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東京オリンピックと「正義」の話

この時期にこんなことを書いたら、
きっと批判されてしまうかもしれない。

読み終わった後に「なんだこの阿呆は」「綺麗事ばかり並べてるな」と思われることも、あるかもしれない。
でも、今だからこそ、書き留めておきたかった。

私は、東京2020オリンピック・パラリンピック大会を楽しみにしている人の1人である」ということを。

色々な事情や感情があることは、もちろん理解している。日々の報道やSNSで飛び交っている鋭い言葉たちを1つ1つ噛みしめながら、そうだな、その通りだなと感じることは多々あるし、それが間違っているとも思わない。このような状況で開催するべきではないという声も、きっと大きいのだと思う。

それでも私は、この大会を目標に、厳しいトレーニングを重ねているアスリートのことを心から応援したい、という気持ちも、同じくらい強い。

そして、この大会のために準備をしてきた方々のことを、そして時には裏で涙を流したであろう方々の気持ちを、忘れたくないと、思うのだ。




2013年9月。
あの日私は、大学のゼミ合宿に向かうバスの中にいた。

「ニュース観た?びっくりしたんだけど!」
「見た見た!」
「生きてる間にオリンピック観られるなんて最高じゃない?」
「2020年の東京は、どうなっているんだろうね」
「それまでには結婚してたいなぁ」
「なんで?」
「だって、なんとなく夫婦で観戦したいし!」
「どういうこと〜?」
「開会式観られたら絶対感動するよね〜」
「私の友達にもアスリートいるから、同世代が活躍してたら本当に勇気もらえそう!」

アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC総会で、2020年大会の会場が東京に決まった、翌日のことだった。

驚いた。
まさか、と思った。
心が躍った。
ワクワクした。

私たちは、未来の話をした。
私たちが想像する2020年は、希望に満ち溢れていた。

「TOKYO」とコールされた時に驚きや喜びを感じた人は、きっとあのバスの中だけではないはずだ。
7年後の東京に想いを馳せながら、それぞれの未来の話をしたのではないだろうか。

あの頃の私たちが今の状況を知ったら、きっと悲しむんだろうな。
ふと、そんなことを思ったりもする。


幼い頃から母から教わってきたことの一つに、この言葉がある。
正義は人の数だけある。だから自分の正義だけを押し通そうとしてはいけないよ
社会人になってから、この言葉を何度も思い出すようになった。

正義というのは、厄介だ。
意見というほど軽くない。
自分の中で絶対に正しいと信じているし、曲げるつもりもない。
でも、それは他の人の正義と照らし合わせると、間違っているかもしれない。
私の正義も、同じである。

最近特に、ニュースやネットの批判の声を見ていると、目を背けたくなることが多い。
誰かが、他の誰かの正義を叩く。
尊重したり議論するでもなく、ただひたすら、叩いている。
一方で、人の数だけある正義を、全て尊重するのなんてきっと夢物語だ、とも思う。
「そもそも東京でやることに反対だった」
「都民が全員オリンピック歓迎してるって思わないでほしい」
「飲食店ばかり我慢させられてやってられない」
「延期できれば良かったんじゃないの」
「こんなにお金使われてるのに無観客とか」
「オリンピックは開催するのに日常生活が制限されるのは理解できない」
「そもそも問題が多すぎた」

確かに、そうだ。
制限されることによって我慢をしなければならない方々や、医療従事者として第一線で働いてくださっている方のことを思うと、心臓がギュッとなる。

そのことはわかっているのに、
開催まであと約1週間というとてもワクワクしているであろうこの時期に、
「大会を楽しみにしている」という、本来であれば前向きな気持ちを表現したり書くこと自体を躊躇わなければいけない雰囲気が強いのは、
私の中の1つの正義が、許してくれなかった。


オリンピックとは関係ないけれど、私もこの約1年半、企画したイベントが中止になったり延期になったりすることが、何度もあった。
「ここまで準備をしました。対策もしっかりできています。どうにか……どうにかなりませんか。どうしてもお客さまに届けたいんです」という感情や言葉は、
「わかりました。はい、やっぱりそうですよね」に変わっていった。
いつからだろう、感情を押し殺すようになった。
悲しい悔しいという気持ちを真正面から受け止めないようにする。期待をしなければ、裏切られることもないから。
でも、心の奥底では、やっぱり悔しいし、辛いし、悲しいし、やるせない。当たり前だ。見ないようにしているだけだ。

誰かの希望になってくれますように、楽しいと思ってもらえますように、と思いながら、大勢の人と協力しながら積み重ねてきたものたちが、なくなってしまった。ほんの、一瞬で。
誰にも、届くことなく。


私は、働くことが好きだ。
誰かのために働くことが、好きだ。
だからこそ、悔しくないはずが、ない。


社会人になってから学んだことは多くあるけれど、これまでの人生で気づかなかった例え小さなことさえも「誰かの仕事で成り立っている」ということに気づけたことが、一番大きな学びだと感じている。
だからこそ、一つ一つのことに、感謝をしたい。見えない誰かの働きに、ありがとうと言いたい。
私が社会の小さな歯車に組み込まれたということは、誰かの働きに感謝をするということも「働く」の一つなのではないか、と思っている。
これも私の正義の1つなのか、と気づいたのは、ここ最近のことだ。



東京オリンピック・パラリンピックに携わってきた方々のことを想う。
どうにか安全に有観客で開催できないかと調整してきた方、チケット1枚1枚の発送準備をしていた方、サイトの更新や情報発信をしている方、聖火リレーを繋いできた方、大勢のお客さんが入ることを想像しながら国立競技場の建設に関わってきた方、
目に見えない場所で細やかな仕事をしてこられた方々のことを。
きっと、大変だろう。
悔しいだろう。
どうしてこうなってしまったんだ、と思うこともあるかもしれない。
批判の声を浴びながら開催することに戸惑っている人も、いるかもしれない。

この大会が終わる時、
「色々あったけれど、携われて良かった」と思う人が1人でも増えるような、そんな大会になりますように、と私は願わずにいられない。


そして、今もやもやと考えているようなことさえ、一瞬で吹き飛ばしてくれるような歴史的な瞬間を、スポーツマンシップに溢れる痺れるような試合を、ヒーローたちが繰り広げてくれることも、信じている。

初めて夜更かしをしたアテネオリンピックの、体操男子団体決勝で金メダルが決まった瞬間のような。
台湾戦でホームランを打った由伸選手を見た時のような。

言葉では言い表すのが難しいくらい、
未来を前向きに生きるパワーがむくむくと湧き上がってくるような感覚を。




私の正義は、間違っているかもしれない。
否定したい人もいるかもしれない。

それでも、社会人として、日本人として、スポーツを愛する1人の人間として、
私はアスリートの皆さんを、そして東京2020オリンピック・パラリンピック大会のために働く全ての人を、応援したい。



信じたい。

この大会が無事開催され、成功することを。

「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」という、クーベルタンが提唱したオリンピズムが、今こそ実現できることを。


この大会が終わる頃、今より状況が良くなり、
他人の正義を否定し歪み合い罵り合うだけでなく、
互いの正義を思いやり尊重しながら、
少しでも誰かの心を想い、寄り添い、想像し、優しい言葉をかけることができるーー
そんな世界になることを。



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