見出し画像

海の向こう側の街 Ep.24<フリーマントル刑務所としらせと毎日二千の苦行>

 ダイビングショップで指定された通り、フリーマントルにある病院で僕たちは、診断を行うために向かった。ここフリーマントルは土日になると賑わう街で、それ以外の平日はわりとひとけはさっぱりだった。パースでも有名な『フリーマントル・マーケット』は土日のみオープンし、酒場のキレイな女性のバーテンダーの写真を撮ってお客に怒られたり、ここオーストラリアで僕たちは、何も労働していないのに労働感謝祭でフリー(無料)のホットドックを食べた。(日本で働いていた時の労働を労ってくれているんだと拡大解釈して頂いた)

当時の労働感謝祭

 またAC/DCの元ボーカルであるボン・スコットの故郷は、ここフリーマントルだった。また、港町として歴史が深く、あのリアルで「アメリカしか勝たん」『アメリカズ・カップ』というヨットレースで勝利したのは、他でもないオーストラリアのフリーマントルの船ということもあり、フリーマントルに複数箇所ある博物館で『Army Museum of Western Australia(西豪州軍事博物館)』と『WA Maritime Museum(海洋博物館)』(当時は全て無料だった)をタカと探索したが、『Army Museum of Western Australia(西豪州軍事博物館)』は、旧日本軍がここパースまで進軍し、虐殺を繰り返していた様が展示されていた。僕とタカは、てっきりオーストラリア軍の戦車やら飛行機等が展示されているだけだと思って入館したが、想像とは大きく異なり自分の国の最も醜い過去の部分を見せつけられ、頭を下げて募金箱になけなしの一ドルを入れて帰るしかなかった。
昔の人は偉いなんてよく言うが、なんとも情けない事をしてくれたなと怒りの感情と申し訳ない感情ばかりが溢れ出た。
「広島平和祈念館に訪れるアメリカ人の気持ちがちょっとだけ分かったよ」と、広島出身のタカは僕にボソっと言った。
もう一方の『WA Maritime Museum(海洋博物館)』は、全て英語で長々と記載されているので何度入ったか覚えていないが、そもそもそこの船が何で展示されているのか最後まで全く判らなかった。日差しが強くなると『WA Maritime Museum(海洋博物館)』で日除けをし、そのすぐ側にある僕たちが名付けた『世界一美しいマクドナルド』(今はもうない)で、マックシェイクを飲みながらインド洋に沈む夕日を眺めていた。

 そう言えば、この港町フリーマントルには、なにより往路は十一月、復路は三月に年二回『南極観測船しらせ』が停泊する。
僕とタカが知り合って間もない頃、ジュンさんと一緒に往路で停泊している『南極観測船しらせ(初代)』を見に行った。タカやジュンさんのような、広島大学や外国語大学に入学出来るくらいのインテリな人は興味が湧くのかもしれないが、僕は『南極観測船しらせ』に全く興味が湧かなかったというか、そもそもそういった乗り物の類(たとえ戦艦であっても)には基本的に全く興味を示さなかった。しかし、タカとジュンさんのテンションはほぼMAXだったので、しぶしぶ付き合う形で同行した。
オレンジ色のような赤色のような独特の色味をしたフリーマントル港に停泊する『南極観測船しらせ』は、思っていたよりもゴツく、なにより勇ましかった。
戦艦とまではいかなくとも、何かを攻撃する船だと言われたら信じていたかもしれないくらい、勇ましくかっこよかった。
「思っていたより凄いねー。あれで、今から南極まで行くんだよ。凄くない?」とタカは言って『南極観測船しらせ』に手を振っていた。
 この時になってようやく僕は、なるほど、今から南極まで向かうというロマンに共鳴していたんだと理解することが出来た。
それに、ただの船だと思っていたのだが想像とは大きく異なり、気がつけば僕もテンションがMAXまでとは言わなくても、それなりには上がっていた。
後に『宇宙より遠い場所』というアニメで、この停泊シーンと『フリーマントル・マーケット』が映った時は、アニメながら忠実に再現されているなと感心したものだった(アニメの内容はもちろんとても良かった)。

