すきこそもののじょうずなれ

「好きこそ物の上手なれ」
=どんなことであっても、人は好きなものに対しては熱心に努力するので、上達が早いということ

ここ数日、自我の芽生えの目覚ましい娘の自己主張や後追いに日頃の疲れも相まって「もう無理ー!」と心と身体が悲鳴を上げている。
わたしって子ども好きだったはずだよな。だから子どもと関わる仕事がしたいってずっと思ってたんだよな。それなのにどうして他の誰にも代えられない我が子に対してこんなにイライラしてしまうんだろう。情けない。そんな感情に苛まれ、それが自己嫌悪へと繋がり更にイライラしてしまうという悪循環に陥っている。

そんな中ふと、わたし「英語」も好きだったよな。昔は得意と胸張って言える唯一のものだったよな、と思い出した。
自分に自信持てない今だからこそ、自分の「好きなもの」「得意なもの」に向き合ってみようかなと思う。

前述した通り、大した特技も強みも持っていないわたしにとっては唯一と言っても過言ではないほど貴重な存在である「英語」との繋がりは、遥か昔に遡る。

〜幼稚園〜
正確には両親に聞かないと分からないが、少なからず幼稚園生の頃には既に、当時大手英会話教室に通っていたわたし。
もちろん幼いわたしが自ら
「わたち、えいごのおべんきょうがしたいの!」
とお願いしたわけもなく、両親が良かれと思って通わせてくれた。わたしにとっては人生で初めての習い事がその英会話教室だった。
もちろん小さかったのでどんなことをしたのかはあまり覚えていない。
が、両親曰く毎週嫌がることなく楽しんで通っていたとのこと。
わたしが通っていた幼稚園は私立で、キリスト教&英語に重きを置いていたので、園には常にネイティブの先生がいたし、週に数回はクラスで英語に触れる時間も設けられていた。

わたしにいつ物心が付いたのかは分からないが、記憶もほぼ皆無に近いため、物心が付く前から「英語」はわたしのごくごく身近に存在していたものと思われる。

〜小学校〜
幼稚園と同じく、小学校6年間も私立の学校に通った。幼稚園と同じ系列の小学校だ。
小学校は学区内で通うのがわたしの住んでいた田舎では当たり前だったが、当時わたしは自ら私立小学校に行きたいと両親に懇願したらしい。
当時まだ6歳の娘が何度聞いても「この小学校に行きたい」と確固たる意思を曲げない姿を見て、両親はとても嬉しかったらしく、今でもよく話題にされる。
とまあ、わたしの無理なお願いを叶えてくれた両親のおかげで、わたしは希望した小学校に無事入学することができた。
学区内ではないので、毎朝片道30分ほど市営バスに揺られながら通った。
この市営バスにはもちろん6年間お世話になったわけだが、いかんせんまだまだがきんちょだった当時のわたしたち。友だちとワイワイしすぎたために一般の利用客から小学校宛てに苦情の電話が行くなんてことはしょっちゅうで、バスの中では静かにしなさいと全校集会で怒られていた。わたしたちがちょうど3年生の頃に、ハリーポッターが話題となり、一人一冊はハリポタのあの分厚くて重い本をランドセルに忍び込ませていたので(もはや教科書の一つみたいな扱いである)その頃からは各々バスの中=ハリポタの世界みたいなもんだったので、苦情も少しずつ減っていった。(完全に無くなったわけではないところがミソ。笑)

前置きが長くなったが、わたしが自ら希望して入学した小学校は、週2で宗教(キリスト教)と英語の授業があった。
わたしが4年生の春にはたった10日間ではあるがアメリカに留学するという、本当に貴重な経験もすることができた。初めての親元を離れるという経験、初めての海外....。時差ボケに悩まされたこともあったが、わたしがお世話になったホームステイ先のご家族が本当に本当に温かい人たちだったのもあり、日本に帰りたくないと泣いたほどホームシックのホの字もないほど満喫した。
本来ならば5,6年生でも希望すれば短期留学できたのだが、2000年の911同時多発テロの影響でそれ以降は叶わなくなってしまったのが本当に今でも無念である。

英検も小学校在学中に4級まで取ることができた。
確か5年生の時に3級も受けたのだが、よくあるマークシート記入ズレという失態を犯してしまい、気付いた時は既に遅しという形で、残念ながらわたしは小学校のうちに英検3級に合格することはできなかった。

