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ローマの休日と彼女への手紙

1992年7月.アテネから空路ローマに着くと,彼はテルミニ駅付近でさっそく宿を探すことにした.一度日本を出てからは,ロンドンからアテネ,アテネからここローマまでのフライトは事前に予約したものの,それ以外で今後決まっている事といえば帰りの飛行機の時刻だけで,それ以外は約1ヶ月に及ぶ気ままな一人旅だったから,宿の予約ひとつしていなかった.その日の宿はその日の朝に確保して,それから街を見て歩くという日々の繰り返しだ.早く宿を確保すれば,街を見て歩く時間がたっぷりとれるし,上手くいかなければ直ぐに1時間2時間無駄になってしまう.ただ,今はもう午後遅い時間で,とりあえず急いで宿を探す必要があった.

日本から持ってきたヨーロッパ一周のガイドブックには,各都市のページに,バックパッカーたちのおススメ宿も紹介してある.多くはその中のどこかに電話をかけて,部屋があるかを尋ね,あるようならホテルに赴き,手続きや支払をして,荷物を置いて街に出かけていくわけだ.ローマは観光地だから,日本と比較して安いとはいえ,宿代は高めのようだった.そういう場所ではまず,ユースホステルに出向くのが若者の貧乏旅行では定番だ.ユースホステルに着くと,すでに長蛇の列が出来ていた.列の最後の若者に,これは見込みがあるのかと尋ねたものの,分からないよ,との返事だった.1時間ほど待った挙句に,入口で「full!」と言われた彼は,英語で文句のひとつも言えないことを恨めしく思いながら,テルミニ駅に戻ることにした.

途中で駅近くの宿に電話を入れるが,イタリア語なまりの英語で埒があかなかった.こっちも日本人の喋る英語だから,相手も同じようなことを思っただろうと可笑しくなりつつ,とりあえずその宿に向かって直接聞いてみることにした.ヨーロッパの街並みによくあるような,石造りの建物に住民用の門扉の横にあるベルを押して,中に入って階段を上がる.ヨーロッパでは,2階というと3階のことだ.日本の1階はグランドフロアと呼ばれて,2階から数字で数える仕組みになっている.そられしいドアを開けると,正面に小さなカウンターがあり,そこで女主人が事務仕事をしていた.彼は,女主人がこちらに気付くのを待って,さっき電話したんだけど,部屋は空いてますか?と尋ねた.あるわよ,というと,ぶっきらぼうに彼女は値段が書かれたリストを見せた.イタリアでは,シャワーからちゃんとお湯が出るか確かめろ,と散々先輩から言われていたのだが,この暑さなら別に水でも構わないかなと思って,聞くこともしなかった.いや,正直なところ,レセプションの女主人が強面でイタリアらしく巻き舌で喋る迫力に押されて聞けなかったのだ.彼は小さくても安い部屋を2泊取ると荷物を預け,そのまま街に出て近所を散策した.

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とりあえず,宿を確保して路頭に迷う心配を逃れた彼は,地下鉄に乗って中心部に出てきた.コロッセオやカンピドリオ広場,フォロ・ロマーノを訪れ,ギリシアからローマに世界の中心が移っていった足跡をたどり,古代の街並みを想像してみた.ローマでやってみたいことのひとつが,ローマの休日のように,スクーターでローマを観光することだった.後ろに載せるオードリー・ヘップバーンのような相手はどこを探してもいなかったが,スクーターをレンタルしてローマの観光地を巡るのは効率の面でも有効だと思われた.今日はもう遅いから,明日,ベスパでいろんな建築を回ろうと計画し,宿に戻った.そして,シャワーを浴びに,シャワールームに行った.安宿では部屋にシャワーは付いていない.別のシャワー室にお湯を使いに行く必要がある場合が殆どだ.混合栓ではないが,水色と赤のタップがふたつある.最初に水色を少し出しながら,赤のタップも開いて見たが,蛇口からはちょろちょろと水が出てくるだけだった.

翌日,彼は早速ベスパを借りに開店時間に合わせて店に行った.プライスリストを見ると,ベスパのレンタル代はモペットと比較して3倍ほどの値段だった.この先の旅の予算をなるべくセーブしたい彼は,しぶしぶモペットを選んで,これまたイタリアなまりのおじさんの説明を聞いてから,地図にマークした歴史的な建築を巡るためスロットルを開け,狭い路地から大通りへ最初はおそるおそる合流した.ローマでは,この排気量だとヘルメットが要らなかった.日本でもスクーターに乗っていた彼はすぐに慣れた.混雑してクラクションを鳴らすチンクチェントやパンダを尻目に,風を切って走らせると,彼は自分がローマの街と交通と一体になった気がして,爽快な気分でカラカラ浴場から小高い丘の上のテンピエットまで,教科書に出てくる歴史的な建造物を網羅するように走り回った.

