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"平成の目指した多様性"は生きやすさを産んだのか|【読書感想文】『死にがいを求めて生きてるの/朝井リョウ』

※ネタバレを含みます

平成。
今思えば不思議な時代だった。
ノストラダムスでも潰せなかった時代だ。

生きがい。
この小説の大きなテーマである。
作中で主人公の堀北雄介は言う。
人間には三種類いる。一つ目は、生きがいがあってそれが自分以外の他者や社会に向いている人間。二つ目は、生きがいが自己実現に向いている人間。そして三つめが、生きがいのない人間。

また、この小説では生きがいの裏面である、死にがい、についても書かれている。
死にがい。
命を懸けてでも成し遂げたい事、この身が朽ちたとしても守りたい人。

自分には、生きがいや死にがいがあるのだろうか?
それをどこで手に入れたのだろうか?
この先どこで手に入れられるのだろうか?
それらを手にしない人生は無駄なのだろうか?

この小説は、"平成"という時代を舞台に、そんな疑問を持ちながら生活を送る人々を描いた群像劇である。
そして恐らく、ほぼすべての読者も同じ疑問を自答することとなる。
何故なら、2023年1月現在、この小説を最後まで読める人間は、"平成"の時代を生きてきた人間のはずだから。

・作品に横たわる"平成"という時代

作者も言っていたが、平成というのは対立が避けられ始めた時代である。
運動会では順位を付けない、定期テストの成績優秀者も発表しない、競争ではなく協力を、ナンバーワンじゃなくても元々みんなオンリーワン、全員が多様な個性を伸ばしていくetc…そういう時代だ。そしてその根本には、ゆとり教育がある。
そんな風潮が光を当てた人もいるだろう。従来の競争を主眼に置いた教育では発掘できなかった才能もあるだろう。SNSを覗けば、"平成が目指した多様性"に救われた人々は大勢いる。

しかし、この小説が描くのはその光から漏れてしまった影の部分である。
"平成が目指した多様性"は、一方で社会生活における"自己責任"のウェイトを大きく増やすことにも繋がった。
それまでは、学校や社会が用意した物差しで能力を測られ、それぞれのレールを与えられて生きていくというのが人生の一つのルートであった。
しかし、ゆとり教育が目指したものは違う。自分がどう生きていくかは、自分で考え、自分で成長し、自分で実現していく。自分の責任で、である。そして社会はその多様な自己を許容し、協力する。

しかし、教育が変わり、社会の目が変わっても、日本が資本主義国家であることは変わらない。
「私は、どの分野でもクラスの最下位だけど、それも個性」では生きがい・死にがい以前に食べていけない。
生活に折り合いをつけて、かつ自己責任でどう生きるのかを決めていかなければいけなくなった。

自分が他人と比較して相対的にどうか、を学校は教えてくれなくなり、自分がどう生きればいいか、を社会は教えてくれなくなった。
君はオンリーワンだからそのままでいいんだよ、と言われても100%の納得感はなく、反対に、自分の中の物差しで自分と世界を測り続ける苦しみがあり、そこから生まれる自己嫌悪がある。
そして人間は、自分が苦しまないために、生きがいを手に入れることに迫られ、生きがいを得るために生きざるを得なくなった。

この小説には、その生きがいをうまく手に入れられず、足掻く人々が描かれている。
特に、主人公の一人堀北雄介と中年ディレクターの弓削は顕著である。
自分のためにも他人のためにもやりたいことがなく、常に対立する相手をその時々で見つけながら、死ぬまでに「自分にしかできない役割」を見つけようと躍起になっている雄介。
ようやく生きがいを感じられる仕事にありつけそうになったのに、その仕事は中断されてしまい、さらに後輩の女性ディレクターが、かつて自分が作ったドキュメンタリーと同じ題材でより深い心情を切り取ったのを目の当たりにしたことで、最終的に自分のオフィスに放火してしまう弓削。
そう、二人は、生きがいを通り越し、死にがいを求めてしまっている。どう生きるかではなく、どう死ぬか。
弓削に至っては、どう死ぬかをも通り越し、死に至る自滅の道を歩んでしまった。

自分の生きがいや居場所を見つけられず、事件を起こした人間は現実にもいた。
秋葉原無差別殺傷事件の犯人である加藤智大氏や、『黒子のバスケ』脅迫事件を起こした渡邊博史氏である。
特に、渡辺氏が最終陳述で話した「極端な行動に出たり、攻撃する標的を作らないと社会とのつながりが持てない」というのは雄介そっくりである。
インターネットで彼らは『無敵の人』と呼ばれた。失うものがないために、犯罪を行うことに躊躇いがない人、という意味である。失うものがないのは生きがいがないからに他ならない。
なお、この『無敵の人』は西村博之氏が作った言葉である。平成における持てる者と持たざる者のコントラストが目に痛すぎる。

小説の話に戻ろう。
生きがいを手に入れられる人物や手に入れられない人物に囲まれながら読者も自分に問うことになる。
自分の生きがいを。
もしくは死にがいを。
本当に自分は自滅しないでいられるのかを。

・"平成"に飲み込まれなかった私の幸運

私は平成初期の生まれである。
よって、前項で書いたゆとり教育にどっぷり漬かっていた―――ということは無い。
運動会はばっちり順位が付いていたし、定期テスト上位の生徒の氏名は廊下に張り出されていた。
私が田舎の生まれだったからだろう。都会の学校では、運動会に順位をつけないらしい、というような噂は確かに聞いたことがある。
平成を覆った共同社会の風潮は、私が高校を卒業するまでに、某中部地方の片田舎にはギリギリ届かなかったようだ。

そして、それは私にとっては非常に幸運なことだった。
何故なら、私は従来の学校の物差しで割と優秀な生徒だったからだ。平たく言えば、学校の勉強が得意だった。もっと言うと、勉強しかできなかった。
ペーパーテストの得点と学年順位が学生時代の私のアイデンティティを支えていた。「勉強ができるやつ」という立場さえ守れば、他に何も出来なくても、学校で居場所があった。

30年近く生きてきて恥ずかしい話だが、私が自分の手で勝ち取った一番大きな功績は恐らく学歴である。何とか就職も結婚もしたが、大学生活(と大学の名前)があったから就活も何とかなったし、就職が何とかなった(加えて妻の大いなる努力があった)から結婚できた感がある。
そして、私の受験勉強を成功に導いたのは、間違いなく競争だ。〇〇君より1点でも高く、1つでもいい順位に。そういう思いがなければアイデンティティを守れないと思っていたし、運よく結果にも繋がった。そう考えると、とても"平成"的ではないが、結果として家族という生きがいまで手に入れてしまった。

私は"平成"の光と闇の間を、偶然にも上手く縫って生きてこれたようだ。
私はこの小説を読むまでそのことに気付いていなかった。
体に電流が走るほどの大きな発見だった。
平成に生きたことのある人間なら、この小説で自分の人生の今までとこれからがもっと鮮明になると思う。



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