正直、英語の成績は良くなかった。英語は好きだったが、文法がさっぱり理解できず、毎週行われるミニテストでも100点満点中6割取れたら良い方だった。
ただ、英語の授業、そしてなぜか音楽の授業でも海外の映画を観る機会があって、その時間はとてもとても大好きだった。
英語の授業ではエンヤやカーペンターズの曲をみんなで歌った。あの頃歌った曲は今でも歌詞を見ずに歌えるので、若い脳みその力の凄さをひしひしと感じる。
6年生の頃にはAvril Lavigneに出会い、毎日家でAvril直筆の殴り書き歌詞カードを必死に読解しながら一人で歌った。
成績という点では軒並み“中”くらいだったが、当時から「英語」がとても好きだった。

〜中学校〜
残念なことに、なぜか通っていた私立には中学校部門だけなく、泣く泣く市立の中学校へ進学した。
元々マンション住まいでご近所付き合いというのも乏しかったわたしにとって、思春期真っ只中で知り合いすら誰一人いない環境に身を投じるのはかなりのストレスだった。
それに、田舎特有の不良生徒なんかも男女問わずちらほらいたし、それまで私立で1クラス10人程度と少数で全員仲良しという環境で過ごしていたわたしにとって、1クラス30人という大人数も慣れないものであった。
そんな中で唯一自分にできることと言ったら勉強くらいだったので、ごくごく普通に勉強をした。
その結果、中学校に入学してから初めての定期試験で、総合成績4位を取った。
これだけ見るとすごく喜ばしい結果だ。わたしも当然嬉しかった。
しかし、今でこそ「プライバシー」ということで成績順位で名前開示なんて考えられない時代になったが、当時は上位10名の名前が廊下に貼り出される時代であった。
前述した通り、わたしは中学校に入学するまで学区内に友だちどころか知り合いすらいなかったので、自分の名前が貼り出されることにすごく抵抗があった。「この4位の人だれ?」という声が別のクラスから上がっているのも聞いた。

「目立ちたくない」
という感情を生まれてはじめて抱いた。
同時に、
「次も良い結果を出さなきゃ」
というプレッシャーを抱いたのもはじめてだった。
結果、それ以降わたしが総合成績4位以上になることはなかった。
一度良い成績を出したきり、あとは下り坂。なんとも情けない話である。でも、当時のわたし自身はそれを望んだ。

「英語」に関しては、小学校で勉強していたものより正直言うと格段に簡単だったので、予習復習をせずとも余裕だったし、定期テストも英語だけは軒並み好成績だった。
この頃には、幼稚園時代から通っていた英会話教室がなくなってしまい、家の近くにあるイギリス出身の方が開いている個人英会話教室に通うようになっていた。
この英会話教室では、基本的に日本語を口にするのはタブーで、かなり英語圏に近い環境で英語に触れることができた。
中学校は3年間心許せる友だちは数人しかいなかったし、正直居心地が悪かったが、この英会話教室では明るい先生たちや「英語が好きだ」という共通点を持った友だちに囲まれ、ありのままの自分で過ごすことができたので、とても大好きな場所であった。そして、今思うと、当時あの英会話教室に通ってなかったらわたしの居場所ってどこもなかったんだろうなと怖くなる。(当時は母親が夜飲み歩いている時期で、家族のことが信じられない時期であった)

中学時代はわたしにとって紛れもなく黒歴史であるが、そんな暗黒時代の中で自分は「英語」が好きなんだ、得意なんだと自覚(はたまた錯覚?)することができたと言える。
その僅かながらも抱いた自信のおかげもあり、中学卒業までには、ひとつの目標であった英検準2級に合格することができた。

〜高校生〜
高校は受験で県立高校に合格、入学した。
第一志望ではなかったものの、第二志望で市内で2,3番目の進学校。
中学校は良くも悪くもいろんな人がいたけれど、高校はみんなそれなりの将来を見据えて入学している人がほとんどだったから、勉強して良い成績を収めて"悪"目立ちをする恐れもなかったから、伸び伸びと文武両道出来たし、新しく良い友だちもたくさん出来て、本当に楽しい3年間だった。

英語も相変わらず予習復習なんてするわけもなく、ましてや内容がつまらなさすぎて授業中爆睡することも少なくなく、しょっちゅうみんなの前で先生に怒られていた。そしてそれを恥ずかしいとも思わず、試験で良い成績残せればいいでしょーと謎に強気な姿勢を崩さなかった。今思うと生意気な生徒だ。英語以外は授業も真剣に参加したし勉強もした。

