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海の向こう側の街 Ep.10<外国の中の日本>

 暫くの間、一人で市内観光を続けた。
一度だけ、ユースホステルから十ドルでレンタルサイクルをして市内観光を試みたことがあった。料金と引き換えにヘルメットと自転車の鍵を渡され、レンタルサイクルが置いてある場所まで案内された。
「自転車に乗る時は、必ずヘルメットを被っておかないと逮捕されるよ」と、僕にでもわかるゆっくりとした英語でイーストウッドが教えてくれた。
 僕はイーストウッドに礼を言って、ヘルメットを被りいざ自転車に跨ってみるとサドルの位置が高すぎて全く地面に足がつかない。しかも、競輪選手が乗るような本格的なタイプの自転車で、日本で乗り慣れたママチャリでもなく、MTBタイプですらなかった。ほんの少しの距離を漕いでみたが、この自転車に乗って走ると確実に怪我をすることを感覚的に悟った。とはいえ、このまま振り返ってすぐにこのレンタルサイクルを返しに行くと、なにか不都合があったのかと思われる。まぁ、実際に地面に脚が届かないというある種の不都合があったのだが、それも英語で説明出来ないし日本のママチャリのように、サドル下のバーをクルクルと回して簡単に調節できるものでもなかった(何かしら専用の工具で調整する本格的な自転車だった)。なので、わざと三十分ほどその場で時間を潰してから、自転車を元の場所に戻して、ユースホステルのフロントに帰った。幸い、イーストウッドはフロントにおらず、僕はあたかも自転車でエンジョイしてきたフリをして鍵を返した。それ以降は、必ず徒歩で市内観光を続け(時には仲間達と共に)、夕飯はみんなで共同キッチンで料理をしてダイニングで楽しく食事をする日が続いた。
 ユースホステルの玄関口の横にある扉を開けると、大きなテラスに繋がる通路があり、食後は決まって、僕とコウは通路にあるベンチに腰掛けて煙草を吸うのが日課になっていた。
僕は、日本から持ってきたラッキーストライクに火を着けて、食後の煙草を心地よく吸っていると二人の白人女性が僕たちのすぐ側に座った。
僕の向かいに座っていたコウが、彼女たちに何か英語で挨拶をし、気軽に何かを話し合っていた。
『英語が話せるって羨ましいな』と思いつつその風景を眺めていた。
「気を遣わないで、ユキオも何か話しなよ」コウが僕に言った。
「いや、そら話したいんやけど、全く英語が判らんのよ」と僕は言った。
「だったら、僕が通訳するよ。そんなに難しいことじゃなければ大丈夫」とコウは言った。
これは有り難い話だと思うのと同時に、僕も一年後にはコウのようになっていたいなと彼に少し憧れを持った。
まずは無難に、彼女たちはどこの国から来たのか聞いてもらうと『フィンランド』と彼女たちは威勢よく答えた。
「あぁ、○○の国だね!」とテンポよく返すつもりだったが、残念ながらフィンランドから有名な物が全く思い浮かばなかった(この時、日本に『イケア』は、まだ進出していなかったし、世界一臭い缶詰の『シュールストレミング』もまだ知らなかった)。
僕たちが、何が有名な国だろうと考えている姿を見て「ノキアって会社を知ってる?」と、彼女たちは言った(正確には、なんとなくそう聞こえた)。
