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ローカル線のエピソード五話

[第一話]  煙とトンネル

 この10月1日に、東海道新幹線が開通して60年を迎える。石炭に頼っていた我が国の鉄道が、初めて電化されたのは、それより更に8年前の1956年の11月19日に、東海道本線の京都ー米原間である。

 それまでは、黒い煙をもくもくと吐きながら、蒸気機関車が日本中を勇壮に走り回っていた。

 1933年生まれ、ポッポ屋の娘で、父親の転勤や旅行で走り回っていた私も、23歳までの旅は、専らこれのお世話になっていたわけだ。

 そこで、小見出しのトンネル。
 今ほど排気装置のなされていないトンネルの中の走行は大変だ。

 トンネルへ入る前と、踏切の前には汽笛が鳴らされる。トンネルと踏切では、鳴る汽笛の回数が違ったと記憶するが、とにかく、これに気がついた人は、慌てて窓を閉めなければならない。
 窓もドアも全て手動なので、乗客の多くは窓を大きく開けて、流れ来る外気を楽しんでいる。
 そこへ機関車の煙突から吐き出された漆黒の煙が、どっと流れ込むからたまらない。
 その後の車内の様子は、推して知るべし。

[第ニ話]   駅弁売り

 少し大きめの駅のホームでは、肩からベルトで支えた箱を抱えた駅員さんたちが、
 ベント、ベントー(弁当)
と、大声で叫びながら、列車の窓を訪ね歩いている。
 箱の中には、当地の名物弁当と味噌汁にお茶がびっしりと並んでいて、いかにも重そうだ。

 やがて、あちこちの窓から
  お弁当屋さーん
と声が飛び交って、俄かに忙しくなる。
 停車時間は短い。最後の客に至っては、品物を受け取っているうちに列車が動き出して、このおじさん、お釣りを渡すために、加速していく電車に合わせて全力疾走という、気の毒な光景も見られた。

[第三話]

 駅のホームでは、また別の武勇伝もある。
 こちらは今でも見かけるが、駅蕎麦は人気のスポット。ホームに限らずお店でも、お蕎麦は、豪快に音を立てながら如何に速くかっこ良く食べるかが、蕎麦通と自認する人たちの条件だつた。

 ホームでは、発車1分前に予告のベルが鳴り始める。すると、ホームで、蕎麦待ちをしていた彼は、やっと間にあったざるそばを引ったくって、見事にズズーッと飲み下し、動き出している最寄りの窓へ向かって突進し、窓枠を乗り越えて見事車内に収まり、客の拍手をちょっと恥ずかしげに受け流す。

 窓から乗り込む光景は、戦後の日本の通勤、通学の列車ではごく日常的だった。満員で、ドアからはこれ以上乗れそうもないとわかると、遅刻しないためには、それしかなかった時代。

[第四話]   跳び乗りの妙技

 こちらは窓ではなくてデッキの方。デッキとは、連結機に続く2段ステップの縦長の狭い空間で、捕まるための手すりがついている。混雑時にはそこも一杯になるから、遅れまいと駆けつけたお客は、その手すりに捕まって、動き出しているデッキに上手に跳び乗る。

 不思議だったのは、最後部にいる車掌さんが、発車時に何故わざわざ跳び乗りをするのか?
 ホームの駅長さんにOKの指示を出した後、すぐにはデッキに戻らずに、列車がかなり動き出してから、サッと手すりに捕まって飛び乗るその身のこなしの美しい事!少女の目には、体操競技のアスリートの妙技を連想させられたものだった。

[第五話]   夜行寝台列車

 こちらはもう完全に姿を消したかと思いきや、どっこい、鉄道ファンと、観光ブームに支えられて、華やかに生まれ変わっている。

 私自身の思い出としては、夫が東京から広島へ赴任する時、幼児2人を伴って大はしゃぎしたが、みんな寝過ごして、車掌さんに声をかけられたときは、すでに列車は広島駅のホームに停まっていた。窓越しにお迎えの人々の顔が見えた時、まだ下着姿の私たちは大慌てだった。10分という長い停車時間に救われたが、ドジな思い出だけが残っている。

 いつの日か、活きかえった華麗なサンライズ瀬戸に乗って、香川県から愛媛県の父の郷里へ、センチメンタルジャーニーを試みたいと思っている。

高崎発上野行き724列車 1960年(出典不明)
https://youtu.be/q46dgvSsUhM?si=5uixvXz9Lo3xe6nT

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