見出し画像

連載小説|寒空の下(7)

 無事に研修も終わり、俺は警備員として初めての現場へ向かっていた。久しぶりに早起きをしたので軽い動悸がした。その日、早朝の気温はマイナス2度だった。古いクロスバイクはますます軋み、うなりを上げていた。

 最寄り駅までの道のり、途中で富士山を見るのを楽しみにしていた。ずっとここで暮らしていけば見飽きるのかもしれないが、5年も暮らしていない俺はまだその域には達していなかった。冬の澄み切った空気、真っ白な富士山。夏の富士山は黒と緑を混ぜた色で、胃腸の調子が悪いときの糞みたいで好きじゃなかった。

 最寄り駅からは電車に乗り、聞いたこともない土地に向かった。ショッピングモールが仕事現場だった。昨日の夕方、佐藤が電話で勤務場所を連絡してきた。俺は文句を言いながらもクビになるのが嫌だったので仕事を引き受けた。

 都心に向かっていくよりも電車は空いていたが、それでも人は少なくなかった。電車内は黒で溢れかえっていた。同じような黒々しいスーツを着たサラリーマン、同じような長い黒髪をすだれのように垂らした女子高生。みんないつでも葬式に出られるように準備していた。

 ショッピングモールの裏手にある関係者だけが入れる受付窓口に行くと、若くはないが、活発そうで笑顔が魅力的な女性が立っていた。

「おはよう」
「きみが西山くん?ここにサインをしたら中に入って」女は花蓮という名前だった。そう名札に書いてあった。
「よろしくね」
「何か大変なことがあればいつでも言うんだよ」
「ええ、よろしくお願いします」俺はつい立ち止まってしまった。
「はいはい、ぼーっとしてないで。とりあえず早く着替えて準備しな!」

 受付窓口の先には防災センターという施設の管理をしている部屋があり、さらにその奥にある倉庫みたいな場所が俺に設けられた控え室だった。防災センターには花蓮さんの他に、痛々しいほどの白髪をした木下というおっさんや、佐藤と同じくらい太っていてブタのような石田がいた。彼らは施設の照明を付けたり、エレベーターの電源を入れたりする巨大な機械をいじっていた。大昔のコンピュータみたいだった。

 控え室に入ると、スキンヘッドで背丈が大きく、背中は真っ直ぐなのだがお腹だけぽっこり出ているお爺さんがいた。

「きみが西山くん?これからよろしくね」
「よろしく」
「僕は笠原だよ」彼が笑うと、下腹部がぽこっと動いた。

 ショッピングモールには花蓮さんたちみたいに中を管理する警備員と、俺や笠原みたいに外で交通整理をする警備員が存在した。みんな同じ会社に属し、やることは違えど給料はだいたい同じだった。交通整理にも2カ所のポジションがあり、俺はより簡単なほうを任せられた。「西側の立体駐車場出口から車が出庫するのを誘導し、歩行者との接触を防ぐ」俺は出勤初日ずいぶんと早い時間に集合させられていたのだが、それは笠原がこの単純な仕事を仏教の真髄を説く僧侶のように延々と説明をするためだった。

「西山くん、一体何が大事だと思う?」
「歩行者を守ることじゃないすか?」
「西山くん、そうじゃないんだ。大事なことは君自身なんだよ」
「俺自身?何ですかそれ?」
「まずはきみが自分との闘いに勝利しなければ、歩行者も守られんのだよ」

 たしかにデモンストレーションをしに現場に行くと、車は歩行者とか自転車が多く通る歩道をまたいで車道に出ないといけなかったし、出庫したすぐ近くに交差点があったりもして危ないといえば危なかった。とはいえ、説明だけに1時間もかかるはずがなかった。俺はこんなくだらない説教のために睡眠時間を削られたのかと思うと腹が立った。

「西山くん、きみはこの世界の全てを見渡せると思うかい?」
「それは無理でしょうね。でもこんな簡単な仕事にそんな能力いらないでしょ」
「私はその能力を会得することができた。きみにもできると信じている」

 うんざりしてトイレに逃げだそうとしていたが、再び控え室に連れ込まれた。すると笠原は懐から紹興酒の小瓶を取り出した。笠原はいつも酒を飲んで仕事をしているのだった。こいつの誘導を信じて痛い目にあった客はたくさんいただろうが、俺は笠原を見直した。トイレには逃げずにその場に留まった。

「この現場はとにかく寒いんだ。とくにきみが立つ場所なんて建物に遮られて日も当たらん。だからこれを飲むんだよ。きみは闘いに勝利しなければならないんだ。分かるね?」

 手渡されるがまま俺は紹興酒を少しだけ口にした 体が内側から火照るのが分かった。その後も俺は警備員としてやっていくためにたくさんのことを教わったが、彼は最初に最も大事なことを教えてくれた。体を温めること。

つづく

前のページ(6)←→次のページ(8)

最初のページに戻る

関連小説

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?