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海の向こう側の街 Ep.06<ガラス越しの街>

 いつもの僕の家で両親とくだらない話をする。
父の突飛な性格から取った行動のことなど、母が僕におもしろおかしく話す。
父が照れながら笑ってごまかし、それを聞いて弟も笑っている。
テレビには、いつも見ているバラエティ番組が映し出されている。
時計を見ると十一時三十五分頃を指している。
我が家でよくある、他愛も無い当たり前のいつもの日常。
母の話も切りがよくなり、夜もかなり更けてきたので僕は家族に「おやすみ」と言って自室に入り、マットレスの無い硬いベッド(何故かその硬さが気に入っていた)で床に就く。
親もテレビの音量を落とし、口数を減らしていく。
部屋の明かりを消すと何も見えなくなり、耳栓を両耳にしっかり詰めると何も聞こえなくなり、体が静かにベッドに沈んでいき徐々に意識が遠ざかっていく。
美しいまでの漆黒の中、完全なる静寂。
暫くの間、無音の時を過ごすと、意識を少しずつ取り戻していく。
耳に届く音のボリュームが徐々に大きくなっていくと、修学旅行時のよくあるあの独特な朝の騒がしさで目が覚めた。
鼻をつく靴下の汗臭い匂い、複数の聞き慣れない言語が飛び交っている。
『どこだ、ここは?』
 戸惑いの朝を迎えた。
僕はどこで目を覚ましたのか全く理解できなかった。
意識がハッキリとしていくと、自分は日本(住み慣れた実家)を飛び出し、南半球のオーストラリアへ向かった事を思い出し、続け様に昨晩までの一連の出来事が走馬灯のように全てを思い出した。そこは紛れも無く、あの十人の相部屋のベッドの中だったが、昨晩のような殺伐とした空気だけは一切無かった。
周りを見渡すと、大きく開かれた二枚窓から燦然と輝く目を刺すような明るい青空が広がり、心なしかほのかに太陽の暖かさを感じた。
『夢を見ていたのか、それともこっちが夢なのか……』
 頭の中で昨晩の出来事がこれまでの現実なのか(出来ればこっちの方が夢であって欲しいと強く思った)、目の前に広がる光景が現実なのか、これまで経験したことの無い強い混乱に襲われた。
このベッドに潜り込んで、目を瞑った時にそのまま旅の疲れもあり眠ってしまったのだろう。そして、これまで日本で過ごしてきた僕にとってごく当たり前の日常生活を夢で見た後に目を覚ました事が、より一層僕を混乱させた。
そもそも、一晩中起きているつもりでいたにも関わらず、知らない間に眠った事そのものにも驚いた(慣れない経験の連続が心身ともに疲労していたんだと身をもって知った)。
 目の前の見慣れない光景をぼんやりと眺めていた時、サーフボードを抱えたティーンエイジャーらしき白人の青年が僕のベッドを覗き込み、彼と目が合った。
「!」
 これまでの人生で、目を覚ましてすぐに目の前にサーフボードを抱えた白人青年と目が合う経験なんて人生に何回あるだろうか?
僕は一瞬、どうして良いのか判らなかった。特にやましいことをしていないにも関わらず、僕の体に緊張が走った(昨晩のユースホステル前の物騒な空気がまだ体にしっかりと残っており、タチの悪いことに巻き込まれませんようにと瞬時に祈った)。
「Good morning!」
 青年は、とても元気よく満面の笑みで僕にあいさつをしてくれた。
あまりに突然のことであったことと、僕の覚悟していた内容とは大きく乖離していたので一体どう対応すれば良いのか判らなかった。
彼は僕のその姿を見て「まだ寝ぼけてんな、おまえ」といった感じで僕に言った(もちろん英語だ)あと、ゲラゲラと楽しげに笑った。
彼は続けて、僕に陽気に何かを言った後、実に楽しげにサーフボードを抱えて部屋から出て行った。
 僕が返さなければならなかった返答は至極簡単で彼の目を見て笑顔で、
「Good morning.」と、応えるだけだったことを彼が部屋をさって、六拍ほど遅れてからようやく気がつく。
それは、本来なら何も考えることなく無意識で、家族はもちろん友人や他人ともするごく普通の挨拶だ。
ただ、混乱と緊張からそんな簡単な挨拶すらできない自分が情けなく思えた。
同時に、自分の置かれたシチュエーションを理解することができた。
ここは、あの物騒な街の中に建つ「ユースホステル」の、あの「ダブル」でも「ツイン」でもない「ドミトリー(相部屋)」だった。
 しっかりと我に返ると、僕はすぐに首からかけていた「GTホーキンスのパスポートケース」を確認した。
『大丈夫だ』
ちゃんと首からかかって、僕のTシャツの内側にあった。
念の為、一度横になって再び布団に潜るフリをして、コッソリと中にパスポートと現金があるかきちんと確認した。
こちらも全て無事だった。

 初めての海外で迎えた朝。
