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海の向こう側の街 Ep.08<カレーと米と品格と>

 この二~三日ほどは、午前に市内観光してマクドナルドで昼食を摂り、夕食は当時日本に無かったハングリー・ジャックス(バーガー・キング)で済ませるというサイクルを繰り返していた。
マックシェイクにLサイズがあるところ以外は、さほど日本と変わらないマクドナルドよりも、ハングリー・ジャックスのこれまで僕が想像していたハンバーガーの大きさとダイナミックな味付けが気に入りかなりハマっていた。加えて、パースの街は日本と比べるととても小さく、三日も歩けば東西南北に何があるかは大体把握することが出来(結局、バラック・ストリートにあったビジネス街の他に、本町や新宿を超えるレベルのものは無かった)、期待していたハードロックカフェも無く想像していたよりも楽しめるところは少なかった。とはいえ、市内観光は僕には刺激的なものであり、特に日本との違いで一番驚いたことは、この当時(一九九七年)の時点でゲームセンターがICカードでチャージ式だったことだった。お金さえチャージすれば、あとは遊びたいゲーム機にカードを差し込めば、1Pボタンを押すだけで自動的にカードから差し引かれワンコイン入った状態になる。TVゲームに関しては、日本は圧倒的に先進国だと思っていたが、これにはとても驚いた。
そして、とりわけ日本とは異なっていたのは街全体の美しさだった。これは清潔という点はもちろん、きっと利権と癒着に塗れた汚れた政治も無く(ゼロでは無いだろうが……)市民と公共事業を司る機関が「品格」を持ちしっかりとした一枚岩になって、パースの街全体に対して妥協なく美観向上を行い続けてきた結果なんだろうなと思った。
約二十六年の月日が経過した現在のパースも、街の姿は大きく様変わりをしているものの、その根幹部分の美しい街並みについては少しも揺らいでいるようには思えなかった。その世界一美しい街と言われるパースの街並みを見れば見るほど、大阪も一枚岩になってこんな美しい街づくりをして欲しいものだと、利権と癒着に塗れた日本の情けない政治を勘案すると、一生叶わぬ夢だと完全に諦めながらも、心の中でささやかに願った。

 僕は一通りの市内観光を済ませ、そろそろこのワンパターンなサイクルに飽きてきたことと、コスト的にはあまり芳しいとは言えない食生活を打開するため、今後の食生活について検討する余地が大いにあった。今後は食事面も含めてどのように過ごしていこうかと頭をもたげながら、陽が沈みかけてきた頃合いにユースホステルへ一度戻った。
『今夜の夕飯も、ファーストフードにするなら早いうちに食べに行かないと、この辺りの夜は怖いからなぁ』と、到着初日を思い出しながら自室に戻ろうとした。
すると、共同ダイニングからいい香りが漂い、好奇心も後押しして美味しそうな香りのする方向に向かうと、五~六人の日本人が何かを話し合っていた。その中の一人の女性と目が合ったので僕はとりあえず会釈をする。
「ねぇ、夕飯食べた?」と彼女は僕に突然聞いた。
「いや、まだです」と言うと、その五~六人の日本人が一斉に喜んだ。
「もしよかったら、一緒にシェア飯(メシ)しない? 丁度、あと一人欲しかったんだよ」と言われた。
 僕は彼女が何を言っているのか全く判らなかったし、今から何が始まるのかも判らなかった。ただ何か利害が一致したことだけはなんとなく判った。
「そのシェア飯ってなんですか?」と僕は尋ねる。
「みんなでお金を出し合って食材を買って、料理をしてみんなで食べるの。するとほら、一人あたりが安くつくじゃない?」と彼女は言うと、周りのメンバーも深く頷いていた。
 詳細はよく判らないけど、食費の出費を減らすという目的は同じだと判った。これも経験だ、ファーストフードよりも高くついたなら次から参加しなければいいんだ。
「良いですよ」と僕が言うと、その五~六人の日本人がさっきよりも大きく喜んだ。
「いきなり誘ってごめんね、金額的にもメニュー的にもあと一人入ればみんなでカレーが安く作れたんだよ」と、声をかけた彼女の隣にいた、僕と年齢が近そうな男の子が言った。
「いえいえ、全然よく判っていないんで、こちらこそよろしくお願いします」と僕は頭を下げた。
「おぉ、礼儀正しい人だ!」と誰かが言った。
