ことば。

いやはや、すっかりあつ森の世界に入り込んでしまっていて、日々いろいろ考えることはあれど、「よし!note書くぞ!」という時間を作ることが出来なかった。
何を隠そう、わたしは完全にマルチタスク人間なのだが、noteはマルチタスクが出来ない。
初めの頃は音楽聴きながらnote書いてたんだけど、効率悪いことに気付いてから、note書くときはそれ以外のことはやらない!と決めた。
効率重視人間すぎて、日々謎に時間に追われまくっていて、本当の意味での「ゆとりある生活」というものからは掛け離れた生活をずうっと(特に娘が生まれてからは)送っていたので、あつ森の世界にいるときだけはのんびりできていた。と言っても常に素潜りして海の幸取ったり魚釣ったりしてはタヌキ商店に行きベルを稼ぎ、、と追われてはいたけれど。笑

そんなこんなであつ森ワールドに没頭していた10月ですが、相変わらず大好きな映画や海外ドラマを観る時間はしっかり作るようにしていて。
昨夜まで「13の理由」というNetflixオリジナルドラマを観ていた。とりあえずシーズン1を観たのだけれど、、、うん。
とりあえずこれはネタバレは絶対見ないで観るべき作品。
中にはある程度ネタバレを読んだ上で観た方が楽しめる作品もあるけれど、この作品に関しては絶対ダメ。
この先どうしても軽くネタバレを含む内容になる可能性があるので、もし万が一これから観ようとしている人がいたら、読まない方が得策だと思う。
一先ずシーズン1を通して一番考えたのが「言葉の存在」についてだ。

よく、「言葉は武器にもなり得る」とは言うけれど、本当にその通りだ。言葉ひとつで人を簡単に傷つけられるし、殺めることだってできてしまう。
でも、同じように「言葉は救いにもなり得る」。
いくらドン底の中にいても「頑張ったね」「味方だからね」と優しい言葉を投げかけてくれる人がひとりでもいれば、救われる。

しかし、その「言葉」というのはとても複雑な存在だ。
外語大に入って英語とそれまで以上に深く向き合うようになってから、わたしは日本語が好きになった。
英語が世界共通語と言われる所以は、言ってしまえば簡単だからだ。
文字を例にすると、英語は26文字(大文字小文字と考えたら52文字)を覚えれば良いだけだが、一方で日本語はときたら平仮名、片仮名、漢字と種類が多くてキリがない。
表現に関してもそうだ。敬語表現というのは英語にも日本語にもあるが、日本語の場合は「承知いたしました」という一文を、「承知致しました」と表現することもできる。前者の「いたしました」とあえて日本語にする方が世間一般では良しとされると耳にしたこともある。
以前働いていた時、とある書類を園長先生に添削してもらったところ、「これなんて読むの?」と言われたことがあった。(何の漢字だったかずっと考えてるんだけど思い出せない。思い出し次第追記する。)
当時は自分的には知ってて当然の漢字だったが、保護者も読む書類であったし、もし仮に園長先生のように読めなくて理解してもらえなかったら意味がない。
そう考えると、読み手のことを考えて漢字表記は可能でもあえて平仮名表記にすべきな場合もあるということだろう。

とにかく日本語は他言語に比べて汎用性の幅が広くて、奥が深い。
英語を勉強すればするほど日本語の魅力に気付いて、日本語が母国語の日本で生まれ育って、母語が日本語で良かったと思えた。

「13の理由」では、「言葉」の持つ影響力についても描かれている。
言葉で人を救うこともできるし、殺めることもできる。
しかし言葉があればいい、なければいい、そういう簡単な問題じゃないのだ。
例えば「1人にしてほしい」という気持ちを相手に言葉で伝えたいとする。「あっちいけ」とも言えるし、「もうあなたの顔も見たくない」とも言える。そして、どの言葉を選んだとしても、相手の受け取り方と感じ方は人それぞれだ。

