10月27日の衆議院総選挙は、与党の半数割れという結果に終わり、今後の政局の流れが興味津々となった。 投票日の夕方、道端で会った近所の若者との会話 "もう、投票は済んだ?" "いや、どうもxxxxx.......“ なにやら口篭って良く聞き取れない。 ははー、どうやら棄権と判断したが、説教はせずに、笑顔を返しただけで別れた。 投票率の低さを見ると、一番熱くなっていたのはマスコミかという気になってしまう。 女性議員は、史上最高の議席数を得て、ご同慶の至り。
「人生は出会いである」と、断言される方もいるほど、出会いの妙を経験する人は多い。 出会いばかりではない。誰かに何かが起こるタイミングは、何が、誰が決めるのだろうか。私達が"偶然"と呼ぶものには、誰かの意思が働いているのだろうか。 長く生きてきた私の人生は、いつもこの偶然のタイミングの重なりで、幸多い道を歩いてきたように思われて仕方がない。 今年になって、特にそれを感じる出来事が多かったので、その時々に私に適切な指示を与えて下さったのは、神様なのか仏様なのか、はた
主婦にとっては何とも有難い"3食昼寝付き"のホテルで、ゆっくりしてらっしゃいと、冗談混じりに送り出されるたものの、個室の病室なんて、何と味気ないものか。 友人たちに聞かされた話で、何となく相部屋は楽しそうだと期待して、始めはそちらを申し込んでみたものの、諸事情を考えて個室に変更した。 確かに、同室の患者さんに気を使うこともなく、許される範囲で何をしようと自由な日常を過ごすことができる。 スマホを一つ手元に置きさえすれば、退屈することはない。スマホに飽きたら持ち込ん
人間、いくつになっても新しい経験に遭遇する機会があるらしい。 新しい体験とか、心の震えた場面とかの思い出を辿って行くと、いろいろある。例えば その1) いつも童謡や唱歌を歌っているくらいの少女が、音楽に初めて深い感動を覚えたのは、日比谷公会堂で大編成のオーケストラによるベートーヴェンの交響曲第五番と、シューベルトの未完成交際響曲を聴いた時だった。 生意気にも曲の解説とその時の感動を作文に書いたら、賞をもらったのも初体験。 その2) 初心者からベテランまで人気
神の存在を信じて疑わない外国人の中には、やおよろずの神々を信奉する日本人を、宗教を持たない野蛮人と評する人もいるが、多くの日本人はそれぞれの心の中に、超自然なもの(自然の摂理)に対する畏敬の念を抱いていると、私は思う。 日本では、古代から長い年代を経て、さまざまな宗教が混在し、それぞれの祭り事が継承されて、豊かな伝統行事が人々の心を豊かに育んできた。 めでたいお正月の神事、悲しい別れの仏事、宇宙や神話や季節ごとに民間で行われるささやかな、また、華やかな祭り事など、人
[第一話] 煙とトンネル この10月1日に、東海道新幹線が開通して60年を迎える。石炭に頼っていた我が国の鉄道が、初めて電化されたのは、それより更に8年前の1956年の11月19日に、東海道本線の京都ー米原間である。 それまでは、黒い煙をもくもくと吐きながら、蒸気機関車が日本中を勇壮に走り回っていた。 1933年生まれ、ポッポ屋の娘で、父親の転勤や旅行で走り回っていた私も、23歳までの旅は、専らこれのお世話になっていたわけだ。 そこで、小見出しのトンネル。
このタイトルをご覧になると、大演奏家の日常を描いたエッセイを期待される方が居られるかもしれないが、左にあらず。 シニアに多いラジオ人間が、昔の世界を懐かしみ、ラジオをかけがえのない友とする日常が語られるだけ。 テレビが今ほど普及する前は、人々の情報源や娯楽にとって、ラジオは貴重な存在だった。 ラジオの便利さは、耳さえ働かせていれば、目を取られることなしに、体を動かす仕事でも何でもできる。効率を貴ぶ"ながら族"にとっては、これほど便利なものはない。 縫うことが
ほぼ2週前後に1回、皆様にお会いしていたミューコですが、生活に多少の変化が起きそうなので、このリズムが崩れるかもしれないというご挨拶をしようかと考えているところです。 MRI検査の結果、私の体の中に怪しい影のあることが判明しました。その処置について、我が家の子供たちの間では、熱い論争が繰り広げられています。 安全性がかなり保証されている従来の手法に任せるか、リスクがあっても、先端医療に賭けてみるか。 今や俎の上の鯉となった私は、良いQOLを保ちつつ、穏やかな余生
