見出し画像

腕時計|ショートショート

 土曜日だというのに駅のホームは都心に向かう人々でひどく混み合っていた。秋が深まり、外気は澄んでいた。反対に、到着した電車のドアが開くと中は見知らぬ人々の吐息で濁っているように見えた。引き返そうと思ったが、前にも後ろにも人がいて後戻りできなかった。流されるまま乗車するしかなかった。普段あまり乗ることがないせいで、どこに立っていればいいか分からなかった。中程はもうすっかり人で埋まってしまっていて、入口付近から先には進めなかった。この先もまだまだ人が乗り込んでくることが予想された。このままだと流れを遮ってしまうかもしれないと思った。もどかしい気持ちになり、そわそわした。

 どうにかしなければと思い、視線を再び車内中程に向けると、乗り込んだ瞬間には見つけられなかった空間があった。誰かが少しだけ奥に詰めてくれたのだろうか。「すいません」と声をかけながら奥へと進み、つり革につかまった。ようやく心の平穏を得ることができた。これで次の駅から乗ってくる誰かに嫌な顔をされなくて済む。同じ駅から乗り込み、入り口付近から動くことなく停滞している人たちはどんな気持ちでいるのか不思議でならなかった。一ヶ月くらい電車通勤でもしてみれば分かるようになるのだろうか。彼らにとっては普通なのかもしれないが、そこまで無神経になれる自信はなかった。

 買おうと思った腕時計が近くのショッピングモールにあれば、わざわざこんなすし詰めの電車に乗る必要なんてなかった。気楽にスクーターに乗って買い物に行けた。その上、現物を見ないでもいいと思えれば、ネットで買ってしまったほうが早いし楽だった。こだわりを捨てられればもっと人生は楽になるのにと、つくづく思った。

 目の前の座席に座っていたサラリーマン風の中年男性がシルバーの腕時計をしていた。それなりの値段がしそうな代物に見えた。つい気になってしまい、タイミングを見計らいながら、ちらちらその腕時計に目をやった。濃い青色で塗装された文字盤の上を外装と同じシルバーの秒針が滑らかに走っていた。電車内は静まり返っていたが、秒針の音はまったく聞こえず、音のない水中の世界を優雅に泳ぐイルカのように滑らかな動きだった。重厚感もあって壊れづらそうに見えた。身につけているだけで、人柄を全く知らない男性がまともな人間であるかのように思えた。

 とはいっても、よく考えてみれば今時腕時計を身につける意味はあまりないようにも思えた。ほとんどの大人はスマホを所持しており、正確な時間を知ることができる。加えて、個人的には別の理由で腕時計をする意味がないと考えていた。常に時間を気にして、一分一秒を無駄にできない貴重な人生を自分が送っているとは思えなかったし、しようと思っても、そんな立派な人物にはどれだけ努力してもなれる気がしなかった。一日をぼおっと過ごしてしまったところで、それを少しでも後悔したところで、地球は自転を続けるし、戦争を停められるわけでもない。僕にできることといえば、毎日通う会社の近くにあるコンビニの店員さんにきちんと目を見て「ありがとうございます」と声をかけることくらいだ。

 そんなことを言っておきながら、これから僕は腕時計を買いに行こうとしている。社会に出て働き始めたことで、周囲の人間から影響を受け、少しばかりよく見られたくなった。洒落た小物を身につけ、ちょっと気取った大人のふりをしたくなっただけだった。「腕時計をする意味はない」と力説していた割に、矛盾だらけの行動をしている時点で、自分のことをちっぽけな人間だと思う。そのくせ、近所の一般的なショッピングモールに飾ってあるようなものは嫌だと考え、こだわりを持つものだから質が悪い。

 腕時計をながめているうちにふと目の前の男性が顔を上げた。嫌なタイミングで目が合ってしまい気まずかった。ひとまず会釈をしてみた。が、おじさんは「何見てんだよ」と言わんばかりの険しい表情を浮かべた。僕もおんなじ労働者なんだから仲良くしてくださいよとは思ったけれど、見ず知らずの怪しい他人に彼が態度を改めるはずもなかった。それに、彼は結婚指輪もしていて、いろいろと守るべきものを抱えていそうな様子だった。未熟だと言われればそれまでかもしれないが、まだ目の前のおじさんみたいにはなりたくなかった。何も抱えたくなかった。責任を持ちたくなかった。自由でいたかった。生活費を稼ぐためにしぶしぶ就職はしたものの、同じ事を繰り返すだけの日々に働き始めてからまだ三年も経っていないというのにうんざりしていた。