わたしが一番グッときたのは、やはり「君のことが好きだ」の一言が勇気が出ず言えなかったことで、大切な人の命を守れなかった…と明らかになるシーンだ。
もちろん一つの尊い命が失われたのには様々な要因があった。でもそんな中でたったその一言があれば、もう少し生きてみようと踏ん張らせることができたかもしれない。
言葉で傷付き、言葉足らずでも傷付き。

わたしは大学時代数ヶ月間、焼き鳥屋さんでバイトをしていた。もちろん焼く技術はないので、ホールと飲み物提供がわたしの仕事。
ある日お皿を2皿割った。その後しばらくしてまた2皿割った。一日で計4皿割った。店長や一緒に働く仲間に「大丈夫?怪我ない?」「気にしなくていいからね」と言われるも、そうやって本当なら怒られていいはずの場面で優しい言葉を投げかけられることがすごく辛かった。気を遣わせてしまって申し訳ない、迷惑をかけて申し訳ない、、
というようなくっっっそネガティブな話を当時やってたmixiの日記に書いてて。
それに対して複数の友人が言葉をくれて。
その中に、
「人に平等に優しい人なんかいないから本当の優しさなんて分からないけど、気にかけてくれるだけで優しい。無関心なことが一番悲しい。だから気にかけてくれたという事実だけは素直に受け入れな。」
的なコメントをくれた友人がいて。(抜粋、要約しています)
いま思い出すために超久々にmixiログインしたんだけど、約10年前の言葉なのに、そのコメント見ただけでウルっとしちゃった。
こうやって何年も前の言葉に救われることもある。


言葉の持つ力は本当に計り知れない。
だからこそ、自分の発言にはちゃんと責任を持たなければいけない。重いように感じるけど、本当に責任を持たないといけない。
自分が言われたらなんてことない言葉だからって一言「バカじゃないの」と冗談で言ったとする。ある人は「うるせー!」と笑い飛ばせるだろう。ある人は「うん、本当にバカだ...」と自己嫌悪に陥るだろう。
自分が結構人の言葉に一喜一憂しがちだから、常日頃言葉にはとても気を遣っている。しかし、気を遣っていても間違いや勘違いというのは起こるもので。そういうものを完全に排除することは不可能だ。
絶対は無理でも、言葉で大切な人を傷つけてしまわないように、「言葉」の持ち得る力について今一度考えて、これからも上手く付き合っていかなければなと思う。
言葉は難しいし、煩わしい。
でも「言葉」無しじゃ、生きられないから。

また、自分の命を絶つこと自体は否定できない。
辛いことから逃げるということは、自分を守るということだから。
わたしもこれまで何度も消えてしまいたいと思ったことがあるし、今でもちょくちょく大きかれ小さかれ何かしらの困難にぶつかるとすぐ楽になりたいとか思ってしまう。
でも、生きてりゃなんだって出来る。
辛くなったら離れていてもいつも気にかけてくれる両親のこと、住んでる場所が離れてて学生の頃のように会えなくても毎年わたしの誕生日にはおめでとうとお祝いの連絡をくれる友人のことを思い出して、自分の大切な人たちの悲しむ姿を見たくないと踏みとどまる。
今のご時世だと難しいが、ライブがわたしにとっての非常口、逃げ場だった。いくら仕事やプライベートで辛いことがあっても、自分にとっての避難所に駆け込めばとりあえず難を逃れられた。本当に限界になったら実家に帰ることだってできる。
・自分の大切な人を思うこと
・自分にとっての避難所とそれに通じる非常口が何処にあるかを事前に明らかにしておくこと
ただそれだけで、失われなくて済む命はきっとある。


話は少し戻るが、mixiの日記で
「バイト初めてから改めて、自分どんくさいな、アホだな、いっぺん死んどけ!とか何度も思うことがあります。
まあ、成功と失敗、幸せと不幸せを、社会のインフレとデフレのように繰り返すことが人生なんだって分かってるんだけどね・・・。」
と当時21歳の自分が言ってて笑ってしまった。
過去の自分の言葉を引用するならば、今のわたしは社会でいうデフレの最中にいるんだなあ。わっはっは。


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