「彼なら大丈夫じゃない?」と僕に声をかけた彼女が言った。
 何が大丈夫なのかよく判らないけど、全員がその言葉に賛同するように頷いた。
「じゃあ、買い出しに行くとしますか!」と彼が言うと、意気揚々と全員で外に出ようと歩き始めた。
「え? 今からスーパーに行くの?」と思わず声に出して驚いた。
「大丈夫、直ぐ側でカレールーを買いに行くだけだから。お肉とか野菜とかは既に買ってて、冷蔵庫に入ってるから」と後ろの方にいた女の子が僕に言った。
とはいっても、この街にはコンビニなんてものは一軒も見当たらなく『一体どこに買い物に行くつもりなのか?』と気になり、少しワクワクし始めていた。みんなでユースホステルを出て、ウイリアム・ストリートをワンブロックほど北上すると、少し怪しげな中国系の雑貨屋に入って行った。
店の中に並ぶ商品の半分は、日本のカレールーだったりお菓子だったりとよく知っている物が並んでいた。
『なんだ、オーストラリアでもここに来れば、品揃えは少ないけど日本のものは買えるんだ』という驚きと、また新しい事を知れた喜びに浸っていると、僕に声をかけた女の子が『ゴールデンカレー(中辛)』を手に取った。
「なんだかんだ言って、これが一番美味しいのよね」と言うと、彼女の隣にいた男の子が大きく頷いて「結局はコレ。安いし美味い。最高」と言った。 
 そして、周りも強く頷いていた。
個人的には、そのメンバーの異様な結束感の強さと『いや、カレールーなんて正直どれでも一緒やろ?』と僕は思いながら、市内観光の延長線のように一人で店の中を散策していた。
日本で見慣れたものや、今まで見たことがない中国や韓国の多種多様な商品が陳列してあり、オーストラリアにいながらまるで東洋のどこかの国を旅行している不思議な感覚だった。興味を引いた商品を手に取りながら、文字通り不思議そうにあれこれと眺めていた。
すると、みんなが丁度会計を済ませたタイミングだということに気づき、遅れを取らないように彼らと共に店を出た。
紙袋を抱え、僕の直ぐ側にいた女の子が「ひょっとして、まだパースに慣れてない?」と僕に聞いてきた。
 きっと、僕が不思議そうに商品を眺めていた姿を目にしただからだろう。「三日前の夜に着いたばかりで、人生で初めての外国だから何がなんだか全く判らなくて……」と素直に話した。
「よくパースが、今から一番良い季節の時って判って来れたね!? 凄いじゃん、これから最高のシーズンなんだよ!」と、少し熱っぽく言っていた彼女の肌をよく見れば、程よく日に焼けていた。きっとサーフィンとかボディボードとかのマリンスポーツが好きなんだろうなと思った。
「いや、何も調べて無くて、仕事の契約のタイミング的にこの時期になっただけなんです」と。少し買いかぶられていたので素直に白状した。
「それでも、ピッタリの季節に来れたんだから、それはそれで逆に凄いじゃん! エンジョイしなよ! パースにとって最高の季節到来なんだから楽しまなきゃ損だって!」と、とてもついさっきまで見ず知らずだったとは思えないほど気さくで、実に嬉しそうな笑顔で僕に話した。
続けて、あれやこれやと全員で、この時期に行くべきスポットを色々と教えてくれていたが、教えてくれる数が多くて僕の頭に残ったのは『コテスロー・ビーチ』という名前だけだった。
相変わらず物騒な空気を感じていたものの、この人数なら歩いていても怖くは無かった。なにより日本語が通じるというのはかなり心強かった。ユースホステルに戻るとすぐに、全員で共有キッチンスペースに向かい、待ったなしで極自然にカレーを作り始めた。殺伐とした空気から程遠く、和気藹々と実に楽しげで加えて手際よくそれぞれが調理していた。
最初に感じた異様な結束感はその姿を見ていると『みんなで楽しく作って、みんなで楽しく食べる』というコンセプトを大切にしているんだなと、なんとも言えない彼らの結束感の理由が伝わった。それはまるで、小学校時代の林間学習を思い出し、僕も同調するように不思議と楽しくなっていた。
 この日まで、ろくに料理をしたことがない僕は、せめて何か手伝いたいと思い、お肉を切っていた女の子にピーラーの使い方を教えてもらうと、せっせとジャガイモの皮を剥いて芽を取り、教えられた通りの大きさに切っていった(人参の皮も剥いた)。ただ、今日の献立はカレーと聞いてからずっと気になっていた事があった。
それはお米だった。