 僕は、前職(某携帯電話通信会社)の業種柄、実際にノキアの携帯電話を使ったことは無かったけれど、当時ではなかなかカッコイイ携帯電話を作っている会社だという事を知っていた。
「ノキアは知ってる! カッコイイ携帯電話の会社でしょ?」と、僕が答えるとコウが彼女たちに通訳する。
「そう! その国!」と言って彼女たちは喜んだ。
「あなた達は?」と聞かれ、コウが「日本」と答える。
「Oh~!」と二人揃って、驚いたリアクションをした。
 僕は、あんな小さな島国の国名をフィンランドの人まで知ってるのか……。と正直驚いた。
折角だから、この二人のどちらかでも良いので日本の有名人で誰か知ってる人はいるかと、コウに聞いてもらった。
まぁ、当時の日本では、メジャーリーグで大活躍していた『野茂英雄』
または、YMOやアカデミー作曲賞を受賞した『坂本龍一』が出て来れば御の字で、誰も知らないという答えが本命だろうと思った。
「YUKIO MISHIMA」と、少しくたびれがかった白いTシャツを着ていた女の子が言った。
 僕は、ピンと来なかったので一度、頭の中で整理することにした。
『YUKIO MISHIMA』だから、ひっくり返すと『MISHIMA YUKIO』
「三島由紀夫!!」
 全く予想外の回答で、僕とコウの二人は声を上げてかなり驚いた。
まだ『黒澤明』や『三船敏郎』なら、日本でも海外で有名と知っていたから「あぁ、なるほどね」となるところだったが、あの『三島由紀夫』だ。
もちろん、日本でも有名な作家だが当時は、シドニィ・シェルダン、松本人志、さくらももこ、村上春樹が人気で、彼の作品はかなり読書が好きな方以外は、どちらかと言うと難しく、敷居がとても高いイメージだった(もちろん僕もだ)。
「どうして知ってるの?」とコウは、白いTシャツの女の子に聞いた。
「フィンランドで学生の時に『金閣寺』を読んで知ったの、とても美しい小説だったわ」と絶賛した。
 確かに三島由紀夫といえば、超が付くほどの天才作家だということは知っている(そして、壮絶な最期も)。ただ、彼が日本語で繊細に表現したものを正確に言葉の中に内包されている部分まで(彼が紡いだ言葉の糸の一本一本まで)「美しい小説だった」と言わしめるほど、正確に外国語に翻訳され、海外でも有名になっている事実は全く想像していなかった。
 逆に、野茂英雄か、坂本龍一は知っているか、コウに尋ねてもらったが二人とも「知らない」と言って、両手を広げたボディランゲージをした。(後に判るのだが、アメリカで有名な日本人と、ヨーロッパ各国で有名な日本人と、中東、アジア諸国など国々によって著名な日本人は全く異なった
ともあれ、フィンランドの少しくたびれがかった白いTシャツを着ていた女の子が知っている著名な日本人は、あの三島由紀夫さんだった。
 彼女たちは、僕たち二人で一緒に奥のテラスで飲みながら話そうと誘ってくれたが、当時はお酒は苦手だったのと、僕が全く英語が話せない分、コウに負担がかかることから僕はその場に一人残ることにした。
彼女たち二人は少し残念そうに、そしてとてもにこやかに僕に手を振り、コウと共に三人は奥のテラスに向かった。

