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人生のかけつぎ

先日テレビで「かけつぎ」(かけはぎ)のお店とその仕事が紹介されていた。かけつぎの技術はほんとうに素晴らしい。修理した後がここ、と示されても全くわからない。それもそのはず、ただ共布を傷にあてがうだけではなく、その共布を新たに織り込んでいくような作業に見えた。テレビの画面で見るだけでもそれはそれは実に見事で、息をするのも忘れて見とれてしまった。

以前、お気に入りのパンツにうっかりかぎ裂きを作ってしまい、慌ててかけつぎの店に出向いたことがある。もう30年くらい前の話。料金は4センチくらいの傷だったけどたしか料金はナン万円単位で「新しいパンツが買えちゃうな」という結論に達し、結局修理には出さなかった記憶がある。今回テレビで見た技術からすると、その価格は当たり前だとあらためて実感する。その技術は、ただ穴や傷を塞ぐだけではなくて、その洋服全体と、さらに持ち主の思い出や生活までを救うのだ。

今もあるのかどうか知らないけれど、私たちの世代は家庭科の実習でかぎ裂きの修理をやった記憶がある。わざと布をL字の形に切って、そこに当て布をして切り口を繕っていく。手を動かすことが好きな私はけっこう楽しくできた。もちろん、プロのかけつぎの技術とは比べ物にならないけど。そして、大人になった今でも靴下を繕うこともあるし(なぜかいつも、すぐに親指の先に穴が開く)、虫喰いの穴を繕うこともある。履き古してようやく体に馴染んだところで派手に転んで、膝にパックリ穴が開いたデニムも修理して履いている(穴が開いていてもかっこいいのかも知れないけど、さすがにおばちゃんの膝小僧を世間に披露するのはちょっと気が引けるし、いろんな意味で寒い)。今はなんでもすぐに手に入るし、値段も手頃なものが多いから、穴の開いた靴下を繕う必要なんてないのかも知れない。でも、私は直して使いたいのだ。物への愛着なのか、節約したいからなのか。もしかしたら手を動かして直す行為自体が楽しいのかも知れない。直したものにはさらに愛着が湧く。

ふと、こうして手直ししながら長持ちさせるのって、私たち自身の身体も同じだなあと思う。けがをしたら手当てする。悪いところは手術して治す。完全に元には戻らないとしても、その先少しでも長持ちさせられるように。

もし人生においても思いがけなく穴が開いてしまったり傷がついてしまったりしたら、それもうまく治せるだろうか。自分の手で、時には誰かの力を借りて。なるべくなら不幸な出来事は起きない方がいい。順風満帆、平穏無事なのがいい。けれど、人生そう上手くはいかない。それならば、ほつれて破れてあちこち傷だらけになっても、上手にかけつぎをして愛着のある人生に仕立てていければそれもまた上等なんじゃないか。いや、むしろその方が深みのある人生になるんじゃないかなあ、なんてしみじみと思う。


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