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【青識亜論考:2】青識亜論は「差別する自由」を求めている


この記事は「【青識亜論考:2】」です

先日【青識亜論考:1】という、青識亜論についての記事を書いた。

【青識亜論考:1】の中で結論として私は「真に「表現の自由」に関する議論をするためには先ず、青識亜論をギロチンにかける等して、青識亜論を議論の場から追い出すべき」と書いた。
その理由については、【青識亜論考:1】」の中で書いた通りだ。

本記事の公開についての仕掛け

さて、私は本記事の公開について、一つの仕掛けをしていた。
それが下記の画像だ。

https://note.com/dokuninjin7/n/nf7fc1ff696efのコメント欄より

これは、青識亜論の「マシュマロ返し vol.1」という記事に私がコメントしたものだ。
わざわざ自分のnoteに、自分について書かれた記事のリンクをコメントで貼られて、青識亜論が「【青識亜論考:1】」を読みに来ない訳が無いだろう。
そして、青識亜論なら、「【青識亜論考:1】」を読んで必ず何らかの反応をする
「本記事の公開は、青識亜論が「【青識亜論考:1】」を読んで何らかの反応を示した直後にしよう」と仕込んでいた。

青識亜論は「差別する自由」を求めている

「言葉(論)」より「行動(践)」

先ず、「青識亜論は「差別する自由」を求めている」。これについては、暇空茜さんが下記の動画でも説明している通りであり、

私はこの点、暇空茜さんが述べている事に現状では同意せざるを得ない。

私は、人を見る時は「言葉(論)」ではなく「行動(践)」だけで人を見る様にしている“「行動(践)」がその人物の全て”であると考えている。
「行動(践)」と「言葉(論)」に矛盾が有る場合、「行動(践)」こそが、その人の実際であると判断する様にしている。
その事を書いたのが下記の記事だ。

おそらく、暇空茜さんが青識亜論を「青識亜論は「差別する自由」を求めている」と評する理由は、暇空茜さんは人を見る時に「言葉(論)」よりも「行動(践)」を重視して見るタイプの人間だからだと考えられる。

これは、彼(青識亜論)だけに限った話ではなく、その他のアンチフェミニストに対しても、フェミニストに対しても私は、「践」がその人の全てと見ている。
故に、彼(青識亜論)がどれだけ言葉で取り繕おうと、彼の行動が「差別する自由」を求めている人の行動であり続けている現状では(彼の「行動(践)」が「差別する自由」を求める人の「行動(践)」で無くならない限りは)、彼は「差別する自由」を求めていると言わざるを得ない。

「嫌悪」は「差別」を生み、「差別」は「戦争」を生む

以前、「嫌悪は差別を生み、差別は戦争」を生むという話を聞いた事が有る。
人間に限らず、ある程度以上の知能を持った生物は、自分と違うモノを嫌悪し、嫌悪が集まる事で差別が生まれ、差別が固まりになると戦争になるという話だ。

この話を前提として述べると、「嫌悪は差別を生む」「嫌悪を表現する人は、差別を表現する様になる」故に、嫌悪や嫌悪表現を肯定するという事は、「差別や差別表現を肯定する事である」となる。

「本を焼く者はいずれ、人を焼く様になる」という言葉が有るが、それと同義な話として、「嫌悪を肯定する者(嫌悪を表現する事を肯定する者)はいずれ、差別を肯定する者(差別を表現する事を肯定する者)になる」と言える。

「嫌悪」と「嫌悪表現(嫌悪を表現する事)」に関して、先日、青識亜論さんが下記の記事を公開して、「嫌悪」や「嫌悪表現」を肯定していた

が、これを読んで私は、これまでも持っていた「青識亜論は差別する自由を求めている」という認識が間違いないものであることを確信した。

「フットインザドア」テクニックという交渉術をご存知だろうか?
小さな要求を承諾させることで、大きな要求を通しやすくする交渉術の事を言う。
上記の青識亜論の記事は「フットインザドア」テクニックの教科書ともいえるもので言うならば「嫌悪」や「嫌悪表現」の肯定を求めて通せてしまえば、その後ろに「差別」や「差別表現」の肯定を求める易くなる流れになっている。
「差別」や「差別表現」に反対する者は「嫌悪」や「嫌悪表現」に対しても反対でなければ一貫していないし、「嫌悪」や「嫌悪表現」を肯定する者は「差別」や「差別表現」を肯定する者だと私は考える。

余談だが、「フットインザドア」テクニックと逆の交渉術として「ドアインザフェイス」テクニックという、あえて最初に大きな要求をして相手に断らせることで、あとから本命の小さな要求を通すという交渉術が存在している。

公務員という立場上「差別する自由を求めている」などと大っぴらに言えないだろうから、彼は今後も「差別する自由を求めている」という点に関しては必死になって取り繕おうとするだろうが、どれだけ取り繕おうが、彼の「行動(践)」を見て、彼が「嫌悪」や「嫌悪表現」を肯定する記事を書いているのを見た以上、彼は「差別する自由を求めている」と言わざるを得ない。

「差別」は悪?

さて、ここまで「青識亜論は差別する自由を求めている」という話を書いてきたが、ここで一言言わせてほしい。

「差別」は本当に悪なのか?