 僕は部屋に置きっぱなしにしたスプライトを思い出し(あの日以来、ハマってしまった)、面倒だが一度自室に取りに戻ってから、再びここで煙草を吸うことにした(僕は何か飲み物を口にしながらでないと、どうも煙草が吸いにくい体質?だった)。
小走り気味に一旦部屋に戻り、すっかり温くなったスプライトを手にして(共同冷蔵庫をまだ信用出来ず利用していなかった)再びレセプションの側を通ると、誰かが「日本がワールドカップに出場決定したぞ!」と大きな声で日本語で言いながら走って来た。
一九九七年十一月十六日、いわゆる『ジョホールバルの歓喜』だ。
周りにいた日本人は一斉にどよめき、遂に日本がサッカーのワールドカップ(一九九八年フランス大会)に出場決定という歴史的な大ニュースについて、あれこれと集まって口々にしていた(スマートフォンもなければ、オーストラリアでその試合は放送もされていないので、試合内容の詳細については当然誰も判らない)。
僕はそのニュースに驚き、どこか喜びながら喫煙所のある通路に戻り、手に持ったしっかりと温いスプライトを口にしながら煙草に火を着けた。
「はじめまして、今ちょっと良いですか?」と、一人の日本人が僕に話しかけてきた。
 クタクタに伸びた黄色いTシャツを着た彼に、僕は全く構わないと伝えた。
「ありがとうございます! 明日、日本に帰るんですが、今の日本ってどんな感じかご存知ですか?」と奇妙な事を尋ねてきた。
「僕は、逆に数日前に日本から到着したからそんなに古い情報じゃないと思うけど」と伝える。
「それは助かります! 今の日本ってどんな感じですか?」と、彼は食いつくように僕に聞いた。
「全然話しても良いけど、帰ったら必ず判る事だしそっちの方が驚きが多くて、帰国した時ならではの楽しみがあっていいんじゃないの?」と彼に言った。
「そうなんですが、絶対に『そんな事も知らないのかよ』って友達に馬鹿にされるのが嫌なんですよ! もし良かったら教えてくれませんか?」と彼は言った。
 なるほど、そういうパターンというか、そういう考え方もあるのかと妙に納得した。物事の考え方なんて、本当に人それぞれなんだなと感心しながら僕は、大阪と名古屋にドーム球場が出来たこと、『たまごっち』という玩具が大流行でなかなか手に入らないこと、『エヴァンゲリオン』というアニメが大ブームだけど、内容が難しくて殆どの人(僕も含めて)が内容が理解出来なくて色んな意味でとても話題になったことなどを彼に伝えた。
興味津々に僕の話に耳を傾け、事細かに僕に質問をし、僕はそれについて出来る限り詳細について丁寧に答えた。ひとしきり質疑応答が済むと彼は一旦情報を整理するかのように納得した。
「そんなことになってるんですね」と言って、何度か頷いていた。
「そして、今しがた日本がワールドカップの出場を決めたらしいね」
「なんか、そうみたいですね」と彼は言って、やはりどこか嬉しそうな顔をしていた。
 次の瞬間、彼は何かを思い出したかのように表情をガラリと変えた。
「すみません! テレビゲームってどんな感じでしたか?」と、僕に聞いた。
 僕は、プレイステーションの『グランツーリスモ』という車のゲームがもの凄く人気があって面白かったこと『ファイナルファンタジーⅦ』は、映像がとても綺麗でゲームボリュームも大きく、ストーリーやゲームシステムも楽しくて、とても大人気だったこと等を伝えた。
僕のゲームの話を一通り聞いた彼は、少し安堵感に満ちた表情に変わった。
「どうかしたの?」と、僕は少し心配して彼に尋ねた。
「いや、実は僕の父は『久夛良木健』なんです」と、少し照れながら言った。
 『久夛良木健』と言えば、後にプレイステーション2とPSP、そしてプレイステーション3とゲーム業界全体を、世界的にも大きく牽引する偉大な功績を残した、プレイステーションの父とも言える人だ。まさかそんなはずはないと疑った僕は、彼に色々と惚けた質問をしたが、彼の説明する人物は間違いなく『ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時)』の代表取締役社長の『久夛良木健さん』のことだった。その久夛良木健さんの息子と名乗る、クタクタに伸びた黄色いTシャツを着ている彼となぜ、今こんなパースのユースホステルの片隅の喫煙所で僕は話しているのかと考えると、頭が少し混乱し始めた。
 今日はいつもの通り市内観光をして、お昼は決まってハングリー・ジャックスでダブルワッパーを食べ(これもかなりハマった)、夕飯はいつもの仲間と(この日はトマトパスタだった)食べた。その後、いつもの慣習でコウとこの狭く不衛生な通路で喫煙していると、フィンランドで(一人にしか聞いていないが)有名な日本人はあの『三島由紀夫』で、ドーハの悲劇で敗れたサッカーの日本代表がワールドカップの出場を決定し、今僕の目の前にはあの『久夛良木健さんの息子さん』がいる。
正直、僕は何がなんだか判らなくなってきたので出来る限り冷静になるように努めた。いやちょっと待てよ、彼はどう贔屓目にみてもかなりお金に苦労している身なりをしているじゃないかと考えた。
