海の向こう側の街 Ep.03<夢の地へ>

 それなりに楽しかった仕事を辞めて、英語の「is/am/are」すら判らず、海外旅行もこれまで一度もしたことが無く、旅先に住む家も仕事のあても無いまま、家を出たのが「一九九七年十一月十日」。何を目的に海外に行くのか(来たのか、または行ったのか)と、出発前も滞在中も帰国後にもよく聞かれた。僕はその度に返答に非常に困った。例えば「○○を学びに行く」といった明快な答えではなかったからだ。僕は一つの目的では無かったので、その簡単な質問に、端的に答えられなかった。
 高校生の時に「単身で海外に向かい、そこで長期生活をしてみたい」という、この夢を持ち始めたのが『祖』だった。その『祖』を生み出した要因の一つの映画(洋画)は僕にとって、とても大きい要素の一つだった。映画の向こう側に映し出される全く馴染みの無い風景。その外国の風景を映画を通じて沢山観ていくと、僕は段々とその外国そのものを「この目と、鼻と、耳と、この肌でしっかりと感じてみたい」という気持ちが強くなっていった。なので、今海外の方々が日本のアニメを観ていて日本で暮らしたいと言う気持ちはとてもよくわかる。
今でいう『聖地巡礼』ではなく、映画で撮影した場所とかスタジオを見に行きたいというわけでもない。ただ、僕の目と鼻と耳と肌でしっかりと外国そのものを全身で感じ取りたいという強い気持ちが、今日まで日々僕を推し進めたのである。日本との文化の違い、人種の違う人たちとのコミュニケーションを、日本にある英会話学校の『ホーム』ではなく完全なる『アウェイ』で感じたかったのである。日本の文化はそこにはなく、外国人が生活をして日本語ではない言語が第一言語となる、僕にとって完全なる『アウェイ』でなければならなかった。

 当時の僕は、他に漏れず「外国=アメリカ」というステレオタイプな考えを持っていたが、ビザの関係や当時(現在も)相次いだ射殺事件の報道でアメリカという国に対してかなり弱腰になり、一時は夢を諦めようとしていた事もあった。ある日、友人からワーキング・ホリデー・ビザの存在を知り、本屋に向かい目に付いた本を買ってこのビザについて調べた。(現在のようにグーグルで検索をかけるとジャラジャラと欲しい情報が容易に出る時代ではなかった)結果『カナダ』『オーストラリア』『ニュージーランド』の三ヶ国(当時は)がこのビザを受け入れており、七十万円以上の自由に使えるお金があるという証明があれば、一年間は現地で働くことも出来るし家を借りて住むことも出入国も自由だと判った。
となると、目指す国は必然的に『カナダ』『ニュージーランド』『オーストラリア』の三つに絞られた。
『カナダ』は、地理的に冬は半端なく寒いのは明白だったし、当時は今ほど銃規制がしっかりと強化されていなかったので、銃犯罪のニュースはアメリカほどではないがそれなりに報道されていたので、選択肢から外れた。
『ニュージーランド』は、羊をメインとした酪農と畜産、あとはラグビーの「オールブラックス」。あいにくラグビーにも酪農や畜産にも興味がなく、それほど僕の興味をそそるものは残念ながら見当たらなかった。
『オーストラリア』は「海が綺麗」「壮大な自然」「コアラとカンガルー等、愛くるしい動物たち」「年中暖かそう」「治安が悪い噂を聞かない」となれば、選択肢は自動的に『オーストラリア』の一択となった。

 次に重要な「住む都市」の決定も容易だった。先駆者の体験記のような本を一通り読んでみた。
『シドニー』にはテレビでよく見た、かの有名な「オペラハウス」があるということは知っていたが、その本には「かなり日本人が多い」と書いてあった。それも一件だけではなく『シドニー』を訪れた先駆者の体験記には十中八九「日本人が多い」と書かれていた。そこまで書かれると流石に行く気が失せてしまい、僕は『シドニー』を今回の旅で住む街として選択肢から外すことにした。他に『ケアンズ』『ブリスベン』『メルボルン』『アデレード』『タスマニア』『パース』と一通り、オーストラリアの主要都市の情報にしっかりと目を通してみると、一つ都市が僕の目を一際引いた。