両手からこぼれ落ちるほどの驚きが溢れかえると、昨晩のような緊張の汗なんて全くかかなかった。ただ、自分でも判るほどこの部屋にいる人に対して(目覚めたのが遅かったので、もう部屋には僕を除いて二人しかいない)過剰に警戒していた。
しかし、どのくらい警戒すれば妥当なのかその丁度いい程度がまだ判らない。
こればっかりは経験で掴むしかないのだろうが、これは慣れるまではかなり心身ともに疲れる。
まぁ、とりあえず「旅慣れしていますよ」という顔をして、身支度をしなければとは思ったが、昨晩は服を着たまま眠ったので、部屋着からではなく普段着から普段着に服を着替えた。
そのまま、忘れ物がないか確認をして「微妙に重たい旅行鞄」と共に「十人の相部屋」を後にした。
まず、今の僕に必要なことは「シングル・ルーム」に変更してもらうことが何よりも最優先だ。僕は昨晩の記憶を頼りに『イーストウッド』が乗りこなしていた、今ひとつ信用のおけない例の旧式なエレベーターは使わず、堅実に階段で一階のレセプションに向かった。
レセプションにたどり着くと、昨晩とは大きく異なり、女性二人と男性一人の計三人程のスタッフがチェックアウトの対応で慌ただしく対応し続けていた。
残念ながら、そこには『イーストウッド』の姿はなかった。
僕は特段急ぐ内容ではないので、邪魔にならないよう少し距離を置いて彼らの業務が落ち着くのを静かに待った。
手続きを行う彼らも、チェックアウトするバックパッカーにとっても邪魔にならないところで待っていた方が双方にとって良いだろう。
僕は、出来る限りは彼らの会話に耳を傾けて英語を聞き取ろうとしたが、全く一球も拾う事が出来なかった。それはまるで、プロのピアニストが素早く奏でる巧みな音色を聴いて、僕はそのピアノの音色をそのまま素早く五線譜の上にせっせと音符を同じ速度で書き込んでいくようなものだった。
到底、およびもつかない別次元の世界が、僕の目の前で当たり前に行われていた。そんな風景を感心して見つめていると一人、手の空いた白人女性のスタッフが気を使って僕に声をかけてきてくれた。

「シングル・ルームに変更して欲しい」と、僕は彼女に依頼した。
 奇跡的になんとか英語が通じ、予め予約していた一週間分の部屋を、予約していた期間全てを「シングル・ルーム」へ変更してもらった。(これは彼女がカレンダーを指差して、予約していた期間をわかりやすく説明してくれたので理解できた)
「ドミトリー」から「シングル・ルーム」へ変更した分の差額料金を支払い僕は「四十八番」の鍵を渡し「三十三番」の鍵と交換した。
彼女に案内された「シングル・ルーム」は、どう考えてもデッドスペースの物置場を改装した三角形の部屋で、シングルベッドが奥にポツンとあった。
まるで、序盤に人間界で生活していたハリー・ポッターの部屋の様な、なかなか厳しい「シングル・ルーム」ではあった。
ただ、ハリー・ポッターと違う点は、階段の下ではなくどういった設計からこうなったのかは解らないが、一応は四畳程度の広さはありシングルベッドの隣に「微妙に重たい旅行鞄」を大きく広げても、まだ人一人座れる程度のスペースがあった。
寧ろ、ハリー・ポッターよりは恵まれている状況ではあるが、向こうは居候の立場だが、こちらはお客として代金を支払っている立場だ。それで「子供の秘密基地」という感じが漂うこの部屋を「シングル・ルーム」として提供されている、この状況下において冷遇されている理不尽という点ではハリー・ポッターと通ずるものがあった。
 ともあれ、これで荷物の安全は確保されたわけだし、あの靴下の匂いと騒がしさからは開放された。ただ、宿泊コストが想定より高くついてしまうことがネックだったが、とりあえずそれは今晩に寝る時にでも考えようと先送りをすることにした。
僕はその「シングル・ルーム」に「微妙に重たい旅行鞄」をおき、昨晩はユースホステルに到着するなりそのまま硬直状態で眠ったので丸一日、風呂に入っていないのがどうしても気持ち悪かった。取り急ぎ、風呂道具を一通り取り出して、まずは体を洗い流し、旅の疲れも含めて綺麗サッパリとリフレッシュしたかった(その後、ベッドで昼寝をしても良いとさえ思えた)。
昨晩に『イーストウッド』から貰ったユースホステルのリーフレットを確認し、シャワー・ルーム(ここはオーストラリアなので、風呂場ではなく「シャワー・ルーム」なのだ)の場所までの行き方を把握すると、さっさと風呂道具を手に持ち、生まれて初めての海外のシャワー・ルームに向うことにした。
その際、折角なのでMDウォークマンを取り出し、部屋のコンセントにオーストラリア用のコンセントプラグをつけた変圧器に(オーストラリアのコンセントの口はカタカナの「ハの字型」で電圧は240Vとかなりの高電圧で予め入念に調査して日本から、オーストラリア用のコンセントプラグをつけた変圧器を用意してきた)、MDウォークマンの充電器を差し込んで、風呂に入っている間を使ってMDウォークマンの電池の充電を始めた。
