最終話 ショートケーキと告解
――もはや死ぬしか道はない。
毎秒、誰かが自分の死について考えている。だから『そんなこと』で思い悩むのは、珍しいことではない。ならば問題なのは、その『珍しくない悩み』を、未だに合理的に解決する手段を構成できていない社会だ。人間は社会を形成することで長期的に生き抜くことを選択した種族なのだから、自殺は社会が解決に取り組まなくてはいけない課題なのだ。
「……どうしたら今も生きていたのか」
だから、自殺を誰かのせいにして恨む、なんていうのはどこまでもお門違いだ。自殺は誰かひとりのせいにできる問題ではないのだから。
だけど私はこの時、目の前の男に対して、そんな正論を言うことだけは、どうしてもできなかった。
鎌倉デートの後の月曜日、恐ろしいことに彼は本当に我が家にやってきた。
もちろんアポなしで、しかも朝一。もっとはっきりと言えば、私の大好きな『月木の母』が出勤してきた、ほんの五分後のことである。
ちなみに私が何人かの『母』に依頼していることは、朝食の作成、それから私を起こすこと。その後に『母』が了承すれば、共に朝食をとりながら雑談をすること。その後で、私の朝支度を待った上で出勤を見送ってもらこと。それから、朝食の後片づけと、家の戸締りだ。トータル二時間分払っているが、大体一時間ぐらいで終わる。それが私が『母』に頼んでいることだ。
そして白翔くんは、そんな『母』の出勤五分後に、アポなしで家にやってきたのだ。
つまり何が起こったかと言うと、『母』が朝食の準備をしている最中に、『母』の知らない『彼氏』がやってきて、私が寝ている間に『母』と『彼氏』が勝手に仲良くなり、そして『母』と『彼氏』が私を起こすという事態が発生したのである。
さらにちなむと、私がその惨状を理解したのは起床直後、――前日の日曜日、明け方まで雀荘で打っていたためほとんど眠れていない私の目の前に、満面の笑みの彼が現れた、その瞬間である。
「……やめてよ、当たり前みたいにすっぴんを見るのはさ……」
「可愛いですね、久留木さん」
彼が私の頬をつつく横で、私のきゃぴきゃぴと愛らしい『母』が、「早く起きなさい! ご飯できたよ!」と喚く。だから『雇用主』の私は、渋々起き上がった。
「あんたね、彼氏が迎えに来るなら先に言いなさい! お母さんももうちょっとこぎれいな恰好したんだからね!」
「私だって来るなんて聞いてなかったもの……、というかお母さん、それなら私が化粧する時間ぐらい稼いでくれてもいいでしょう……」
「彼氏にすっぴんを見せられないような娘に育てた覚えはないよ! ほら、とっとと! 白翔くんを待たせるんじゃないよ!」
「すんなり名前呼び……はあ……」
チラりと見ると、白翔くんはやっぱりニコニコ笑顔だ。人差し指で彼の頬をつつくと、彼は私の手に頬を寄せてきた。
「ドン引きしなさいよ……気持ち悪いでしょう、『こんなの』」
「あなたのことはもちろん、あなたの可愛いお母さんも大好きですよ」
彼は私の右手をつかむと、薬指にはめていたペアリングをとって、左手の薬指にはめ直してきた。彼の左手の薬指には、もちろんリングが光っている。彼は私の薬指にキスをすると、「これも似合っています」と笑った。
「本当にきみってやつは……」
「いやですか?」
「……ウウン、救われる気持ちがする」
白翔くんがなにか言おうと口を開いたが、それが音になる前に「いいから早く朝の支度しなさい! お母さん、仕事行っちゃうよ!」と騒ぐので、私たちは顔を見合わせて微笑んでから、朝食の席に向かった。すっぴんだし、パジャマだし、寝ぐせだってついているから、恥ずかしいし、情けないし、彼女としてどうなんだとは思う。けれど彼はもう、私が誰にも晒せなかった一番深いところを暴ききっている。だから安心して、無防備でいられた。
これは、奇跡みたいなことだ。
机の下で私の足にちょっかいをかけてくる可愛い彼氏の足を踏みながら、困ったなあと少し思った。
「久留木さん、朝ごはんは俺も手伝ったんですよ」