地図的に、一つだけかなり離れたところにある『パース』と言う都市だった。そこには「物価が安い」「思っていたより日本人が多い」と書いてあった。僕は全く英語ができなかったし、物価が安ければ貯金も減りにくい。日本人が多いのであれば、どうしても困った時(生命の存続や入出国について)には、なんとか駆け込む場所くらいはあるだろうと考えた。
今でもうまく言葉で表すことが出来ないけれど『シドニー』も『ケアンズ』も『アデレード』もいずれも素敵な都市だなと思ったし、治安的にもさほど差は無いだろう。物価が安いと言ってもこちらもさほど驚く程の差は無いだろう。どの土地でも長期滞在が許されるし「外国をこの目で、この肌で感じたい」それが英語圏で出来れば極端に言えばどこの都市でもよかった。
僕はオーストラリアの最西の『パース』という、どちらかというとポツンと孤立し目立たない街の小さな写真に、何故か強く引き寄せられるものがあった。特段、有名なテーマパークも無ければ『パース』の観光名所もその当時は、今ほどは日本では知れていなかった。(当時「T- SQUARE」の「TRUTH」でジャケットになっている『ウェーブロック』ぐらいしか僕にはわからなかった。)ただ、なんの躊躇もなくその街に呼び寄せられるかのように、僕は『パース』へ向かうことに決めた。

 僕は、機内にある目新しい物を手当たり次第、手にとって眺めていると、キャビンアテンダントの方が飲み物を聞きに回って来た。日本~香港間では、発音が悪かったのか英語では別の言い方なのか判らなかったが、とにかく「アイスレモンティー」が伝わらなかった。結果、僕が口にしたのは、さほど飲みたくもない「オレンジジュース」だった。さて、迎える第二ラウンド。今回こそ「アイスレモンティー」を注文してみよう思った。キャビンアテンダントの方が僕のそばに来ると、前回の反省を元に今回は「レモン」を取り除き「アイスティー」と言うと、なぜか素直に伝わった。
「イングリッシュorジャパニーズ?」と聞かれ「イングリッシュ」と答えると「OK」との返答された。
 お、これで念願?の「アイスティー」を獲得出来たと思ったのも束の間、目の前に出てきたのは「ホットレモンティー」だった。
『確実にアイスティーって言ったよな?』と少し頭にきたが、たかだか紅茶を頼むだけでこんなに苦労したのは初めての経験だったし、ホットだが
暫くすればいずれ温度が下がり、少しずつだが目的の「アイスティー」とまではいかないが、かなり近いものを手に入れることができる。
 そう自分自身に極力プラス思考で考えるようにつとめていると何故か納得でき、寧ろこの編拍子なやりとりが楽しくなってきていた。
隣の『ジェフ・ゴールドブラム』に目をやると、彼は男らしく「スコッチのショット」を頼んでいた。たしか気圧の関係で飛行機内でお酒を飲むと、かなり酔いやすいと聞いたことがあったけれど、彼はよほどお酒に強いのか、結局着陸するまでに十五杯以上「スコッチのショット」をガブガブ飲んでいた。(あまりに飲むから僕は途中で数えるのをやめた。)
 嬉しさと緊張も相まって、意味もなく周りを見渡していた時に、座席の目の前にある「映画の予定表」を見つけそれを眺めた。思っていたより新しい映画が沢山あり、日本では近日上映する『メン・イン・ブラック』が、今からあと一~二分で始まることを運良く見つけた。もちろん日本語字幕つきで、無料で最新の映画が観られるのだからこんな嬉しいことはないと、大急ぎでチャンネルを合わせイヤホンの準備やらをしているうちに、機内食が運ばれ始めた。
 機内食のやり取りは生まれて初めてだった(僕にとっては第三ラウンドだ)。今回も意思と違った物を口にするハメになったらどうしようかと不安で一杯だったが、実際の質問は至って簡素なものだった。