モペットのお陰で,効率よく目当ての建築を見て回ることが出来た彼は,それを返却すると,徒歩で中心部に向かった.時計の針は3時を指している.途中でバールに入り,コーヒーを一杯飲んで,パンテオンに向かった.パンテオンとは,ローマ時代に建造された神殿であり,当時のコンクリートを用いることにより,直径約43メートルもの巨大なドームを頂いている.そしてそのドームの頂部は直径8メートルの天窓(とはいえ,ガラスが入っていないため純粋に穴が開いているようなものだ)が穿たれ,そこから降り注ぐ陽光と,埃の舞う空気と,反射光が織りなす光の演出で訪れた人を魅了する.彼も,一通り壁の周りをぐるっと一周して,その都度いろんな場所で写真を撮っては,このローマ時代からの遺構というものに包まれた空気感を味わっていた.

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しばらくして,広間に置いてあるベンチに腰を掛け,ただただ日時計のように内部の壁に太陽の光のハイライトが出来てそれが移ろいゆくのをぼーっと眺めていた.このパンテオンは,もちろん世界中から観光客を集めているが,建築家が選ぶ最高の建築のひとつにも良く選ばれるだけはある.直径43メートルの丸いワンルーム,同じ高さのドームから降り注ぐ一筋の光.ほぼそれだけなのに,ここまで人を惹きつけるのは何か,彼は文字にして確かめようと思ったが,言葉にした途端にどれも違うような気がしてきた.どうやっても言い表すことが出来そうにない.ふと,その心境を,日本にいる彼女に伝えようとリュックからペンとハガキを取り出し,ゆっくりと書き始めた.

しばらくすると,たまたま隣にいた若い女性が彼に声をかけた.

「Is it a Japanese letter? 日本の文字?」

「え?」彼は突然自分が話しかけられたので少し驚きながら,「Yes」と返すのがやっとだった.

「Are you from Japan? Is it Japanese letters, isn’t it? 日本から来てるの?それは日本の文字よね?」

「Yes, I'm writing a letter to my friend. うん,友達に手紙を書いているところだよ.」

「Wow, that’s nice, Well, may I look closer, the your letters? I can't read Japanese at all but those are like pictures! いいわね,ねえ,もう少し近くで見ていい?日本語はまったく読めないんだけど,なんか絵みたいよね.」

「Sure, here is. いいよ,どうぞ.」

そう言って,書きかけの手紙を彼女に見せた.

「I heard every single letter has a meaning, is it correct? すべての文字に意味があるって聞いたことがあるんだけど,ほんと?」

「Hmm, Kanji has the meaning generally, but Hiragana is just a sound like same as western alphabet. ええと,漢字ってのはだいたい意味を持っているんだ,でもひらがなっていうのは音をあらわしていて,西洋のアルファベットと同じだよ.」

「Oh, really? そうなの?」

「For example, this is a Kanji, and its meaning is "rest" たとえば,この漢字の意味は”休”むっていうこと.」

「Interesting! おもしろい!」

「Yeah. Where are you from by the way? そうだろうね.ところで,どこから来たの?」

「I'm from Vienna. ウィーンよ.」

「Oh, great. I'm planning to visit there some days after. いいね,何日か後で行こうと思ってる.」

「Really?  ほんとに?」

そう言ったとたん,彼女は何かに気付いたように席を立ちあがった.どうやら,入り口のところで手招きしている同行のグループから呼ばれたらしい.彼女はそっちの方に手を振り返した.そして,

「Well, thank you for showing your letter. Have a nice trip. ええと,手紙を見せてくれてどうも! いい旅を!」

というと,そのグループの方に歩き始めて,少しして立ち止まって,

「Oh, You should visit St. Stephen Cathedral in Vienna! ああそうだ,ウィーンではシュテファン教会に行くといいわよ!」

と笑顔で彼にそれだけ言い放つと,急ぎ足でグループの方へ再び歩き始めた.

「Okay, thank you.」

彼は大声を出すのを憚って,聞こえるあてもないお礼を言うと,しばらく目で彼女を追いながら,逆光の中まぶしいローマの街に消えていくその姿を確認すると,そのままその明るい外の風景を眺めていた.急な事だったので少し動揺していた.日本で,いまや知らない人に声をかけるなんてことはまず起こりえないなと思った.そして,息を整えるかのようにまたトップライトをしばらく見上げたあとで,手元の手紙に視線を戻した.パンテオンの中はもう薄暗くなり始めていた.

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彼はテルミニ駅まで戻り,そのあたりのマクドナルドで夕食を済ませた.一人旅で豪華な食事は無用だ.Mサイズだというのに,日本より大きなドリンクで流し込んで,そそくさとホテルに戻った.部屋に入ると,彼は書きかけの手紙のことを思い出し,さっきパンテオンで起こった顛末を加えて描き終えた.もちろん,彼に話しかけてきたのは男性だったという,地味な創作をひとつ加えて.

リアルな後日譚(裏話)

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