「白翔くん、料理できるの?」
「理論は知っています」
「出来ない人の発言だな、それは……でも、ありがとう」
「いいえ、……いいえ、このぐらいのことであなたがほだされてくれるなら、安いものですよ」
彼の言葉にほんの少し違和感を覚えつつ、きゃぴきゃぴした母と彼が作ってくれた朝食を食べた。あたたかい味噌汁が喉を通る度に、染みついた眠気が消えていくような気がした。
朝食がほとんど終わったところで彼がふと「久留木さん、非番ですよね」と言い出した。
「当たり前のように私のスケジュール把握しているのは何故なの」
「お店のホームページで告知されていましたから」
「あんなサイト見ている人いるのね……店長が喜ぶわ……」
「更新されているのですから、ちゃんと見ますよ。それで、俺も今日は休みをとりましたので、突然ですがデートしませんか?」
私が返事をする前に、母が「あら、いいじゃない! いってらっしゃい!」と答えてしまった。それをされてしまうと、最早私の選択肢は残っていない。
「……化粧して、デート服に着替えるまで待ってくれる?」
「もちろん。お母さまとお話しして待っています」
「あら! 根掘り葉掘り聞いちゃうよ、お母さんは!」
「やめて、そこの二人で仲良くならないで……」
私がため息を吐くと、私の心の柔らかい部分を知っている二人が、顔を見合わせて笑う。死ぬ間際に思い出しそうなぐらい、眩しい光景だった。
彼の車の助手席に座るとすぐ、彼はナビを入れることもスマホを出すこともなく、車を発進させてしまった。
「どこ行くの」
「秘密です」
「怖いから言って」
「怖がられるほど信用ないですか?」
彼は楽しそうに笑いながら、高速道路に乗ってしまう。行先を告げずに高速に乗ってしまうことに『ヤバい』といつもの予感はあるのに、それよりも『意外と可愛い顔で笑うのよね』なんて思ってしまう。
「……信用していないわけじゃないよ。でも、白翔くんは、ほら、前科があるから」
「前科なんてないですよ、俺は一度も捕まったことはありません。事情聴取までです」
「笑いながら言うことじゃないでしょ……」
咎める言葉は言ってはみるけれど、『もう、そういうところ……意味分かんない、可愛い……』などと頭が勝手に浮かれた事を考えてしまう。
つまり、あんなに怖かった相手なのに、いつの間にか、まんまと彼のことを好きになっているのだ。
そう自覚すると、急にどうしたらいいのかわからなくなる。顔を見ると胸がときめくし、笑ってもらえると嬉しいし、彼の甘い匂いに包まれている現状にそわそわしてしまう。彼の方は何も変わっていないのに、勝手に私の心だけが変わってしまって、身の置き場がない。密室でふたりきりと言う事実が恥ずかしくて、勝手に頬が熱くなっている気がする。
気怠そうに見せるために頬杖をついてため息をついてみたけれど、上手く誤魔化せている気は少しもしない。
「久留木さんだって、事情聴取ぐらいあるでしょう? ほら、ダイナミック入店のときとか、……」
「きみと関わる前は一度だってなかったよ……ウン、……」
これまで通りに話そうとしているのに、妙に言葉に詰まってしまう。
きっと他の人からしたら大した変化ではないけれど、相手は白翔くんだ。だめだろうなと思っていると、「久留木さん」と彼が私を呼ぶ。
「どうしました? なんか変ですね?」
やはり彼は賢い。私は車窓に視線を移し、もう一度ため息をついてみた。
「……なんでもない」
「なんでもない人は、なんでもないとは答えないんですよ」
「きみは賢い……」
「そりゃ賢いですよ。賢くなければ新薬など作れません。……本当にどうされました?」
彼の声色に心配が滲んできてしまった。
渋々横目で彼を見ると、彼もチラリと横目でこちらを見た。高速でよそ見運転をさせてしまう程度には心配をされているらしい。
「……、ええと……どう、説明したらいいのか……」
「はい」
「……ちょっと待って、整理する」
「はい、分かりました。待っています」
私は高校を卒業してからずっとひとりだった。