アガサ・クリスティの作品に、 「そして誰もいなくなった」 (And Then There Were None) という戯曲がある。中身とは全く関係なく、このタイトルだけを、私たちの仲間は、借用させて頂くことがよくある。 大抵は、或る組織やグループからメンバーがだんだん抜けていく様を皮肉って言われることが多い。 皮肉ではなくて、身近なところでこれが現実に起こりつつあると、これはもう皮肉なんてものではない。 多くのシニアが経験するの
91歳の今に至るまで、病院とはお付き合いの薄かった私が、最近、体のある部位に異常が疑われたので、医師の勧めにより、MRIの検査を受けるという珍しい初体験をした。 医学の最先端を垣間見る思いで、大人しく円筒状の機器の中に身を横たえ、身体を固定された上で、30分の不動を要求される。 やがて、 "次の検査は4分間です" というアナウンスの後で、規則正しい単調なリズムの連打が、大音響で始まる。 4分間もこんなつまらない音を聴いてられっか! そうだ、これが何秒間隔なの
読者の方々とは既にお馴染みの、雄猫のちび太が、7月25日の深夜、星空の彼方へと旅立った。 ロンドンで庭園建築の仕事をしている娘にとって、ちび太はもはや猫ではない。 最愛の息子であり、なくてはならぬパートナーだった。 彼女がロンドンで仕事をしている間、母親の私は、病気持ちで、やんちゃで、 自己主張が強いけれども、相手の心の中を巧みに読み分けるこの利発な、愛すべき男の仔を預かって、共に生活した2年間に、貴重な孫育ての経験をした。 23年生きたおとなしい雌猫のニャンコ
noterの方々は、noteを始められた動機とか、目的とかを語っておられます。私も始めてからはや1年半が過ぎましたが、始まりは何だったのでしょうか。 90歳を遠の昔に過ぎて、することといえば、自分の身の回りのこと、たまに家族の食事を作ることと、預かった猫の世話をするくらいで、忙し過ぎた以前の生活からは想像もつかないほど自由な時間を与えられたにしては、何とも気持の落ち着かない日々なのです。 何故でしょう? ルーティーンだけが生き残って、その間を埋める時間の空白さ、
以上って何?と思われる方もあるでしょう。 そうなんです!もっと生きたかもしれないのです。たまたま庭に居たのに家に入れず、行方不明になつてしまいました。 この猫は、昨今の箱入りペットとは違い、かなり野生に近い飼われ方をされながら、しばしばその生命力の強さには驚かされました。 昭和50年からの話です。 ニャンコが7才の冬に、風邪を拗らせたのか、3週間ほど何も食べられず、いつあの世行きかと危ぶまれるほど痩せ細ったのに、2回のブドウ糖注射だけで生き延びたというツワモノで
英国で、景観デザイナーとして、長年仕事をしている娘から、自分が手がけた庭園の美しい写真を、私のアルバムに送ってきました。 いつもミューコのエッセイは活字ばかりなので、偶には写真満載の画面にしてみたいと思っていましたから、チャンス到来です。 娘は2007年に、庭園デザイナーの登竜門であるチェルシーフラワーショーシティガーデン部門で銅賞を、翌年ショーガーデン部門で銀賞を頂いて華やかにデビューを果たしました。 以後、彼女が手がけた幾つかの作品に、自身の簡単な説明を添え
NHKのラジオ番組"XXとオヤジの時間"とは全く関係ないが、父親一般を語るには便利な呼び名ではある。 井戸端会議という言葉は、 あまり使われなくなったけれども、その中身は姿を変え呼び名を変えて、どこにでも、いつの世にも存在する。 言葉の由来は、文字通り、おかみさんたちが、水場に集まって、炊事や洗い物をしながら、話に花を咲かせた風景からだろう。 会議の中身は、おそらく今も昔も、集まる人たちの年代によって様々だと思うけれども、同年代の人たちの話題は、年齢とともに明らか
亡くなった夫を、新潟大学に献体として送り出してから3年の年月を経て、この若葉の季節にようやく返還され、両親をはじめご先祖さまのおわします魚沼の墓地に納まりました。 この歳になると、もう何人もの肉親や友人を送っていますが、一連の葬儀を経て納骨に至ると、それでひと先ず、気持ちに区切りがついていたような気がします。 けれども、このたびは違います。身体はまだ医学生や歯学生と付き合いながら、心は千の風に歌われるように、自由に飛びまわつていたに違いありません。 子供達もみん