「チキンorビーフ?」とテレビでよく聞く通り、本当にこの二択だけだった。
 流石にこれは僕でも判ったので、自信を持ってビーフと言った。まるで「正解!」と言われ「ビーフを使った機内食(お弁当みたいなものだった)」が景品のように僕の目の前にポンと置かれた。(こうも簡単に手に入ると、不思議なものでどこか物足りない感じもした。)
「やった!」と、自分が口にしたいものを獲得することが、こんなに難しいものかと痛感したけどだったらなぜ「アイスティー」があれほど通じないのかと、逆に考えるとわけがわからなくなった。
 その時、僕は小さな目標を立てた。
『せめて、帰国の時にはどんな質問でも百パーセント希望通りの物を獲得出来るようになろう』と。
 ともあれ早速、プラスチック製のナイフとフォークを持って『メン・イン・ブラック』を見ていると、映画をある程度観ていてから判ったのだが、この映画はゴキブリが沢山出てくる内容だった。そうと判るとうんざりし、さっさと食事を済ませ、胃の中に収めるものはしっかり収めてから映画鑑賞を続けた。

 その後、夕食にあたる二度目の機内食を食べ、この閉鎖空間に慣れ始め、のんびりと寛いでいると、オーストラリアに入国する為に必要であろうカードをキャビンアテンダントの方々が乗客全員に配り始めた。注意深く見ていると彼女たちはカードを配る際に何かを質問しながら、カードを配っていた。その光景を観察していた結果、カードには何種類かあって、加えて一枚の人や二枚の人がいるということはなんとなくわかった。
出国時も関空で、日本人と外国の人とは記入する書類が違っていたので、およそ推測ではあるが、オーストラリアに入国する際もオーストラリア人と外国の人とではカードの種類が違うのだろうと想像した。
 これも当然といえば当然なのだが、質問事項は全て英語で書かれてあり、僕も英語でこのカードに記入しなくてはならない。
さて困った。この時代には今のようなスマートフォンもなければ、手元に辞書は無い(関空で渡した旅行鞄の中にはある)。
為す術もなく、ほぼ諦めた状態でいるとあっという間に僕の番になり、白人のキャビンアテンダントの方が、英語がさっぱりわからない僕に流暢な英語で質問している。
『駄目だ、本当に彼女が僕に何を言っているのか全くわからない!』
 色々と考えてみた結果、とりあえず「アイアムジャパニーズ」とだけ言ってみた。恐らくさっきの僕の推測が合っていると「オーストラリア人」か「そうでないか」だけでも彼女に伝えると、僕に渡すカードはどれかぐらいはわかる筈だ。
「英語はわかりますか?」と彼女はとても聞き取りやすく、しかもゆっくりとした英語で僕に聞いた。
 僕は、素直にしっかりと「ノー」と答えると、同様に「日本人のスタッフがいるから待っていてください」とわかりやすい英語で僕に言って、彼女はその場を離れた。
「なんだ、だったらもっと早く言ってよ」と安心したが、まだ彼女がそう言ったという確信はどこにも無かった。
『おそらく、彼女はそう言ったんだろう』という、推測の域をギリギリ出ないラインだった。まぁ、(きっと)事は良い方に進んでいるみたいだし「このまま、しばらく待つか・・・」というか、せめてプラス思考で僕は待つしか出来なかった。きっと事がうまく行くんだと勝手に納得しながら、その日本人スタッフが来るのを待った。
周りの大半は、全て書き終わっている状態で、隣の『ジェフ・ゴールドブラム』に目をやると、彼はまた「スコッチのショット」を頼んで口にしていた。しばらくすると、さっきの外国人のキャビンアテンダントと日本人のキャビンアテンダントの合計二人で僕の席にやって来て別の場所に案内された。僕は『ジェフ・ゴールドブラム』に笑顔で「Sorry.」と言って彼の前を通り、機内の丁度真ん中辺りの右側の誰も座っていない、窓際の座席に案内された。そして、さっきの外国人のキャビンアテンダントは丁寧に僕に頭を下げて、ニコリとした笑顔でその場を去った。