 だからこそ腕時計には違いを見出したかった。ひと味違う生き方をするためには、周りの人がしないような腕時計を手にする必要があると思った。腕時計で生き方を表現するため、手に入れたいと考えた物はとにかく薄っぺらく、軽くて、おもちゃみたいな、公園で遊んでる子どもがしているようなものだった。スイス製のメーカーが販売している腕時計は僕の求めるその幼稚な条件を満たしていた。その上で、お洒落さとポップさも兼ね備えていた。地球上にそんな腕時計が存在しているのは奇跡かもしれないという妙な気持ちに駆られ、この腕時計を買えば、人生の何かを変えられるような気がした。

 お目当てのショップは表参道にあった。一時間近くかけて移動してきたせいで既に疲弊していたが、久しぶりにやってきた都会の雰囲気に少しわくわくもしていた。通りすがる人々のファッションを観察するだけでも楽しめた。しかし、お目当ての腕時計自体は高級なそれに比べると、一部の人間にしか買えないような価格設定にはなっていなかったのだが、表参道にショップがあるというだけで何故か高級店のように格式が高いように思え、緊張してしまった。

 それでも苦労をしてここまで来たことを思いだし、覚悟を決めた。カラフルなガラス張りの入口をおそるおそる通過し店内に入った。が、そこにはスーツを着てフランス製の香水をした上品な店員さんはおらず、白色のフード付きパーカーを着た自分より若く見える店員が待ち構えていた。いつも行っているような店と同等レベルなのだという雰囲気を感じ、すぐに緊張がほぐれていった。僕を案内することになるであろう店員さんは大学生に成り立てみたいな金髪でピアスをしていた。威勢のいい挨拶をしながら熱い視線を送ってきた。

 正直言って、ネットで予め何を買うかは決めていたので、出来る限り店員さんとは話さず、手にとって現物を確認し、問題がなさそうならさっさと買って帰ろうと思っていた。ただし、そうもいかないのが現実で、案の定、さっきの店員さんが幽霊のように背後から近づき話しかけてきた。「何かお探しですか?」何も買う気がなければ「ちょっと見てるだけなので、また何かあれば」と断れるのだが今回ばかりは買い物をする予定だったので無視できなかった。 

 店員さんと適度に会話を交わしながらも、早速買おうと思っていたモデルの腕時計を棚の端っこに見つけた。全体がスカイブルーの配色で統一され、文字盤は白く、秒針と最小限のインデックスは黒色といった、シンプルながら魅力的なアナログ時計だった。見た目は子どもが使っていそうな感じで可愛く見えたけれど、バンドの部分はA4の紙くらい薄いし、手に取ってみると一年で壊れてしまうだろうもろさを感じた。防水性能なんてものは微塵もなく、少しでも雨に降られたらダメそうだった。

 仕事で使うには少しカジュアル過ぎるようにも思え、迷いが生じ始めていた矢先、店員から「普段使いにはちょうど良いっすよね」と言われた。「いや、仕事で使おうと思ってるんですよ」と切り出そうとしたが、議論を始めるのは面倒だった。僕は大人しくしていた。ただ、これは買ってくれそうな客だと思ったのか、あらぬ方向にギアが入り、店員は的外れな提案をし始めてしまった。「こういう軽い感じので普段使いするならけっこうこっちのモデルも人気あるんすよ…」僕は心を無にして話を聞いていたが、普段の仕事で自分もこの店員と同じようなことをして、客先から冷たい視線を送られているのだろうなと思うと、少し彼が気の毒にも思えた。大してやる気もないのに、仕事だからとりあえず提案できる商材があれば満遍なく提案をする。そのほとんどは的を射ておらず、相手からは早く話が終わらないかなと思われている。

 店員の話を聞けば聞くほど気の毒さに拍車がかかり、もっと値段のするいいモデルの腕時計を買ってあげようとも思ったけれど、経済的に余裕があるわけでもなかった。少し提案が落ち着いたところで迷いもあったが、最初から決めていた玩具みたいなスカイブルーの時計を買いますと店員に切り出した。彼は笑顔ではあったが、その両眼からは輝きが失われ、急速に曇ってしまったのがわかった。

 その場では店員さんに悪いことをしたものだと、後悔の念に襲われたのだが、家に帰るとそんな感情はすっかり消え去った。ソファに横たわりながら買ってきた腕時計を幸せな気持ちで眺めることができた。自分を薄情だとも思ったがそんなことでいちいち悩んでいたら生きてはいけない。自分のお金で買うものなのだから何もかも自由なはず。眺めれば眺めるほど満足な気持ちになった。頑張って働いた甲斐が少しはあったと思えた。明日から会社にこの腕時計を身につけていく自分を想像すると明るい気持ちになった。今までは学生気分の抜けない青二歳だったかもしれないけれど、こういう買い物を積み重ねて行く中で変わっていく。立派な社会の一員として、中身も成長しているし、それに伴って外見も飾っていく必要がある。愚かな僕は本気でそう思った。