「差別」は本当に悪なのか?だ。
私は、「差別」=「悪」だという今の社会風潮に対して疑念を持っている。
故に「青識亜論が差別する自由を求めている事」は咎められる事ではないと考えている。

そもそも「差別」はいつできたのだろうか?
江戸時代?戦国時代?遡っていけば平安時代にも差別は存在していたし、弥生時代、縄文時代にすら集落間での戦争というものがあった事を示す遺跡が出てきている事はご存知だろうか?
縄文時代の時点で集落間での戦争があったということは、集落間での差別が有ったということだ。

人間以外にも、猿の社会でも戦争(ボス猿争い等)が存在する事はご存知だろうか?
人間が人間になる前、猿だった時代から差別は存在したと考えられる
嫌悪が差別を生み、差別が戦争を生み、戦争に寄って弱い種族が淘汰されるという流れを繰り返して地球上の生物は進化してきた。
おそらく、地球上に生物が誕生した瞬間から「嫌悪」「差別」「戦争」は、生物に宿命付けられたものであり、生物が進化するために必要なものであったと考えられる。

私は、「差別する自由を求める人物が存在する」という事実が有るとして、では「差別する自由」を求める事は「悪」なのかというと、「差別する自由」を求める事は「悪」ではないと考える。
ただ、「本心では差別する自由を求めている(ことが、「践」から明らかな)人間が、その本心を隠したり伏せた状態で、言葉(論)を積み重ねる事」は(青識亜論に限らず)悪だと思う。

ここまで「青識亜論は差別する自由を求めている」という事を強く述べてきたが、「だが「差別」は本当に悪なのか?」というのも同時に私は述べておく。
「差別」が悪でないなら「差別する自由を求める事」は何も咎められる事ではない

差別主義者であることを誇ろう

よく、フェミニスト等がアンチフェミニスト等と議論する時に、下記の画像の様な前提の上で議論を始めようとする事が有る。

『お左翼ルール』

「差別する自由を求める事」を悪と断定し、「正義のフェミニスト 対 悪の差別主義者」の構図で議論を始め、最終的に「差別主義者は悪(であるからこれ以上対話する必要は無い)」という所に結論を持って行こうとする事が、フェミニスト界隈では多々ある。
「差別主義者」と認定されるのは嫌な気分がすると感じるアンチフェミニストは少なくない様に見受けられ、「差別主義者」認定されると必死になって「自分は差別主義者ではない」と言い訳しようとするアンチフェミニストをこれまで多々見てきた。

そうしたフェミニストとアンチフェミニストのやりとりを見ながら、私は思った事が有る。

「差別主義者」であることは、誇るべきではないだろうか?
先に述べた通り、「差別」=「悪」とは私は思わない議論するならば先ず「本当に「差別」=「悪」と言い切れるの?」という部分から議論するべきだろう。

私は「差別」≠「悪」であると考えている。
だから、「私は差別主義者である」と宣言した上で、「差別は本当に悪なのか?生物は(人類以外の生物も含めて)差別(≒淘汰)が有ったから進化してきたのではないか?差別が無ければ、人間社会は今の様に発展する事は無かったのではないか?」と答える。

この記事を読んだ皆に(青識亜論さんにも)「差別は本当に悪なのか?」という所についてどう考えるかを問いたい。
私は、「差別は生物が進化するために必要“だった”ものであり、“今後も進化するために必要なもの”である(即ち、差別は悪ではない)」「仮に、差別は悪だと考えなければならないとするならば、“必要悪”である」と考えている。
そして、生物とは、一つの差別理由が無くなれば別の差別理由を生み出すという事を常に続けて進化してきているのだから「差別は地球上に生物が存在する限り永遠に無くなる事は無い」と考えている。

フェミニストとアンチフェミニストが“他の何よりも一番最初に議論するべき議題”は「(男性差別、女性差別に限らずありとあらゆる)「差別」は本当に悪なのか?」であると考えるが、フェミニスト側にもアンチフェミニスト側にも、この議題で議論しようとする人が(青識亜論と石川優実を含めて)誰一人存在しないのだから、そりゃあ、フェミニストとアンチフェミニストの間で議論・対話は成立しないなと思う。

私は、青識亜論が「差別する自由を守りたい」と、「公務員の地位を解雇される事になってでも主張する」なら彼の隣に立って彼と共に主張したいとは思うが、彼には「公務員の地位を解雇される事になってでも主張する」ほどの覚悟が無い事は、石川優実との訴訟での日和った結果等からも明らかなのが残念なところだ。

ここまでは、事前に仕込んでいた文章です

この項より前の部分は、【青識亜論考:1】」を公開した時点で既に書き終えており、青識亜論が「【青識亜論考:1】」に対して何らかの反応を示したら公開しようと仕込んでいました

ここからは、【青識亜論考:1】」に対する青識亜論からの反応を受けての返信です。

青識亜論さんへの返信

ごめんなさい、コメント見落としてました。

マシュマロ返し vol.1

「本当に見落としていた」のか、「実際には見ていたけれど「【青識亜論考:1.5】」を見て反応した」のかは検証しようが無いのでどちらでも良いですが、今までの青識亜論さんの「践」を見てきた限りでは「多分後者かな」と私は思っています。

その意味では、「誰が発言したか」も多分重要なんだろうというふうに、今の私は考えています。

マシュマロ返し vol.1

これは、過去に貴方が主張していた「議論をする際は、「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」を重視して欲しい」について、部分的に撤回するという認識でよろしいでしょうか?(YESかNOでお答え下さい)

言い訳みたいな部分に関しては「論」より「践」で見る私としては、「「論」に意味は有りません。「論」ではなく「践」で見せて下さい」と思いました。


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