他人のことを恋愛の意味で好きになったことはあるし、デートをしたことだってある。だけど、そんな相手に話せないことがたくさんあった。両親に絶縁されたこと、母をレンタルしていること、眠れないこと、……どう話しても気持ちが悪い秘密ばかりだ。秘密を守ろうとすると、家に呼ぶことも、将来の話をすることだってできない。だから親しくなればなるほど、すぐ疎遠になってしまう。
だからずっとひとりで、この先もひとりでいいと思っていた。
なのに、そんな私の秘密を、彼はすっかり暴いてしまった。しかも、この気持ち悪い部分を可愛いだとか、大好きだとか、言うのだ。
両親との絶縁はこの先も続くし、母もレンタルし続けるし、不眠だって気休めにしかよくならない。私の抱えている問題はそのままだ。だけどもう、秘密ではない。彼が私を知っているのだ。
それだけで、私は今、昨日よりもずっと息がしやすい。
だから彼がそんな風に勝手に私を暴いてくれることが、『ヤバい』よりも、『嬉しい』。
この私の気持ちは……、きっと彼の計算通りなのだろう。
それは少し悔しい。負けたような気持ちになる。でも、勝負師としてありえないことだけれど、彼にだったら負けても仕方ないような気になってしまう。
そのぐらいに、……『嬉しい』。
これが恋なのだとしたら、きっとこれまでのは恋ではなかった。そう思ってしまうぐらいに、私は彼のことが好きになってしまっていた。
だけど、これって『今更』だ。
だってすでに私は彼と付き合っているのだ。それどころか彼はもう何度も私に好きだと言ってくれているし、プロポーズまがいのことも何度もされているし、勝手にレンタル母にまで挨拶をしてくれている。だから、今更私がこの思いを告げたところで、『だから、なんなんです? え、付き合ってますけど?』などと言われたら、答えようがないのだ。
彼はもう世間的には、溺愛と呼べるレベルで私に尽くしてくれている。
こんな私の思いを今更告げたところで、なににもならない。なににもならないけど、私の身体はそわそわしてしまって、普段通りに話すことすらできない。じゃあどうしたらいいのだろう、……この思いにどう折り合いをつけたらいいのか……考えても答えが出ず、結局口からはうめき声が漏れてしまった。
「……整理が上手くいかないなら、そのまま話していただいて結構ですよ? 俺、賢いので察することはできます」
白翔くんが優しいのか残酷なのかわからない手助けをくれた。
私は彼を見て、それからナビの現在地を見て、しばらくカーブがないこと、前方にも後方にも車がいないことを確認してから、渋々、口を開いた。
「……私、白翔くんのこと、……」
自分の鼓動が大きい。吐きそうなぐらい煩い。喉が熱い。なんとか、息を吸い、喉の奥の言葉を引きずり出す。
「好きになっちゃったみたいで、……その、……ドキドキして、話し方がわかんなくなっちゃったの……変だったらごめんね……」
耳の奥の鼓動の音がさらに大きくなった。
ドク、ドク、ドク、とうるさい自分の鼓動を聞きながら、彼を横目で見る。
――こちらを真っ直ぐ見ている彼と、ばっちり、目が合った。
「白翔くん! 前見て!」
「アッ……ああ、ああ、……ええ……、えぇ……?」
彼は視線を前に戻した。が、車線こそ超えないが、車が妙な蛇行を始めている。あわてて助手席からそのハンドルを支えるが、左ハンドルなどやったことがないし、アクセルにもブレーキにもさすがに届かなかった。このままだと、高速の真ん中での事故が起きてしまう。咄嗟にハザードランプをつけて、彼の肩を叩く。
「白翔くん、落ち着いて! ごめん、言うタイミングを間違ったね⁉」
「い、いえっ、あの、いえっ、……おえっ……」
「吐かないで⁉ いや! 吐いてもいいから、とりあえず、高速下りてからにしてくれる⁉」
彼はハザードランプを止めることはなく、私の手の支えを借りたまま、車をなんとか非常駐車帯に停止させてくれた。
「ここって止めていいところだったっけ……」
「事故を起こすよりましでしょう……高速の事故は大変ですよ……」