「入国カードでお困りですか?」と、日本人キャビンアテンダントの方が左隣に座り、僕の顔を見て言った。
 この閉鎖空間の隣の席に、日本人の女性キャビンアテンダントがいるというシチュエーションが(もちろん下心は一切無い状態で)、何とも言い難いほどの安堵感に包まれ、僕のこわばりきっていた緊張感を一気に融解した。
「ほんま助かります! もう何がなんだか全くわからなくて」
「ひょっとして、大阪の方ですか?」と、彼女は僕のイントネーションで気がついた。
「はい、そうです。生まれも育ちもずっと大阪なんです」と僕は言った。
「私も大阪なんです、私は本町の出身なんですよ」彼女はとても嬉しそうに僕に言った。
 僕は、以前の職場の関係から、本町には詳しかったので上空一万メートル付近で、本町の美味しい焼き鳥屋や中華料理店などのローカルな話に花が咲いた。しばらく話し込んだあと、彼女は本題のさっきのカードの記入方法について説明を始めた。
「到着が近くなると、機内でこの『税関申告書』と『出入国カード』が配られ、みなさんに記入して頂く事になっています。どちらも入国の際の入国審査に必要な書類なので、記載されている内容をご説明しますね。といっても着陸にはまだまだ時間があるので安心してください」と彼女は言って僕に一本のペンを差し出した。
「ここは記入しない方が良いです、色々止められて聞かれますからあえて空白にしてください」
「ここは、こう書いた方が無難なんです、国内にお菓子とか持ち込んでも目の前でパッケージとか普通に破って開けて確認する国ですから」
 と言った感じであれこれと、再び生きたアドバイスを親切に事細かく僕に教えてくれた。
僕は彼女に質問され、言われるがまま『税関申告書』と『出入国カード』に次々に記入していった。
二枚のカードに全て書き終わると、彼女はスクッと座席から立ち上がり、「この先二枚のカードは絶対になくさないようにしてくださいね」と言って、僕の本来の座席にまで丁寧に案内してくれた。
 彼女は本来の自分の持ち場に戻る際、僕は彼女に心から深くお礼を言った。きっと彼女がいなければとても入国に時間がかかっただろうし、下手をすれば入国すらできなかったかもしれないと思うと、感謝の念で一杯になった。
無事、二枚のカードに記入を終えて安心していると何故か、時間的には「夜食」にあたる三食目の機内食が運ばれてきた。今回はチキンかビーフか選択することなく、ただ淡々と目の前に一つづつ手渡されていった。
「機内食でも『夜食』ってあるんだな・・・」と思いながら、それを口にしていると突然、機内の主な明かりが消えシートベルト着用のアナウンスが流れ始めた。
 窓に目を向けると、パースの街明かりがちらほらと遠くに見え始め、いよいよ着陸の時が訪れようとしていた。急いで僕は『夜食』を口の中に放り込むと、胸が躍るのと同時に「飛行機の離着陸時に一番事故が多い」という話を思い出してしまった。
どうして、こんなタイミングで思い出すんだと自分自身に怒りを覚えつつも、不安になってきている自分に気がついた。
すると、僕をあざ笑うかのように、飛行機が何度か右に左に大きく揺れ始めた。あまりの大きな揺れからか機内がちょっとした騒ぎになり、まるで墜落事故の再現ドラマのワンシーンのように思えた。
 騒ぎもどんどん大きくなり、僕はかなり肝を冷やしている中、機内放送で機長と思わしき男性がアナウンスを言っているがもちろん何を言っているかさっぱり判らなかった。
機内のざわつきが一旦収まり、大きな振動が複数回あったあと機内で大きな歓声が湧いた。よくわからないけど、歓声から察するにどうやらこの飛行機は無事に着陸ができたとわかった。
すると僕は、思わず無意識に「Touchdown.」とポツリと独り言を口にした。
 この約八時間、今まで一度も会話をしなかった『ジェフ・ゴールドブラム』が僕の発した言葉を耳にして、ゲラゲラと大声で笑いながら安全ベルトを外していた。彼はそのまま笑い続け、手荷物を降ろしながらとても陽気な笑顔で僕に話しかけてきた。