あとは、しっかりと部屋の鍵を閉めた事を確認すると、鍵をズボンのポケットにしまってシャワー・ルームに向かった。
いざ、目的のシャワー・ルームに到着すると、そこはとても奥行きがあり、だだっ広くはないがそれなりの人数は捌ける広さがあった。ただ、洗面台一つにしても無機質で、部屋全体はとても殺風景極まりなく、全く温かみのないトイレ兼シャワー・ルームだった(僕はこのシャワー・ルームを一目見た時に、海外のホラー映画やサスペンス映画で殺害されるシーンをすぐに連想した)。
しかしながら、それに反比例するように、こちらも広く開いた窓から差し込む陽の光は日本の陽の差し込み方とは完全に異なった明るさで、それはとても眩しく温かみがあるものだった。だが、その陽射しを受け止めるトイレ兼シャワー・ルームの徹底された無機質さで、物の見事に相殺されているなんとも奇妙なギャップを持ち合わせたその空間そのものが、いかにもここは異国なんだなと僕は強く感じた。
後に他のバックパッカーから教えてもらったのだが、このユースホステルは、元は病院だった建物を改装してユースホステルに改築したものだそうで、部屋やシャワー・ルームが古めかしく痛烈なまでに無機質なのはその名残だと知った。
ともあれ、今すぐに心身共にスッキリしたいので海外の「湯船」を探すと、日本では珍しい「猫脚のバスタブ」だった。全く馴染みのない陶器製の極めて旧式の猫脚のバスタブは、事実上の初日の朝一番から使いこなせる自信がなかった。
他のブースを一通り見てみると、猫脚のバスタブ以外は全て利用されていた。ひょっとしたらその中に僕の知っている「ユニット式バスタブ」があるかもしれない。
しかし、一つ空いているにも関わらず、シャワーカーテンの向こう側で見知らぬ東洋人が順番を待っていたら、それこそ英語で文句を言われそのまま殴られても不思議ではないと思い、諦めて猫脚バスタブでシャワーを浴びる事にした。
バスタブは旧式ながらしっかりしていたが、シャワーのお湯の水圧が日本と比べると今ひとつ弱かった。
とても長く、これまで経験したことの無い出来事が連続に続き、心身ともに疲れきった旅の疲れと、冷や汗も含めてベトベトになった身体の汚れをしっかりと丁寧に洗い流した。その後、折角だから猫脚バスタブにお湯を張って浸かろうかと頭をよぎったが、今は少しでも早く海外の街並みをこの目で見て歩きたい気持ちが強く勝った。
最後に、洗面台で歯を磨いて簡単に髪を整えた。その途中で、何人かの外国人と目が合う度に「Good morning!」と挨拶され、戸惑いながらも挨拶を何度も返していると、まるで基礎英会話のレッスンを学んでいる気分になった(もちろん、「Good morning!」に加えて何か一言付け加えられた言葉の一切は、僕は何を言っているのか当然判らなかった)。
一通り済ませると、部屋に戻り着ていた冬用の服をビニール袋に収まりよく入れると、日本から用意してきた夏服に着替えた。その時に、『ひょっとしたら、朝一番にとても元気よく挨拶してくれた青年は、冬服を着て一晩寝ていた僕の姿を見て笑っていたのかもしれない』と考えながら十一月に半袖のTシャツ一枚に着替えた。
そのまま、MDウォークマンの電池を充電機から取り外し「Best of the Eagles」のMDを突っ込んだ(オーストラリアでしかもボン・スコットのご当地でもあるAC/DCではなく、いかにも異国情緒を感じたかったことから敢えてアメリカ人バンドのイーグルスのベストを選んだ。)。
寒さが徐々に厳しくなってきていた日本とは本当に全く逆の季節で、シャワー上がりで体が変になってまだ暑さがおさまらないのかと勘違いするほど暑かった。
そりゃそうだ、ここは南半球の地で、もちろん季節は全く逆の真夏だ。
パスポートと現金と現地で貰う手筈になっている、ANZ銀行のキャッシュカードの書類が「GTホーキンスのパスポートケース」に間違いなく入っている事を確認してから首にかけ「微妙に重たい旅行鞄」をしっかりと閉じた。
昨日同様に「GTホーキンスのパスポートケース」をシャツの一番下に潜りこませ、ジーパンの右後ろのポケットにMDウォークマンを入れ、両耳にヘッドフォンを装着した。
僕は、部屋を出て再び鍵をかけ一人、ユースホステルの玄関口に向かった。
そして、目の前に今まで僕が見たことの無い街並みが、玄関のドアのガラス越しに見えていた。このドアの向こうに、これまで夢見ていた海外の街が広がり、今日から僕は知り合いの一人もいなければ、なんの宛てもないそのガラス越しの街で一年間を過ごすことになる。
『喜びこそあれど、後悔なんかあるものか。絶対にこの地で一年間過ごしてやる』
そう心の中で自分自身に強く言い聞かせて、ゆっくりと玄関のドアを開けた。


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