彼はガタガタと震える両手をハンドルから引きはがすと、自分の顔を覆う。でも、両手で隠しきれていない耳どころか、うなじまで真っ赤になっていた。いや、顔を隠す指先まで真っ赤だ。
彼は照れている。そのことに正直、驚いた。
「……そ、……、そんな、反応してくれると思わなかった」
「……どうしてです……?」
彼は顔を上げることなく、低い声を出す。前にトランクに放り投げられた時みたいな声だけれど、あのときのようなヤバい予感はしない。
「だって、一生逃がさないみたいなこと言うなら、……好かれる自信があるんだと思ってた。だから、……計算通りでしょう? そんなに驚くと思わなかったというか、……あの、……、その、喜んでくれると思わなかったというか……」
「驚くに決まっているでしょう! 嬉しいに決まっているでしょう! あなたは俺をなんだと思っているんですか!」
彼が顔を上げた。
額まで真っ赤で、……今まで見たことないぐらい、へにゃへにゃに崩れた笑顔だった。彼の右手が私の頬に触れる。彼の手が熱すぎる。その熱がうつって、私も赤くなるのがわかる。きっと恥ずかしい顔をしてしまっているから隠したいと思うのに、嬉しそうにしている可愛い彼の顔から目を逸らせない。
彼の目は、潤んでいた。
「あなた、本当に……俺の予想を超えてくる……、なんなんです、俺をどうしたいんです?」
「ど、どうこうしたいわけじゃないよ、今まで通りでいいというか……」
「馬鹿だな。今まで以上にメロメロですよ」
「メロメロって昭和じゃないんだから……ていうか、馬鹿って……」
反論をしようとしたけれど、彼の顔がとても近くて、なにも言えなくなる。彼の目が、彼の手が、彼の全てが私にキスをしていいかを伺っていた。彼の鼓動の大きさが伝わってくるし、私の鼓動の早さも彼にきっと伝わっている。目を閉じて顎を上げると、彼が息を吸うのがわかった。
触れた唇は、乾いていた。
ほんの一瞬、子どもの戯れのようなキス、だけど、彼はそれだけで私の肩に額をつけた。目を開けて、彼の赤い耳を見る。彼は深く深くため息を吐いてから、顔を上げる。
「あなたのせいで、俺が馬鹿になったらどうしてくれるんです……責任取って早く結婚してください」
拗ねた顔で繰り出すとんでもない彼の暴論に、私はついつい、笑ってしまった。
サービスエリアに車を止めた白翔くんは深くため息を吐いた。
珍しく彼がバック駐車を二回やり直したことからも、動揺は見て取れる。その肘をつつくと、彼は不服そうな顔でこちらを見た。
「事故を起こすかもしれないと思ったのは免許を取得してから初めてですよ」
「そう。ダイナミック入店しなくてよかったわ。それで、……今日はどこに行くの?」
「ああ、花見に行こうと思ったんですが、ちょっと……そんな気持ちではなくなってしまいました。どうしましょうね……ア、家具を見に行きましょうか」
「ウン?」
突然の申し出に聞き返すと、彼は嬉しそうに「では、そうしましょう」とまたアクセルを踏もうとするので、彼の耳を引っ張る。痛みを感じない彼はやはり不思議そうに私を見た。
「折角好きになっていただいたので、同棲しましょうよ。俺の家、ベッド入れたらすぐ住めますよ」
「イヤ。私は自分の家を気に入っていますので」
「じゃあ俺が久留木さんの家に行きますか?」
「私の家にきみが入る余裕はないから!」
「なら、新しい物件を見に行かないとですね?」
「なんでそうなるの! ……白翔くん?」
今更、彼の耳がまだ赤いことに気が付いた。彼はふざけた調子で話しているけれど、頬さえ赤く、瞳はチラリとこちらを見てはすぐ逸れる。そんな彼の様子を見ていたら、私の頬まで熱くなってきてしまった。
彼の耳を離し、ため息を吐く。
「……照れてるなら、照れてるって言って」
「……慣れてないんですよ、俺、こういうの……何回も言っているでしょう……」
彼が右手の人差し指で自分の唇をなぞり、それから嬉しそうに笑った。
「ファーストキスです。嬉しいです」
「そういうことを素直に言うのやめてくれない……?」