海外のお米は、あまり日本人の口に合わないものだと聞いていたし事実、一九九三年に冷夏の影響から米不足になり、日本で輸入米を食べた記憶から(口に合うお米と、口に合わないお米との差が激しい記憶があった)、今晩に食べるお米は一体どんなものかと気になり、横でお米を研いでいた子に興味本位で訪ねてみた。
「ん~、色々と食べてみたけどこの「SunRice」ってやつはまだイケると思うよ。このマークを覚えておくと良いよ。ほら、日本のことを国旗が日の丸だから「Sunrise」て外国の人がよくイメージするじゃない? それで覚えておくと良いよ。「日の丸」から「日の出」で「Sunrise」で「SunRice」って感じで」と、彼はにこやかに笑いながら説明してくれた。
 僕は、他のお米についてはどうだったかを、興味本位と会話をふくらませる両方の意味も含めて彼に聞いてみた。
「これ以外はね、やっぱりパサパサ感が強かったって感じかな。ほら、チャーハンとか作る時は、あえてタイ米みたいな米を選ぶこともあるよ。やっぱりパラっと仕上がるし調味料との相性も変わるから味も全然違う」と彼は言った。
「そっか、チャーハンとかピラフはともかく、やっぱりお米は日本の物が一番口に合うんだね」と僕は彼に言った。
「そうだね。でも、まぁもともとお米を食べる文化の国じゃない国に僕たちが来てるんだから、日本人好みのお米がなくてもしょうがないよね」と、さっぱりとした口調で彼は言った。
 その言葉から彼らは、『自分たちは、あくまでもこの地においては来訪者だ』ということを強く認識し意識していることに驚いた。
彼らはどれくらいこの国に滞在しているかはまだ判らないけど、そこそこ長い期間滞在していたら勘違いをしてしまいそうなものだと、僕は勝手に想像していたが彼らは全く異なっていた。
それぞれが気さくで楽しく、皆一律に品格を正しく持ち合わせていた。
ここは海外だからといって羽目を外すのではなく、海外だからこそ来訪者としてきちんと自分の立場を理解していなければならないということを、彼らの言動から僕は学んだ。
彼らから僕が学んだ最も重要なことは、この品格かもしれない。
僕は、心の何処かでこの教えは現在も持ち続けているし、きっとこの先も忘れることはないだろう。旅の序盤に人格者としてとても優れた人たちと出会えて本当に良かったと心から感謝した。

 暫くすると、お待ちかねのカレーが漸く出来かけた際に、もう一つずっと気になっていた肝心な支払いについて、一番最初に僕に話しかけてくれた女の子に幾ら支払えば良いか聞いてみた。
彼女は、やはり気さくにそして謙虚に「ごめんごめん、二ドル五十セントなんだけど。大丈夫?」と言い、正直驚くほどの金額だったので野菜やお米など全て含めての数字なのか確認した。
彼女は、ザックリで按分しているけど、野菜やお米の分も一応は含んでいること。ただ、突然声をかけたのでそこまで正確に計算していないことと、初回割引ではないが若干控えめの金額だが誤差内だと言った。
「突然、声かけてごめんね。」と彼女は言った。
僕としてはひょんなことから夕飯にありつけたので「こちらこそ、助かりました。」と御礼を言って素直に、二ドル五十セントを支払った。
「もし良かったら、だいたいあの時間になったら私たちはダイニングに集まってるから、明日から良かったら気軽に声をかけてよ」と彼女は僕に言った後、みんなに向かって「良いよね?」と確認した。
 他のメンバーも「もちろん!」や「Welcome!!」など様々な形で、彼ら彼女らは有り難い返答をくれた。
僕は御礼を言い、みんなと食器や料理を運び、一人で覗いた時はあれほどまで殺風景に見えたダイニングルームで、温かく受け入れてくれた日本人仲間に囲まれ、オーストラリアで「日本のカレー」を食べる。
こんな夕飯になるなんて、今朝起きた時はもちろん、このユースホステルに帰り、彼女に声をかけられる瞬間までは全く思いもよらなかった。
小学校の給食の時のように、全員で「いただきます」と手を合わせて言って、二ドル五十セントの大盛りのカレー(これは安い!)を食べ始めた。
それぞれが食べ始めると「やっぱコレだよ!」と誰かが言った。
「サムライのカレーとは全然違う」と誰かが言うと「あれはあれで、安くて美味いよ」と誰かが言った。
「サムライはカレーより牛丼でしょ?」とまた誰かが言った。
「サムライのカレーってなんですか?」と、僕は聞いた。