しかし高2の途中くらいから、センター試験に向けた対策授業になるにつれ、少しずつボロが出始めることになる。
「文法」の壁にぶつかったのである。
それまでのわたしは、英語は基本的にすべて直感だった。幼い頃からいつも身近にあったし映画や音楽で耳が英語に慣れていたのもありリスニングは大得意で、読解文に関してもニュアンスでスピードリーディング理解は可能だったので、それまで苦労したことはなかった。
だが、細かい文法の問題になると「あれ?これなんだろう」ということが出てきたのである。
実際に当時の英語担当の先生にも文法知識不足を指摘された。頑固なわたしは、そんなことない!ともうしばらく感覚で英語と向き合う日々を続けたが、やはり少しずつ伸び悩むようになった。
自分の負けを認めるようで些か不服ではあったが、このままでは喉から手が出るほど行きたい某大学に行けないと焦りが出始めたので、文法の授業に真剣に参加するようになり、自宅でも文法と向き合うようになった。

センター試験本番。
見事にわたしは唯一自信があって、第一志望の大学で最重要視される教科である英語で大コケする。
試験の内容がそれまでの傾向とは打って変わっていて、その変化に怖気付いてしまったのである。
それまで抱いていた英語に対する好きという気持ちや自信より、「失敗したらどうしよう」という気持ちの方が勝ってしまったのである。
ちなみにそう言える理由の一つに、世界史の次に自信の無かった国語(特に古文・漢文)がセンターでは160点越え(200点満点中)だったということがある。センター前は過去問をいくら解いても毎回100点ギリギリ行くか行かないかの瀬戸際だったにも関わらず、自信がないからこそ過度な期待もなく、半ば諦め、言ってしまえばラフな気持ちで臨むことができたからなのだと思う。(ちなみに世界史は安定の40点くらいであった笑)
好きになるということは、同時に、弱みを握ることなのかもしれない...。

いろいろあったが、とりあえず高2で英検2級に合格した。
また、友人に誘われて特別対策勉強もせず挑んだTOEICでは650点くらい取れて、ちょっと調子に乗ってしまった。ちなみにTOEICを受けたのをキッカケに英語の訛りを意識するようになった。特にブリティッシュ訛りの英語がどうも苦手で、それまで普通に観ることができていたハリーポッターも急に観るに耐えなくなった時期もあった。笑

高校時代は、ただ英語が好きという想いだけじゃ結果に結びつかないこと、そして「好き」の気持ちは弱みにも繋がることが分かったと言えよう。(今現在海外ドラマは刑事物と超常現象物を並行して見てるんだけど、どちらも好きな人の存在のせいで自分は痛手を負うとか、敵に弱みを握られるとかいう描写よくあるんだよなあ。同じ現象かな。笑)

〜大学生〜
第一志望ではないが、私大の外語大に進学したわたしは、大学に「英語」をはじめとする語学を愛する学生や教授にたくさん出会うことになる。
それまでのわたしは、負けず嫌い故、負けが見えてる試合には本気を出さないという自己防衛体質だったが、大学では逆に自分よりも秀でている人や努力を惜しまない人たちに感化され、諦めずに上を目指して勉学に励むようになった。
リスニングとスピーキングが好きだったわたしは、高校まではあくまでセンター試験を見据えたリーディングとライティングがメインになりがちな英語教育がどうしても最後まで好きになれなかったので、大学に進学してようやく本当の意味で英語の授業を楽しめるようになった。
文法は相変わらず苦手だったけれど、当時まだクラスメイトだった旦那が文法博士だったのもあり、分からない時は教えてもらうことで少しずつ苦手意識を克服することができた。(自分に持ってないものを持ってる人に、惹かれてしまうよね。笑)

SLA(Second Language Acquisition=第二言語習得研究)に出会えたのも、個人的には忘れ難い。
それまでは漠然と、(自分含め)日本人の英語習得が遅いと言われる所以は、どう考えても試験のための英語教育のせいだ!もっとスピーキングやリスニングにも重きを置きいた早期英語教育が必要だ!と思っていた。しかし、"言語間距離"というものの存在を知り、教育の在り方以前にそういう変えられない事象があるなら仕方ないのかもしれない。しかしその"距離"を逆手にとることで、日本人にとって英語をより習得しやすくする方法を編み出すことはできないだろうか、と前向きに捉えることも出来た。
また、第二言語が母語の学習を阻害する可能性を秘めているという点に関しては、早期英語教育に絶対的価値を信じ、将来的に幼児英語教育の仕事に携わりたいと思っていたわたしにとってはだいぶショッキングな話であった。