「言わないと伝わらないでしょう? フフ、……よかった、久留木さん、本当に俺の事、好きそうだ」
彼が私の右手を掴む。指が絡み合い、繋がり合う。恥ずかしいけれど嬉しいし、初めて会った頃のような不安感はない。
「……いつの間にほだされてしまったのかな、鋼の女王なのに……」
「何故不服そうにされますか。いいことじゃないですか。どの道、俺と一生過ごしていただくしかないんですから、好きになった方がお得です」
「そんな怖いこと言う人なのに、可愛く思えるから困る……」
「か、……あ、……そうですか……」
「照れるなら聞かないでよね」
私たちは結局この日、サービスエリアで過ごした。
ここからどこに行こうともせず、ただ手をつないで、コーヒーを飲んで、屋台料理を食べて、一日過ごす。なにひとつ盛り上がりはなく、けれど、ほんの少しも退屈しない時間だった。彼とのデートで大なり小なり、ヤバい事件が起きなかったのは初めてだな、と思いながら、帰りのドライブまで穏やかに過ごした。
彼は私を家まで送ってくれ、玄関の前で私の手を握った。
「どうしたの?」
「……『帰したくない』という気持ちに苛まれています」
真面目な顔でそんなことを言われてつい笑うが、彼はつられては笑ってくれなかった。ただ、真剣な顔で私を見下ろしている。
「そんな可愛い年下彼氏みたいなことを急に言われても……」
「可愛い年下彼氏じゃないですか、実際。……あなたは可愛い彼女でしょう、俺の。もう、とりあえずじゃなくて、ちゃんと……」
そういえば、付き合う時はそんな言葉で始まっていた。
あの時にはきっともう、絆されていたし、好きになり始めていたのだろう。でも、それを言うと彼がまた照れてしまう気がしたので、ただ、彼の手を握り返す。
「……作ったショートケーキあるけど、コーヒーでも飲んでいく?」
彼は短く息を吸う。
「今度は、意味が分かった上で言っていますよね?」
「雀士は先読みは得意って知ってます? それに、私は……勝負時は間違えないよ」
笑ってみせると、彼は息を吐き出して笑い返してきた。そして――彼の携帯が鳴り始めた。瞬間、彼の表情が消えた。
「……電話だよ?」
「……音が鳴るということは……おそらく緊急事態ですね、なんだろう、今更薬に問題が見つかったかな……」
「出なさい」
「はい……失礼します」
彼が電話に出る。これはもうお開きだなと思いながら、家の扉にもたれると、トン、と彼が私の頭の上に手をおいた。
壁ドンだ。
「……ええ、承知いたしました。すぐ戻ります……ええ、今、出先なので……」
彼は電話をかけながら、しかし、私に顔を近づけてくる。私は顎を上げて、彼を待った。
「はい、三十分ほどで……では」
彼は電話を切ると、私にキスをした。触れて離れ、また触れる。とても手慣れているとは言えないキスで、でも、今までしたことがあるどんなものとも比べ物にはならない。
彼は私の頬にキスをすると、壁から手を離した。予想通り、真っ赤な可愛い顔をしている。
「……少し勉強して出直します」
「やだ。なにそれ」
「こういった方面には無知なんですよ……あなたをちゃんと満足させるものを、次回は」
「……満足してるよ。すごくね」
彼は二回咳き込んでから「年上彼女ぶって……」とふざけたので、私は彼の胸をつついてから「生意気な年下彼氏」とふざけておいた。
「次回は帰さないですからね」
「はいはい、きみの家には入らないけどね」
そんな別れ言葉を交わし、彼がマンション前に停めた車に乗るところまで見送ってから、家に入る。
「はー……やばい、浮かれ過ぎかな……」
鍵をかけて、チェーンロックをかけ、靴を脱ごうとしたときだった。
――【なにか】きた。
振り返ろうとしたその瞬間に、ガアン、と衝撃が走る。なにがあったのかわからないまま、体が玄関に倒れる。視界が急速にビビットカラーになっていく。これは、『やばい』。【なにか】。明確に、『やばい』。【なにか】、きてる。
「……だからね、あの男はやめろといったんだよ、お嬢さん」
