時に、その声を聞き、要望を受け入れる。以前は大人の私が完全無視を決め込んでいたに違いないのだけど、ここ数年でそこのところはだいぶできるようになった。けれど、最近はちょっと甘やかしすぎている気もする。今度は5歳の声を聞き入れすぎて、怠けたくない場面でもめちゃくちゃサボってしまっているような。バランスって難しい。無理をしないようにしないようにと注意してきたけど、私、もう少し無理したい。今29歳の私が頑張りたい時なのだ。尊重してあげたい。5歳に足を引っ張らせてはいけない。

解放したいと抑制したいって相反するはずなのに、5歳に対して、両方の気持ちが今いっぺんにある。
おそらく、甘やかされっぱなしの5歳はフラストレーションを感じていないから、暴れる原動力になるものがそもそもない。29歳の自分が優位になっているとき、抑え込まれた5歳がストレスを溜めるから、その後でないと着火することはない。抑制した後で思いきり自由にしてやることで、29歳も5歳も心から発散でき、ようやく私は満たされるのではないか。
5歳の声を聞かずに過ごした時期があまりにも長かったので、カバーするのにだいぶ時間がかかったけど、今5歳が声を上げれば、私が一番に聞いてあげられる。抱きしめてあげられる。私が聞けない時も、そばにいる人が聞こうとしてくれる。そうして、ようやく5歳は腹いっぱいになったのだろう。
ここまで来てようやく分かったのは、ただ腹を満たしてあげればいいわけではないということ。それだけだとなんとなく不調を感じる。飢餓感と満腹感を小さく繰り返していかなくてはならない。緩やかな波があることがきっと大切で、ずっと大荒れでも、無風でも、私はきっと心地よい状態でいられない。

解放と抑制。飢餓感と満腹感。5歳が状態で、それを操縦するのが29歳の役割かとも思ったけど。ではなく、2者間の関係性はもっと対等?29歳が優位の時に5歳がストレスを溜めるように、5歳が優位の時には29歳の方も不足感を感じたりするのだろうか。それが今の状態?5歳ばかり構っていると、今度は29歳の欲求が満たされず、バランスを崩す。どちらも性格は違って、満たし方が違うけど、すぐに渇いてしまうのは同じなんだろうな。二人まとめて、私が潤してあげないといけない。

ひょっとしたら、「胸に飼ってるヤンキー」と5歳はまったく別物かもしれない。5歳はただ泣いてイヤイヤするだけ、自分の意思で動いたりはできない。赤ちゃんみたいに泣いて伝えることしかできない。私は懸命に慰めて、あやすだけ。
「ヤンキー」は違う。ゴリゴリに自分のポリシーを持っていて、筋通ってないものを許せない。許せないときは暴れ回りたい。怒りを原動力に、自ら行動を起こす。
29歳は、頑張り屋さん。ちゃんとしていなくちゃ。勉強しなくちゃ。仕事頑張らなくちゃ。力を抜くのが下手で、疲れやすい。
29歳が頑張りすぎると5歳が構ってくれと泣く。29歳が手を止めてなだめる。5歳に構ってばかりだと29歳のしたいことができない。どうしても手が離せず、泣いているのを無視しないといけない時、29歳も5歳もともに疲弊する。
もしかしてインサイド・ヘッドってこういう話だったりする?

5歳と29歳はあくまで私の内側で起こっている感情処理を具象化したものだけど、ヤンキーは、外界に対する防衛反応として怒り、実際に行動や態度で外へ返す。ヤンキーが暴れ足りていないと5歳と29歳もなんとなく不調なのは、うまく外からの刺激に対処できていないから?ヤンキーが上手く機能せず暴れられないのは、生活を愛せればそれでよいという平和ボケによるもの?外よりも内を注視しすぎて、敵を敵と認識することができなくなっているから、境界を踏み越えられやすくなっている?侵入を許しても闘えずにやられるばかりだから疲弊してしまう?
あんなにも闘っていた私が平和ボケ。人って変わる。でもやっぱ私の本質は好戦的だと思う。嫌いな人間を嫌えているとき、物凄くイキイキしているもの。闘うのもう疲れたからやめたんだけど、もうちょっとだけ闘っていたいよ。闘うには、敵が要る。不用意に増やしたって疲れるだけだけど、特定の人を存在から憎む必要ないけど、行動単位でなら憎みたい。私、たぶん、「絶対に許せないもの」がないとダメなんだ。また「絶対」か。いつも鍵になるのはこれなんだよな。「絶対」に私は生かされている。「絶対」のためにしか行動できない。そのためならおまえはもっと闘っていい。ヒントになるかもと思い、B'zの敵がいなけりゃを改めて聴く。

平和ボケを改善するには戦闘モードの切り替えスイッチが必要。自他の境をもっと明確に認識しなくてはならない。それってやっぱ快不快・好き嫌いのことなのかしら。もっと「嫌い」をわかって、言語化していたい。

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