「彼、三日前に到着したばかりなんだって!」と日焼けした女の子がみんなに言った。
僕の左隣の男の子が「おぉ! ようこそオーストラリアへ!」と笑いながら言うと、誰かが「それは、お前が言うことじゃないだろ!」と言って、みんなで笑った。その流れで、僕が初めに自己紹介することになり、続いてそれぞれが自己紹介をしてくれた。
 また「サムライのカレー」については、彼らの説明によると、バラック・ストリートに『サムライ』という日本食レストラン(彼らは「ジャパレス」と言っていた)があり、カレーと牛丼が四ドルで手軽にお腹いっぱいに食べれる上に、『メッセージボード』が設置してあるとのことだった。
その『メッセージボード』が『サムライ』の最大の重要なポイントで、そこには「売ります・買います」と言った「物のやり取り」や「アルバイトの求人情報」に「シェアハウスの情報」などが数多く掲載され、一九九七年の当時には、当然スマートフォンも無ければSNSすら存在しなかったあの頃『サムライ』は、僕たち留学者の「ライフライン」に直結する重要な拠点ということが判った。幸い、彼らの善意で明日の朝に「サムライ」の場所と、パースの交通網について日本との違いや乗り方と、無料で乗れる『キャットバス』などについて実際に案内をしてもらえることになった。
案内してくれるのは、カレーを食べていた僕の左隣りにいた「コウ」と、ジャガイモの皮の剥き方を教えてくれた「エミ」とその隣りに座っていた「ハルカ」が案内してくれる事になった。
 次から次へと、僕の知らないお店や知っておくと便利な情報など、今後の長い海外生活に必要な事をたった一晩で沢山学ぶことが出来、本当に有り難い限りだった。

 なんとも気さくな人達と、オーストラリアの生活について色々なことを話しながら、こうやって全く逆の季節の海外で自分たちで作った「日本のカレー」を食べることになるとは思わなかった。
全員が笑顔で楽しく食卓を囲み、美味しくご飯を食べる。
日本にいた時は、お昼はデスクでコンビニ弁当を食べ、夕飯は部屋で一人、食事をして朝食は食べずに出社する毎日。そう考えると、これまでなんと僕は寂しい食事をして過ごしてきたのかと虚しく思え、同時に眼の前の笑顔と活気のある食事はこんなに楽しいものなのかと実感した(なによりも食費を抑えられるメリットはとても大きかった)。
 最後に、エスビー食品の『ゴールデンカレー(中辛)』が、こんなにも美味しいものだとは思わなかった。
日本で当たり前に生活していると、様々な新製品のCMや、ちょっと新しいものを目にしただけで商品を選んでしまいがちだが、エスビー食品の『ゴールデンカレー(中辛)』は、これといった有名なCMがあるわけでもなく、逆に目新しいものは全く無いといっても過言ではない商品だ。ただ、こうやって改めて真っ直ぐに向き合って口にしてみると、その味はとてもシンプルでありながら、このカレーがロングセラー商品であり続ける理由が判った。
 僕は、この日に食べてから二十六年以上経った今でも、必ず『ゴールデンカレー(中辛)』を買って妻と子供たちを含めて家族四人で食べている。
結婚した当初、最初に『ゴールデンカレー(中辛)』を食べてみた。その後何度か、妻と色々なカレールーを購入して食べ比べてみた。幸い妻の実家は、これといって決めたこだわりのカレールーがあるわけでもなかったので(妻はスーパーで購入する時に一番安いものを選んでいた)、カレーの食べ比べにとても協力的だった(何より、妻が本エピソードを読むまでは食べ比べをした本当の理由を現在も知らない)。よって、妻は完全に中立なポジションで僕と一緒に様々なカレールーを買っては食べを繰り返した。
数ある商品の中から、味や香りをあれこれと比べてみて食べながら評論家のようにカレールーについて話し合って食べた。そして、大凡発売されているカレールーを食べ終えたあと『ゴールデンカレー(中辛)』を選んだ。
妻は、一口食べた後に「なんだかんだ言って、これが一番美味しい」と笑顔で僕に言った。
「確かに」と僕は言って、黙々とカレーを口に運んだ。
 我が家で、エスビー食品の『ゴールデンカレー(中辛)』がスタンダードであり、至高のカレーとなったルーツは、一九九七年十一月十三日のこの夕食から始まった。

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