当然、僕は彼が何を言っているのか全くわからなかったので、とりあえず無難に作戦通りに笑顔で頷くと、彼は手荷物を下ろし終わり座席から離れようとする際、突然僕に握手を求めてきた。
僕は『ジェフ・ゴールドブラム』からの握手に応えると、なにやら英語で僕に二、三言言って、彼は笑いながら荷物を手にしてそのまま飛行機から降りていった。
「Touchdown.」のどこが彼のツボに入ったのか、僕は皆目検討もつかなかったが、ともあれ僕は彼に悪い印象を与えていなかったようで、本当にとても嬉しかったし、もしも仮に本物の『ジェフ・ゴールドブラム』だったら、貴重な握手をしてもらえたわけだ。(もちろん本物じゃないと思う)
 後にインターネットを調べてわかったことなのだが『パース国際空港(現:パース空港)』は、立地している場所と周りの地形の関係上から、低層大気の乱流が頻発する空港で、一九九九年に少し大きな事故があり、それをきっかけに空港周辺の気象監視システムの改善努力がされたそうだ。
(この時は一九九七年なので、改善前だった事もあり大きく揺れた)
 僕も遅ればせながら座り慣れた座席から立ち上がり、今度の『パース国際空港』は『パッセンジャー・ボーディング・ブリッジ』で飛行機を降り、飛行機の乗客の流れの後を追って、僕は入国審査所にたどり着いた。

 入国審査所には沢山の人が並び、いつになれば自分の番が来るのか気が遠くなりそうになりながら自分の番をおとなしく待った。
漸く僕の番が訪れ、審査官が何か質問してきたので、前もって日本人キャビンアテンダントの方から教えてもらっていた「Sightseeing.」という呪文を審査官の質問の意味もわからずに唱えると、審査官は僕のパスポートにスタンプを押し「Good Luck !!」と笑顔で言った。
「いや、本当に此処から先はグッドラックだよな。この先一年間は何があるか判らないものな」と納得しながら旅行鞄が流れるベルトコンベアに向かった。
 いくつもの荷物が、クルクルとまるで回転寿司のように廻り続けるベルトコンベアをしつこく見つめていると、キャセイパシフィックの窓口で預けた僕の「微妙に重たい旅行鞄」を見つけた。しかし、出国時に友人から貰ったキーホルダーが鞄から無くなっていたので、きっとフラフラするキーホルダーは鍵のないチャックで開け締め出来るこの鞄の中に入れられたのかと思った。僕は、友人からもらったキーホルダーを探すべくチャックを開けて鞄の中を調べていると、警察官らしき男が僕のそばにやって来た。
「その鞄の中を見せろ」と唐突に言われた。
 彼の言っていることは、英語が全くできない僕でもハッキリとわかった。
自分には微塵もやましい事は一切無いし、ここで逆らう必要も無いので堂々と胸を張って素直に鞄の中を見せることにした。
僕の目の前で、折角キチンと整頓してあった鞄の中身がその警察官らしき男の手によって乱暴に荒らされ、彼はある程度気がすむと鞄のチャックを閉めることもせずに「ここで鞄を開けるな」とかなり強い口調で注意された。
僕も空港のルールも知らず、不注意で鞄を開けてしまったのは申し訳なかったが、ここまで鞄とその中にしまわれていた荷物が杜撰な扱いを受ける程の事をされる筋合いはないと思った。なので、不愉快な気持ちになった僕は次に向かうべき窓口が判らなかったので、警察官らしき男に謝るついでに杜撰な英語で「Next Where ?」とぶっきらぼうな口調で聞いた。そのまま立ち去らせずに、せめて僅かながらもこの男に一仕事増やしてやろうと思ったのだ。
警察官らしき男は、僕の質問に相変わらず無愛想ながらも、なにやら丁寧に教えてくれているのか想像より長めの返答が帰ってきた。