誰か家に侵入していた、その誰かに後ろから殴られた、そう理解しても、もう遅い。そして、その誰かの声は聞き覚えがあり、なによりこの【ハイライト】、バチン、と首の後ろになにかを当てられた。
ぐるぐる回る視界の中で、できることがないまま、『白翔くんとのデートが平和に終わるはずがなかったなあ』と思いながら、私は意識を失った。
目を覚ますと、まず、頭に激痛が走った。
「いっ……いったいなぁ……」
思わずそう呟いてしまいつつ、なんとか、目を開ける。
「……なにこれ……倉庫……?」
ここは、どうやら、レンタル倉庫の中のようだ。
以前テレビコマーシャルで見たことがある作りをしていた。コンテナごと貸してくれるというやつだろう。そして、そんな倉庫の中で、パイプ椅子の上に、私は座らされていた。
痛む自分の手首を見ると、結束バンドでとらえられていた。さらにいえば、パイプ椅子に両足がくくりつけられている。要するに四肢が使えない状態だ。
「なにこれ……」
しかし、口には何もされていない。叫べば助けは呼べるかもしれない……と考えていると【なにか】予感がした。
「……起きてしまったね……お嬢さん」
声は背後からした。
振り返ろうとする前に、声の主が私の視界に現れた。その……【ハイライト】の香りとともに。
彼はパイプ椅子を持って私の目の前にやってくると、持ってきた椅子に座り、煙草をくらえた。
やはり、何度か、コンビニの前であったおじさんだ。
……やはり、この人だった。
私は自分の手首を見てから、彼を見た。
「……あなたは、……、誰なの? ……私に忠告をして……こうして、拉致して監禁をする……どうして?」
「なら、きみこそどうして? 何度も忠告をしたのに……彼が危ない男とわかっていただろう? ……なのに……」
「……あなた、いつから、こんなことしようとしてたの?」
おじさんは煙草に火をつけ、煙を長く吐く。どうやら、言葉を選んでいる様子である。私は唾を飲み、相手の様子をうかがう。
彼の見た目はごく普通に見えるが、特徴があるとすればやつれているということだろう。ひげの剃り残しや、傷んだスニーカー、神経質に噛み切られた爪などから、彼の生活の荒れがうかがえる。だが、不審には見えない、普通の人だ。おそらく職務質問は受けないだろう。
しかし今、拉致、監禁を行っている。
普通の人がここに至るまでにはそれなりのことがある。だから彼もそれなりに覚悟と、それなりに信念を持って、私の前に座っているに違いない。
問題はその覚悟と信念の程度だ。
普通の人がサイコパス気取りで、優秀な白翔くんへの嫌がらせとしてこんなことをしたのであれば、この後、きっと無駄に格好いいことを言う。白翔くんに対してマウントを取ろうとするはずだ。その程度の小者であれば、いずれ隙を見せる。だから逆上させなければなんとかなる……トラウマは残るだろうけれど日常には戻れるだろう。
でも、そうではなかったら、……人生全部を賭けてここにいたら……、これは、私にとっても【命を賭けた勝負】になる。
「……いつからだったかな……こんなことを考えだしたのは……きみを巻き込もうと思ったのは……多分、きみが……殴られてもなお、あの男と話していたとき、かな……」
「……あのとき? ……どうして?」
「きみが、あの男の人生をよりよいものにしようとしているように見えた……傷だらけでも、彼から逃げない……そんなところが……」
「……気に食わなくて?」
「そう……きっとそうだ……」
……、ドク、ドク、ドクと心臓がうるさい。
『やばい』『やばい』『やばい』……警報機が壊れたみたいに脳内で鳴っている。白翔くんといても感じたことがない程の危機感だ。
なのに、どうしてか、顔が笑いそうになる。
――久留木舞は鋼の女王。
『やばい』【なにか】の感覚から逃げ続けていつの間にかそんな名前をつけられた。そのぐらい、私は逃げが早い。そのぐらい……危険から逃げなくては麻雀では勝てない。そのぐらい、麻雀では何度もこの恐怖を味わう。