 経済的な安定があるからこそ、自由を得ることができる。学生時代、普通のサラリーマンになって、コツコツ働いているような人間は全くもって不自由だと思っていた。それが、この頃はそんなこともないような気がしていた。大金持ちである必要はないけれど、その日暮しみたいな、自由人みたいな生き方をしていたら結局最後は不自由になる。腕時計すら買う余裕がなくなるだろうし、そうなれば、主義主張など誰も聞いてくれなくなる。

 冒険家とかそんなかっこいいものではなく、ただの社会的弱者となって、奴隷のようにコキ使われる立場に追いやられるだけ。今は少しだけかもしれないけれど僕は自由を手にできている。休日があり、体力が残っていればその休日に自分で行きたいと思った場所に行き、自分が欲しいと思ったものを買い、満足感を得ることができる。これは自由の何物でもない。そして、明日は勝手にやってきて、犯罪を犯すようなことでもない限り、明日からも細々と働いていくことはできる。

 社会人として順調に歩みを進めている自分の進歩にやや興奮気味ではあったが、やはり都心への買い物で疲れてしまっており、激しい眠気に襲われた。明日から腕時計をつけて意気揚々と働く必要もあったので、僕は夕飯を取らずにいつもより3時間くらい早く寝ることにした。当然、お気に入りとなった腕時計は枕元においた。眠っている間も満足感を得ようとおもった。

 かなり疲れていたし、めずらしく月曜がやってくることを待ち遠しく感じていたので、早く眠れるはずだった。しかし、秒針の音が耳を攻撃し始めたことによって、なかなか眠りにつくことができなくなってしまった。

 チクタクチクタクチクタク…。

 薄っぺらい腕時計からここまで大きな音がするなんて。どうして今の今まで気が付かなかったのか不思議でならなかった。何を考えても秒針の雑音からは逃れられなかった。

 チクタクチクタクチクタク…。

 やはり腕時計なんぞ手に入れようと考えたことが間違いだったのだろうか。誰にも縛られず、時間からも解放され、お金がなくて不自由かもしれないけれど、自分はただ何となく流されるように生きる道を望んでいたはずだ。

 僕は今、無限に広がる放浪の大地を求めていた学生時代の理想とは相反する規則正しい毎日を送っている。同じ時間に目覚め、同じ時間に通勤をし、スクーターで走っていると知っている車両に出会い、同じ時間にお昼休みを取って、同じ時間に煙草を吸って、暗くなったら家に帰る毎日の暮らし。一定の間隔で日々が繰り返されていく。道が混んでいたり、自分の売った製品が不具合を起こし、その対応に追われて多少帰りが遅くなるようなことはあるが、生活を180度ひっくり返すような出来事は起こらない。静まり帰った巨大な湖に小石を投げ込んだところで、水面が少し揺れるくらいでまた元に戻ってしまうのと同じ。変わらずに安定したリズムを繰り返す。

 チクタクチクタクチクタク…。

初めは耳障りに思えた秒針の音が次第にメローな波のように優しく耳を撫でるように感じられた。秒針の間隔はみるみる遅くなっていた。

 夢の中でまた腕時計を買うために電車に乗り、表参道のショップに向かい、自分より若い店員と同じ会話をしていた。一日がフラッシュバックしていた。腕時計を枕元において、眠りに落ちるところまで全てが同じだった。

 ただ、枕元に小さく置かれていた腕時計はセミダブルベッドよりも大きく肥大化し、美しくも不気味な水色の大蛇へと変身していた。漆黒をしたダイヤの両眼がちらちら動き、怪しく光った。人間を絞め殺せるほど硬くなるようには思えないその体は、絹のようにしなかやかに動いていた。眠りに落ちている僕はその異変にまったく気付いていなかった。水色の大蛇は細長い血の通っていない舌で、僕の耳元をゆっくり舐め上げると、ベッドの周りを囲ってぐるぐる回り始めた。

「そのままそこで眠っていたらダメだ!早く起きて腕時計を窓から投げ捨てろ!」眠っている僕に向かって叫んだが、もう手遅れだった。僕は幸せそうに眠っていて、まったく起きなかった。大蛇はあっという間に僕の全身を飲み込み、一体化してしまった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?