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海の向こう側の街 Ep.00<Overture>

 ジェットエンジンが轟音を立てて、機体が大きく右に旋回する。
世界で一番美しい街並みが、旅客機の窓から斜めに傾いてゆっくりと現れる。
パースの街が、僕たちに別れを告げるように見えた。窓側に座っていた妻は「パースの街がどんどん小さくなっていく」と呟く。
 飛行機が徐々に高度を上げていくと瞬く間に、街は小さくなり雲の中に溶けるように消えていった。
妻は、目に焼き付けるように、窓の向こうの街並みを眺めていた。一つ、二つと大粒の涙を零し、彼女は静かに取り出したハンカチで涙を拭った。

 一九九七年十一月十日、僕はオーストラリアの西オーストラリア州にある『パース』という街に向かうべく一人、旅に出た。
 当時は、スマートフォンもなく、今ほどインターネットが進歩していない。SNSもなく、アマゾンも日本にはまだない。
携帯電話が徐々に普及し始め、PHSが価格と利便性から数多く支持されていた。Windowsはまだ95で、フロッピーディスクでインストールすることもそれほど珍しいことではなかった。Officeは97だったが、期待に反してバグが多く購入者は使いこなすのに苦労していた。Apple社は今とは全く異なり、そろそろ倒産するのではと日々噂され、デザイン関係の企業でひっそりと利用される程度の普及率だった。
そんな時代に僕は二十四歳で日本を出発し、全く知らないパースという地で二十五歳のほとんどを過ごし、約一年間の滞在を経て、ジャッキー・チェンのポリス・ストーリーに憧れ、香港に立ち寄り二泊三日の観光した後に一年後の同じ日となる、一九九八年十一月十日に帰国した。
 出国してたったの一年間で、ガラリと様変わりした日本に慣れないまま、あっという間に年越しを迎え、テレビの中では僕の知らない一九九八年のニュースをさも懐かしそうに振り返っていた。
 翌、一九九九年の一月から、友人から借りた借金を一日も早く返す為に仕事を早急に探し始め、再び改めてシン・サラリーマンとして働き始めた。
それから、止まることなく働き続け、不況だ不況だと騒がれている中、技術職だった事から幸いに仕事にも恵まれた。
その分、目まぐるしい日々を過ごし、あれよあれよと時が過ぎていった。
柄にもなく恋人ができ、恋に落ち、結婚した。
子どもにも恵まれ、元気な男の子と、愛らしい女の子の父親となった。
転職し、自分の家を持ち、時々体調を崩したりもしたが、自分の家族と喜怒哀楽を共に過ごせる事に幸せを感じていた。毎日は慌ただしくもあり、ゆったりした時間の流れの中で、僕はごく普通と言われる一般的な生活を送っていた。
すっかり日本に馴染みきり、パースで過ごした日々は綺麗さっぱりに忘れて、そんなことより子どもたちの学校のイベントや、今後の会社での動き方を考えて過ごす日々が当たり前になっていた。