 あと一つ。フリーマントルと言えば、フリーマントル刑務所だ。
今では、二〇一〇年に他の史跡とともにユネスコ世界遺産になっているみたいだが、一度だけタカとユーゴと『フリーマントル刑務所』に行ったことがあった。これは当時、月曜日〜日曜日の朝の十時から夕方の六時まで見学が可能で、夜の七時半からは些か照明を落とした状態で始まる「キャンドルライト・ツアー」というものがあり、水曜日と金曜日の二回に一般見学がおこなわれていた。
僕たちは言うまでもなく、ちょっとでも雰囲気のある「キャンドルライト・ツアー」を選んで予約した。
先程のAC/DCのボン・スコットも、囚人としてご厄介になった『フリーマントル刑務所』はとても広く、六万平方メートルの広さがあり、とても一日で全てを見渡すことが出来ない広さだった。
敷地内には、刑務所、守衛詰所、脱走防止用の防御壁、コテージ、トンネル、そして囚人たちが残した芸術作品が存在するが、僕たちの時はトンネルなどは一般公開されていなかった。
日も沈み、サーチライトが上下左右に動いて僕たちを照らし出す正面入口の演出は、なんとも気分を高めてくれた。僕たちは、機械式の日本語案内機を借りて刑務所内を散策することになった。ゲートハウスとなるツアー出発地点でビデオを見た後(一八五五年に使用開始され、一九九一年十一月まで、わりと最近まで使用されていた事に驚いた)、メインの監房棟に入る。手元にある日本語オーディオ・ユニット・セットで所々に書いてあるナンバーを押すと、日本語オーディオ・ユニット・セットがその場所に関する説明を日本語でしてくれる。
興味深く聞いていると、突然電気が消える。フリーマントル刑務所内で粋なライトアップと共に脱獄兵が逃げるショーが始まり、エルヴィス・プレスリーの『監獄ロック』が刑務所内に鳴り響く。いかにも、海外ならではの演出だと思った。
僕は、物心がつく前からエルヴィス・プレスリーのLPレコードを父親から聴かされ、楽曲を端から端まで聴かされて育ったので、曲はもちろん、そのショーで使われている意味合いまでもがよく判ったが、これは日本ではなかなか難しい選曲だろうと思った。
長いメインの監房棟で色々聞きながら、元来はイギリスからの流刑の場所で、牢屋から出れれば風景は最高じゃんと思いながら、日本語オーディオ・ユニット・セットに耳を傾けていた。
映画でよく出てくる囚人の運動場(ここに限っては昼間に見たかった)と各種作業場、貯水池、刑務所内の病院、新しく建設された新監房棟(とはいっても一九〇七年なので明治四十年だ!)。
一八八八年から一九七〇年まで使用していた女性刑務所(女性用監房棟)、見張り塔、看守が住んでいた建物を紹介してもらった。
最も心を痛めたのは、処刑場(絞首刑台)だった。
一番最初に絞首刑で処刑されたのは幼い子どもだと、日本語オーディオ・ユニット・セットは言っていた。
そして、一九六四年の連続殺人犯の男性の執行を最後に、その処刑場(絞首刑台)は使用されていないらしい。
後に調べた結果、一九八八年に刑務所が古すぎることから気温が五十二度を超え、暑さに耐えかねた囚人たちが暴動を起こしたことをきっかけに、刑務所として使用する事を見直し、一九九一年十一月にこのフリーマントル刑務所が閉鎖されることが決定したそうだ。
僕たちが訪れる僅か数年前まで、この施設が使用されていたことが信じられなかった。(処刑場(絞首刑台)はその前から使用されていなかったが・・・)
ともあれ、現在は囚人が掘った洞窟などをボートに乗って見学できたりと、ツアー内容も大きく変わっているみたいだ。

当時のパンフレット

 さて、話を健康診断の結果に戻すと、肺活量が一般の値から程遠いほど低く、到底許可できるものではないと診断された。
愕然としたが、まぁ、それほど興味がなかったスキューバー・ダイビングだったので、個人的にはその診断結果を聞いて綺麗さっぱりと諦めていた。
「煙草を吸っていても、肺活量が一般以上になるようにしてやるよ」と、タカが僕に真面目な顔をして言った。
「え? どういうこと?」
「煙草って、今から急にやめられないでしょ? だから、僕と一緒に毎日水泳をしよう。一日に二千も泳げば、煙草を吸っていてもあっという間に肺活量が一般以上になるから」と、彼は言った。
 二千? 二十五メートルじゃなくて二千メートルって、僕は海洋生物じゃないんだから……と、その言葉を聞いて、僕は耳を疑った。
「二千? 二千メートルの事を言ってるの?」
「もちろん!」
「そんな距離毎日どころか、一回も泳げるわけ無いじゃないか!?」と、僕は声を荒げた。
「もちろん、ずっとじゃないよ。休憩したら泳いでを送り返す。まぁ、オレは大学までずっと水泳部だから、もちろん休憩なしで泳げるけどね。水泳に慣れていないユキオにいきなりそんなことを求めたりしないし、そもそもが無理っしょ?」
「無理に決まってるやん、イルカや無いんやから。そないに泳げるわけ無いやろ? 五十メートルが精一杯やわ」
「そんだけ泳げたら、二千は泳げるよ。大丈夫、ちゃんと泳ぎ方から教えるから」と、彼はいつもの笑顔で言った。
それから毎日、タカが僕を『フリーマントル・アクアティック・センター』に連れていき、毎日二千メートル泳ぐことになった。