彼の言っていることは全く判らなかったが、彼が最初に指を指した方は気が遠くなるほどの長い行列で、もう一方を指した方はなぜかガラガラに空いていた。どうやら行くべき方向は二つあるらしいのは判ったが、とりあえず初めての長旅とさっきの入国審査の行列でかなり疲れていたので、教えてくれたその二種類のゲートにはきっと何かしら理由があるとはなんとなくわかっていたが、単純に面倒くさいと言う理由だけでガラガラの方を僕は選んだ。
 ガラガラの方に着くと、関空から出国した時と同じで、ポケットの中身をカゴに入れ「微妙に重たい旅行鞄」はX線のカメラのあるベルトコンベアに乗せられた。そこは『検問所』ではなく『セキュリティーチェック』だった。
ただ関空と違うのは、その映像が僕にも見えるようになっている所だった。
海外の物騒な夜のお供にと持ってきたTVゲーム機の『セガサターン(厳密にはハイサターンだ)』と、モバイルツールとして持ってきた『パワーザウルス MI-506DC』の基盤が映し出されている事に感動していると、検査官は血相を変えて、すぐさま「微妙に重たい旅行鞄」を開け中身を確認し始め、厳しい目つきで僕に質問をしてきた。
「これは何だ?」と『パワーザウルス MI-506DC』を指して、彼は聞いた。
「Mobile Tool」と端的に僕は答えた。
「じゃあ、これは何だ?」と物凄く訝しげな顔をして『セガサターン』を指さして訪ねてきた。
「TV game machine.」と僕は、なんとか知っている英語でそのまま答えた。
「この束になっているものは?」とディスクケースを強く指差し、彼はやや息を荒くして僕に聞いた。
「Game soft for it.」と、ゲーム機本体を指さして言った。
 検査官は矢継ぎ早に質問攻めをしていたが、きっと彼はもっと悪いことに使う機械とか、持ち込むのに特別な許可がいる物だと思ったんだろう。
確かに海外旅行で『セガサターン』とゲームソフトを三十枚も持ってくる酔狂な奴はなかなかいないだろうなと、この時は流石に自分自身でも思った。
ここまでくると検査官も流石に呆れながら、最後に「これは何?」とカゴから一つのものを取り出して僕に聞いた。
それは、関空で買ったのは良いが緊張しすぎて、飲むことが出来ずジャンパーのポケットに掘り込んでおいたままになっていた『BOSSの缶コーヒー』だった。僕はそのまま「Can coffee」と言いながら、腰に手を当ててお風呂でコーヒー牛乳を飲むボディランゲージをする。彼は缶コーヒーをカゴに「こいつとは付き合ってられん」と言わんばかりに雑に投げ入れると、僕の顔をろくに見ないまま「行って良し」と、ボディランゲージで親指で出口の方をクイっクイっと指した。
 この時に自分自身でも「なんて無駄なものばかり持ってきているんだろう?」と情けなくなった。
僕は自分の全ての荷物をなんとか持ってその場を後にし、人通りの邪魔にならないそれなりに人がいる離れた所で、再び散らかされた荷物を「微妙に重たい旅行鞄」の中にせっせと整えた。
「出国準備をしている時は全く何も思わなかったのに、オーストラリアについてからどうして僕は『セガサターン』とゲームソフトを三十枚も持って来たんだろうか? もっと持ってこないといけないものがあったように思うけどでもそれが何かは判らない、なんだろう?」と考えながら、漸くここで全ての手続きが終わった事に気がついた。
鞄の整理が全て整ったこの瞬間、ようやく僕の『夢』が始まった。
ここから一年間は、何時に寝ようが何の仕事をしようが、どこに住もうが法律を侵さず、他人に迷惑をかけない限りは全て僕の自由だ。
しかし、自由を手に入れたのと同時に全ての責任は当然僕自身になる。
気を引き締めて、心の底から溢れ出る喜びを噛み締めながら、僕は『パース国際空港(現:パース空港)』全体を見渡した。

 今、僕が立っている「この場所」が、
僕が長い間見続けてきた『夢の地の始まりの場所』そのものなのだ。

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