 毎晩、眠る前にKindleで本を読んで眠くなったら寝るという習慣になっており、その日は村上春樹さんの『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』を読了した。そのまま続けて村上春樹さんの『スプートニクの恋人』を読むか、アーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』を読むか。いずれにしてもしっかりとした骨のある純文学なので、読む側にも多少なりとも体力と精神力が必要だなと悩んでいるうちに眠りについた。 ある日、若林正恭さんの『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』という旅行記を見つけた。厳密には、彼らオードリーのラジオでこの作品が文庫本でリリースされることを聴いて知った。旅行記といえば、沢木耕太郎さんの『深夜特急』と村上春樹さんの『遠い太鼓』ぐらいしか記憶にない。丁度、肩の力を程よく抜いて読めるものが欲しいと思っていたタイミングでもあったので、これを機会に久しぶりに純文学ではなく軽めの旅行記を読むことにした。
なによりタイトルが良い。
『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』だ。
もうそれだけで、ワクワクさせる。なんともセンスが溢れるタイトルだ。
ラジオはよく聞いていたので、内容はキューバやモンゴル、そしてアイスランドといった目的地としてなかなか選択しにくい国に加え、コロナ禍の日本についても新たに追記されている事はあらかじめ知っていた。
内容はとても読みやすく、実にフレッシュで、且つ読み手を退屈させない切り口で読んでいて、どこか少し懐かしい気分になった。
小刻みではあるが、毎晩読んでいると、まるで若林さんの隣に歩いて共に旅をしているような気分になれた。毎夜、ワクワクしながら彼と共に旅を続ける日々がしばらく続いた。
しかしながら、旅には必ず終りが訪れる。
達成したい夢であっても、愛する人と歩む人生にしても必ず終わりはある。
終わりなき旅は、残念ながらこの世には基本的には存在しない。
寝室のベッドで『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読み終わると、僕はポツンと一人、孤独になったような気がした。
『そういや、これによく似た経験をしたことがあるな』と思いながら天井を眺め、静かに目を瞑る。
ぽたぽたと水滴が布の上に落ち、水が布切れに染み渡るかのように、一九九七年十一月十日から約一年間、僕は若林さんに勝るとも劣らない、貴重な経験を沢山してきた事を思い出し始めた。真っ暗な記憶の一番深い底に潜って、目の前を泳ぐ人懐っこい深海魚を手で追い払いながら、せっせと僕は海底の砂を必死で掻き分ける。
 時間がある時は、インド洋に沈む太陽を待ち、浜辺の側のテーブルでマックシェイクを飲みながら小説を執筆し続けた。鍋とフライパンが頭を出しているリュックを背負い、十二弦ギターが入ったハードケースを握ったままヘイ・ストリートを走り回って、今日中に宿泊出来る安宿を血眼になって探した。そんな毎日が慌ただしく新鮮に送っていたあの日々を思い出し始めると、急に胸が熱くなった。
感情が大きく揺さぶられ、大きく自分の人生をどこか少しだけ変えようと勘案し、いくら冷静に考えようとしても、心身共にその衝動を抑える事ができなかった。
 その週末、散らかりきった娘の部屋を掃除し、当時の日記やメモや旅先で貰ったリーフレット等、思い出の品々を纏めていた袋を探し出した。
一通り読み返すと、いつの頃からか日々に忙殺され、とっくに忘れていたあの旅の記憶が頭の中に鮮明に蘇った。
懐かしさに耽りながらも、そのまま書斎に向かい、パソコンを起動し、グーグルマップのストリートビューで思い出の地をあれこれと訪ねてみた。
多くの時が流れても、変わらずそのままの場所もあれば、全くガラリと変わっている場所もあり、閲覧する度に驚きと懐かしさの連続だったが、概ね「あの街はあの街のまま」だった。
今も変わらず、あの頃と同じ『世界で一番美しい街』だった。
当時は、全く意識すらしなかった観光地や店舗の正式名称や、僕にとって思い出の超ローカルなお店や場所の位置関係など、今なら自宅に居ながらインターネットで簡単に正確に確認することに改めて感嘆の声を漏らした。
もし、旅を終えた直後、または比較的早い時期に旅行記として書き上げていれば、きっと地名も不正確で地形的にも勘違えた状態でそれに気が付かないままだっただろう。
なにより、今ほどきちんとしたモノを書く執筆力が無かったので、仮に書き終えていても完成度はかなり低い物が出来たか、どれもこれも貴重な経験で分別がつけられず残念ながら未完に終わっていたかと思う。

 今、僕の目の前には、当時の写真やメモと数多くの思い出の品々と、何よりも大切な、あの時の新鮮で強烈だった記憶を書き留めた【デジタルの日記】がしっかりとハードディスクに運良く残っていた。
そして、現在はテクノロジーが格段に進化したおかげで、不明瞭な部分を簡単に調べて正確に補うことが出来る。加えて、あの時の友人たちの何人かは引き続きFacebookでまだ良好な関係のままだ。
『今の自分なら、書けるかもしれない』
ほんの少し僕の心が動いた。
その時、直ぐ側にいた妻が、まるで心の動きを見抜いたかのように「少しずつでも何か書いて一つに纏めてみたら?」と背中を押した。
僕は、旅に出ることに決めた。
頭の中の時計をグルグルと『一九九七年十一月十日』に巻き戻す。
今日まで学んだ様々な知識と技術を使ってあの時に時間を戻し、そこで起こった出来事とその時に感じた感情を来るだけ正確に文字に書き起こす。
この特殊な旅は、僕一人しか旅立つことしか出来ないし、いつに終わるかも判らない。
だが、最後まで時系列を揃えてキチンと文字に書き起こせば、背中を押してくれた妻も少し遅れた形にはなるが、僕のこの旅を追体験することが出来る。
そして、少なからず片手間な気持ちではなく「note」という不特定多数の読者がいる場で、真正面から真剣にこの特殊な旅に向き合うことを決意した。
きっと、自分の中でくすぶっていたものが若林さん旅行記で着火し、僕の人生において最も貴重な経験をキチンとした一つの形にするよい機会だ。
僕は、約二十三年ぶりに再び旅に出る事になった。
一九九七年十一月十日。
あの世界で一番美しい街、オーストラリアの『パース』に向かって。
再び、僕は一人で旅に出る。


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