タカがどうして知っているのかは判らなかったが『フリーマントル・アクアティック・センター』に僕たちは向かい、僕は「競泳用のパンツ」と「帽子(髪の毛が完全に見えないシリコン製だ)」と、タカの勧めで「スイミング・パドル」も買った。タオルは、家からバスタオルで済ませることにした(タカにセームを勧められたが、出費を抑えられるところは抑えておこうと思った)。
驚いたのが、タカはそれら一式を日本から持ってきていたことだった。
料金を支払うとそこには、広い五十メートルプールが一つと、少し向こうに室内の完全子度向けの二十五メートルプールが一つあり、シャワールーム兼着替えロッカーが十個ほど並んでいただけだった。
「どうしてここを知っていたの?」と、純粋にタカに聞いた。
「もともと、こっちに来てもプールで泳ぎこみたいと思っていたんよ。オーストラリアは水泳の強豪国だから、どんなものか知りたくてね。だから水泳用具一式持ってきて、パースで本気で泳げる場所を予め調べておいたんよ」と、彼は言った。
「そんなに本気で水泳をしたかったの?」と聞いてみた。
「まぁ、来年はここパースで世界水泳大会も行われるしね。やっぱり水泳は、今回の旅の目的の一つであったことには違いないよ」と、彼は優しい笑顔で僕に言った。
「で、ユーゴが教えてくれたのがここともう一つ。アイツも水泳部で、やっぱり泳ぐのが目的の一つだったみたいなんよ。結局アイツは、パースの方のプールで泳いでいるみたい。ともあれ、まず着替えましょうか?」と彼は言って、シャワールーム兼着替えロッカーに入っていった。
僕も入り、着慣れない面積が少なくタイトでピチピチな競泳用パンツを履いてキャップも被り、一通りシャワーも浴びた。
シャワールームから出るとタカは既に出終わっており、泳ぐ気満々だった。
「二千か……気が遠くなるなぁ」と、少々気が重くなりながら、タカと共にとても大きな五十メートルプールに向かった。
オーストラリアの強すぎる太陽に反射するプールの水面が眩しく、美しいプールの水が文字通りギラギラと光り輝いていた。
僕たちは丁度空いているレーンに入ると、入口の『Sports world』というお店で買った「スイミング・パドル(厳密には「TRAINING BLADE」と書いてあった)」の使い方を教えると言ってくれた。人差し指から薬指までパドルのゴムに両方の指を通し、両手ともまるで大きな水掻きになったようだった。