大学では約10年ぶりに海外留学をする機会もあり(しかも有難いことに1ヶ月間!)ホームステイ先のご家族や教育実習先の小学校の先生や生徒たちと英語で会話ができるのは本当に楽しかった。

4年間の大学生活で、様々な経験に加え、英検準1級、児童英語教員養成課程修了書とJ-SHINEの資格という目に見える結果も得ることができた。
それまでは正直資格なんかなくても実力が示せるならいいじゃないと思っていた。確かにそれも一理あるかもしれないが、就職活動を経て、資格は自分の強みを分かってもらうのに一番の手立てになるということ、そして何より自分の自信に繋がるということが身に染みて分かった。

〜社会人〜
社会人になってからはめっきり英語と関わる機会も減った。大好きな音楽や映画を通して映画に触れる機会はあったものの、言語として「使用」することはほぼ皆無。
しかし、二つ目に勤めた保育園が英語教育を少し取り入れてる所だったため、週に1,2度ネイティブの先生が来園して子どもたちと英語を楽しむ時間があった。将来的に保育園やインターナショナルスクールで働くことを夢見ているわたしにとって、たった20分程ではあったがネイティブの先生が体全部を使って映画の楽しさを子どもたちに伝える姿を見る時間があったのはすごく有益だった。(実際は走り回る子どもたち数名を追いかけたり、飽きて別の遊びに移る子どもたちに合わせたりと、てんやわんやでもあった。笑)
子どもはやっぱり動きも話しも大袈裟過ぎるくらいの方が興味を抱いて視線を向ける。
人の目を気にしがちなわたしに果たしてこんな授業ができるだろうか…と自分の夢が自分に見合うものなのか分からなくなってこっそり病んだりもしたが、やはり保育園で保育士と働きながらも夢は捨てられなかった。

ある日会社からこんなの受けてみないか?と全社員に通達があったことをキッカケに、「保育英語検定」の存在を知り、準1級を受けた。(合格したら特別手当てももらえるって言われたから絶対受かりたかった笑)
準1級からは面接試験もあって、英語の面接なんて就活ぶりだったからかなり緊張したなあ。
面接試験後すぐ帰宅しようとしたら突然男性に話しかけられ、「面接中の受け答え、外まで聞こえてたよ。英語すごいね、経験者?インターナショナルスクールで働けるくらいの実力あるよ。職場紹介できるから、いつでも連絡してね。」とその検定協会の人が名刺をくれた。
そんな経験初めてだったし、学期途中でそう簡単に今の保育園を辞めるわけにも行かないし、大体そんなうまい話ある?!と疑心暗鬼になりつつも、以降わたしはスマホケースにこっそりその時渡された名刺をずっと忍び込ませ、一種のお守りにしていた。「わたしの実力を認めてくれる人もいるんだ」と示してくれるお守り。
…ちなみにそのスマホケースはとっくに使用機会はないのだが、未だに名刺は捨てられずにいる。今連絡した所で何も起こるわけないし、今後連絡する予定もないのに、捨てられない。思いがけないものに魂が宿ること、あるよね。笑

そしてここまで書いて、ふと保育英語検定1級欲しいなあと調べたら、
・2019年から名前が「幼保英語検定」に変わったということ
・資格は更新手続きをしないと3年で切れる
という情報を目にして心臓がバクバクしている。確か受験したの2017年とかだった気がする…え…知らないうちに資格失効してる…?泣
もしそうなら尚更近々1級受けて合格してやりたい。



ここまで書いて改めて分かった。
大袈裟な言い方かもしれないけど、わたしの人生は「英語」無しじゃ語れない。というか、いつの時代も「英語」が当たり前に近くにあった。きっと「好き」だから無意識に引き寄せていたのだろうか。そういや「引き寄せの法則」って言葉、あるよな…。
好きだからこそ引き寄せたし、自分なりに努力できたんだろうな。


未だ実現はしていないし、実際叶うかも分からない夢。
それでもわたしはインターナショナルスクールで働きたいし、いずれは個人英語教室を開きたい。
自分がそうだったように、小さい頃から「英語」を身近に置くことで、その後の義務教育下での英語に対する苦手意識を一人でも多くの子から取り除いてあげたい。英語が使えることでコミュニケーションが取れる対象が増える体験をすることが、その子の世界を広げるキッカケのひとつになってほしい。

今は我が子の毎日コロコロ変わる様に翻弄されて自信を無くすばかりの日々だけど、これまで自分が頑張ってきたことや好きだと信じてきたことを忘れたらいけないな。
程良く高めの自己肯定感を維持しつつ、自分が好きだと思うものを信じながら、今日からまたはじめよう。

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