「そんな凄い人の息子さんなら、ユースホステルなんて泊まらないで、高級ホテルで立派な食事をして、かなり良い生活できるんじゃないの?」と彼に聞いてみた。
 そりゃそうだ、あの久夛良木健さんの息子ならこんなところに泊まる理由はない。最低限でも僕が最初にイメージしていたホテルのシングル・ルームで、ゆったりと過ごし、きちんとした身なりをし、西オーストラリア大学で海洋生物学などを学んでいる方がまだ理解出来る、自然だ。こんな着古した服装で、あの騒がしく鼻を突く匂いの相部屋で寝泊まりしている筈がない。
「いや、父の哲学として自分の人生でやりたい事は、自分で稼いで自分で道を切り拓いて行けって考えで、全くビタ一文も出してくれません。基本的に父は金銭的に甘えると言うことには兎角厳しく、その点については恐らくですが他の家より厳しいと思います。実際、僕はワーホリビザで頑張ってアルバイトで働いてお金を貯めたのですが、ビザ発行時の預金はギリギリでその後の準備金やらで結局オーストラリアに到着した時の持ち金はかなり厳しい状態でスタートしました」と彼は、かなりはっきりとした口調で僕に言った。
 その凛とした態度とその口調から勘案すると、単純な作り話には到底思えなかった。僕自身もゲーム雑誌で、久夛良木健さんの写真は何度か拝見したことがあったが、確かにそう言われてみれば彼の言う通り、子供を甘やかさず愛のある厳しい教育方針を持っているタイプに見えなくもないなと思った。
「でも、そんな厳格なお父さんでも日本にいた時は、多少なりとも良い生活は過ごしていたんでしょう?」と僕は、彼が日本に居た時の生活事情を聞いた。
「えぇ、基本的には何事にも厳しい人ですが、まぁ人よりは特にゲームに関しては良い生活をしていたと思います。プレイステーションのゲームソフトは父の立場上から全て無料で手に入ってましたし、メーカー側から直接送ってくる物もあるので同じゲームが複数個ある状態でしたね。それはそれで友達にあげることも出来ないので困りましたが……」と、彼は少し照れ笑いしながら、申し訳無さそうに言った。
 一方、僕は発売前から既に人気のとても高いゲームソフトの発売日が発表されると、お店に電話をして(場合によってはお店に直接行って)ソフトを予約し、発売日まで手に入るかどうかドキドキして待っていた。
 しかし彼は、同じゲームソフトが家中に転がっていることに頭を悩めていたのだ。
なんとも、世の中はつくづく不公平に出来ているものだと実感したが、いま目の前に居る彼と僕は限りなくフラットだった。
僕は、ここオーストラリアでの生活において大先輩の彼に、彼にとってこの一年間はどんな生活で彼の総決算を聞いてみたくなった。
彼も他に漏れず、ラウンドをしてオーストラリアを一周するという壮大な旅の生活だった。足りないお金の分は、農園などで体を使って稼ぐアルバイトに明け暮れ、くたくたになってもそれでもお金にはかなり困る生活が続いたそうだ。結果的に他のラウンドを行う人たちと比べると、農園でアルバイトして稼いでお金を貯める期間が長くなる分、それほど多くの街を巡る旅ではなかったそうだ。どちらかと言うと『サバイバル』とまではいかないが、かなり生命の維持を重要視した生活が長く続いたようだった。彼の色々な苦労話や、驚いたことや思い出に残ったことなどを聞いた(やはり様々な人との出会いと別れが総決算として大きなプラスになったそうだ)。加えて、僕にアドバイスとしてお金は出来る限りセーブしておくことを強く言われ、最初は今のシングル・ルームでの生活に慣れておいて、お金が必ず厳しくなる時がいつか来るからその時までには、僕が思っているより物騒じゃないからドミトリー(相部屋)に慣れて出費を抑えた方が良いなど、今後の生活のコツなどを教えてもらった。暫く彼と話した後、彼は日本への帰り支度をするために部屋に戻る際、僕に御礼を言って去っていった。
その日以降、彼とは一度も会ってはいない。現在でも、彼は本当に久夛良木健さんの息子さんだったのか全く不明のままだ。

 もし彼が本当に、久夛良木健さんの息子さんだったら、もう一度彼と話をしてみたい事が少なくとも『二つ』ある。

『あの後、僕はパースに一年間生活し続けることが出来たこと』
『僕は大阪の有名ゲーム会社で勤め、お父様と同業界に身を置いたこと』

 僕は帰国後、子供の頃から夢だった大阪で有名なゲーム会社に中途採用で入社することが出来た。そこで長年勤務したが、たった一度だけ、会長室に向かう久夛良木健さんをお見かけしたことがあった。当然、話しかけることも出来ず、ただ深く頭を下げるだけだった。
目の前に確かめることが出来る唯一の人物がいるにも関わらず、僕は何も聞けなかった。

 もし、彼の話が全て本当なら、再会し一度で良いから酒でも酌み交わしながら、過ごした場所もスタイルも全く異なるが、約二十六年前のオーストラリアで過ごした、辛くも楽しかったあの一年間を経験した者同士として、熱く語りたいと心から思う。

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