当時の「『Sports world』の袋」と「TRAINING BLADE」

 実はこれ、日本だと基本的にこういった公営のスイミングプールでは使用禁止なんだけど、そこはまぁ、流石オーストラリアって感じだ。
そもそも、入口に併設しているスポーツショップで売っているくらいだから、なかなか自由度が高い。
「これを付けて泳ぐと、手の平全体が水掻きになって掻きやすく早く泳げる分、負荷がかかる。でも、ある程度は負荷をかけて泳いでおかないと肺活量が身につかないから、最初の五十だけはこれをつけて泳ぐ所から始めるといい」
「じゃあ、あとはそのまま放ったらかし?」
「いやいや、いくら泳いだか判るように二つ並べるんだ」
「五十泳いだ毎に、右のパドルを一つだけ時計回りに回転させるんよ。そして、二百五十泳いだら一周するので、そこで左のパドルを右に一つだけ時計回りに回転させるんよ」と、彼は実際にパドルを右、下、左と回転させながら数を数えてみせてくれた。
「へー、すると今どれだけ泳いだか判るってことやね?」と、僕は確認した。
「そうそう。すると、両方のパドルが下を向いた時は千、両方のパドルが左向いたら千五百。一周したら千六百になるけど、千か千五百でリセットするのが水泳部員の基本かもしれんね。まぁ、回転のさせ方は人それぞれ違ったりするけどね」と、彼はいつもの笑顔で言った。
「まぁ、まずはそのスイミング・パドルをつけて泳ぐことになれることが先決。さぁ、泳いで泳いで」と彼は言いながら、彼自身も泳ぎたくてウズウズしていたのだろう。
 僕が泳ぎ始めると、左隣のレーンでタカが泳いで行くのがゴーグル越しに見えた。早い! それにとてもきれいなフォームだ!
彼の泳ぎにあっけを取られていると、地味に手につけているスイミング・パドルの負荷が体に効いてくる。片道終わってまだ五十メートル。
かなり太ったおばさんが泳いでいて、五十歳は過ぎたおじさんたち二人がそのおばさんを指さして、デブだデブが泳いでる。とゲラゲラ笑いながら話していた。
おばさんは気にすることなく泳ぎ続け、僕は「はぁはぁ」と息を切らせていた。
どこの世界にも陽気な人達はいるものだけど、あそこまでストレートに人の体型に対してゲラゲラ笑うのは文化の違いなのか、その人たちの神経の違いなのか、よく判らなかった(割とよく居て、いつもデブの女の人を指さしてゲラゲラ笑っていた)。
僕は一休みすると、復路の五十メートルに取り掛かった。
幸い、プールは足がつかないほど深い場所はなく、浜寺市営プールの方がレーンロープを引いてこそ無いがよほど深く、スパルタだと思った。
一往復終わると胸と脇辺りの筋肉が痛くなり、すぐにスイミング・パドルを外した。息は切れまくりだ。タカは今どこを泳いでいるかも判らない。
これを毎日二千も泳ぐなんて尋常じゃない!
とはいえ、タカがどこかで泳いでいるなら僕も休みながら、教えてもらった通りにパドルをどれだけ泳いだか判るように横に並べ、右のパドルを一つ右に倒した。
百は泳いだ。あとはこれを二十回繰り返すだけだと心に言い聞かせ、僕はプールサイドを再び蹴った。

ようやく二千を泳ぎ終わった時には溺れるかと思うほど疲れ切り、かなり時間が経っていた。タカは五千ほど泳ぎ、もっと早い人と争ってみたいと意気込んでいた。
僕は文字通りボロ雑巾みたいになりながらプールから上がり、『フリーマントル・アクアティック・センター』を後にした。
初めての日。すぐ側にある『フリーマントルパーク』の芝生がとても広く、青々と茂っていた。僕とタカは思わず反射的に『フリーマントルパーク』の芝生の上でゴロゴロと転がって、声を出して転げ回って遊んだ。
絶対に日本で目にすることの出来ない広い芝生で転がるのは、独特の心地よさだ。
犬の糞ももちろん無い(野良猫の糞までは判らないけど、どうやらなさそうだった)、芝生に入るのは禁止という看板も無い、文字通り自由な芝生。
夕暮れ時。
僕たちがいる場所は間違いなく『外国』にいることを全身で実感した瞬間だった。
数週間、そういった厳しい日々が続き、再びフリーマントルの病院で肺活量の再検査を行った。検査を行ってくれた女医さんの手元を見ると、左手でペンを持ってカルテを書いていたので、思わずその女医さんに「左利きなんですね」と聞いてしまった。
「そうなの。まぁ色々と不便だけど、昔からよ」と、彼女は言った。
「左利きには天才が沢山いるから凄いですね」と、カタコト極まりない英語で彼女に言った。
 すると、彼女は照れくさそうに「ありがとう」と言って顔を赤らめた。
「はい! ダイビングに問題ない肺活量になっているわ。大丈夫! 私もダイビングが大好きなんだけど、絶対にケアンズのグレートバリアリーフでダイビングすることをお勧めするわ。世界で最高の景色が見れるわよ」と、彼女はとても判り易い英語で僕に言った。
「ありがとうございます、覚えておきます。ケアンズのグレートバリアリーフですね?」
「そう! 本当に最高だから! あなたの一生の思い出に残るくらい綺麗よ」と、彼女は再び判り易い英語で快活に答え、ダイビングの書類に「問題なし」と書いた。
さて、これで厳しかったタカのプールトレーニングは終わるけれど、これから全く未開の地のスキューバーダイビングが始まるのだ。

この記事が参加している募集

率直に申し上げます。 もし、お金に余力がございましたら、遠慮なくこちらまで・・・。 ありがたく、キチンと無駄なく活動費に使わせて頂きます。 一つよしなに。