人は言葉の領域外にはいけないのか?

おひさしぶりです!

この前Twitterで何気なく解説した哲学の内容が好評だったようですごくうれしいです!新しくフォローしてくださった方よろしくおねがします!

ではでは、今日の本題にいきましょうか。

人は言葉の領域外にはいけないのかという問いです。

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ある日、母親から感情を表現した円の図の写真を見せられました。(上の写真)これを見て僕が感じたことは、一番外側の感情と感情の間の感情は存在しないのか?ということでした。例を挙げると、放心と哀愁の間の感情ってないのか?ということです。僕の考えた結論を先に書くと、「存在する」というのが答えです。言葉にはできないけどもやもやする感情というものは図でいう一番外側の感情と感情の間にある感情だと思います。しかし、それを表現する言葉がない。つまり、感情としては存在するのに(感情が実存するものであるかという議論は置いておいて)それを表す言葉が存在しないのです。

言葉があればその物は存在できる!

この意味を理解すために簡単に例を取り上げると、です。日本では虹は七色ですが海外では6色であったり、2色であったりするわけです。これは国によって虹の見え方が異なるわけではありません。色を表す言葉が多いか少ないかの違いなのです。虹が2色の国ではオレンジも赤もなんとなく暖かそうな色というひとくくりになってしまうのです。そのものに名前がなければ(言語化されてなければ)それはみることはできないのです。

感動するとはどういうことか?

そこでふっと思いついたことは感動するってことは感情と感情の間の感情が出てきたときに出てくる気持ちなのだと思いました。言語では表現できないが絵画や映像でその感情が表現できてしまった時(受け手がそう捉えたとき)に感動するという行為が行われるのではないかと思いました。そう考えると「感動した時の気持ちってどんなですか?」と聞かれても答えようがないというのがぼくの仮説の裏付けではないかと思う。感動したときに出てくる感情はあくまで既存の感情にあくまで近い感情を表現してるだけだと思う。


この内容は今日夕食を食べながら考えていたことを忘れないうちに書き留めておこうと思って書いてみた次第です。

それでは来年もよろしくおねがいします!

それでは!


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