でも本当にこの『やばい』から逃げたいなら、こんなゲームやめればいいのだ。しかし、私はこれを生業にしている。
「……そう、あのときから……」
「……きみはなぜ、あいつから逃げないんだ?」
「なぜ、……」
……そうだ、……今、はっきりわかった。
私はこの感覚が好きなのだ。この、ひりつくような、この感覚が、好きなのだ。だから私は、……『やばい』男とわかっていたのに、彼の手を取った。……いや、【むしろ】【だからこそ】、私は彼の彼女なのだ。
ドキ、ドキと鳴る、この胸の高鳴りは恐怖ではない。【興奮】だ。『やばい』のは、なにも、【彼】だけではない。
【自覚】をもって、私は目の前の男を睨んだ。目の前の、【敵】を。
「あなた、……白翔くんがそんなに、憎い?」
この人生を賭けて、私は賽を投げる。
男は煙を長く、長く、吐き、ようやく、口を開いた。
「俺は、松下白翔の中学生時代の同級生の父親だ」
彼は地面を見たまま、淡々と話し続ける。
「彼の周りにはこれまで三人の人間が自殺で死んでいる。彼の両親と、それから……俺の息子」
私の体は勝手に汗をかく。それでも私は意識を持って彼を見上げる。
「息子の仇討ちをしたい……それだけだ」
彼の煙草の灰が地面に落ちた。
「彼はここに来る。彼の目の前できみを殺す。そして、俺も死ぬ。復讐したくてもできない苦しみを、生き地獄を、あの男に与えてやる……」
彼は、視線を上げて、私を見た。しかし目が合っていない。彼の焦点は私には合っていない。
つまり、彼はまだ、自分の勝負の相手を白翔くんだと【勘違い】している。
――この鋼の女王が舐められたものだ。
私は、油断している素人相手の勝負に、わざと負けてあげるほど優しくはない。
「……じゃあ、あなたの復讐は、ここに白翔くんが来なきゃ始まらないのね?」
もう彼の【親】はもう終わった。けれど私の点棒は残っている。なら、ここから、八連荘、取り返す。
「なら、彼が来るまで話をしましょう。あなたの息子さんの話を。殺される私には、……理由を知る権利があるでしょう、ね? 私は久留木舞。二十九歳の独身の、……しがない雀士よ、よろしくね?」
この場の【親】は、もう、私だ。
「……先に私から話しましょうか……」
殴られた頭はズキズキと痛むし、結束バンドで絞められた手首も痛いし、パイプ椅子に括りつけられている足首も痛い。けれど、私は笑顔を浮かべた。相手は私の笑みに動揺したのか、怪訝そうに目を細める。その煙草の先から灰が落ちた。
だからこそ、私は笑顔を深める。
笑顔は、表情の中で最も作りやすく、最も人をだましやすい表情だからだ。まるで、親愛を持っているかのように思ってもらえる。本心をどこまでも隠せる。
私は親愛を込めた表情で、口を開く。
「私はね、白翔くんとは夜中のコンビニで会ったの。あなたと会ったコンビニね。あそこにタクシーが突っ込んできたときに会ったのよ。すごい出会いでしょう? 劇的で、一生忘れられない出会いだった。私、足を怪我したんだけど、それを彼に手当てしてもらったの」
「……知っている。見ていたから。お嬢さんがあいつを助けてなかったら、あいつはあそこで死んでいた」
ぞくり、と、うなじが冷える。
あの瞬間も見ていたということは、この人は本当にずっと白翔くんを監視していたということになる。
彼は細く煙を吐く。
「あのとき、あいつが死んでたら、俺はきっと深く後悔していた。手段を選ばず、もっと早く、復讐をしておくべきだったって」
「……そう。じゃあ私、あなたの恩人かしら?」
「ハハ、ある意味では」
私が笑顔だからか、彼も笑う。その目は相変わらず私を見ていない。つまり、……彼はまだ油断している。
「あなたの息子さんはどんな子だったの?」
彼が嫌そうに私を見るが、私がにこにこと笑っていると、仕方なさそうに口を開いた。
「……息子は生まれたときから手間のかかる子どもだった。例えばフードコートで食事をしたら、その場にいるどの子どもよりも大きな声で泣く子だった。例えば、おもちゃを買ってもらえないからとスーパーで転がって泣き喚くような子だった。偏食で、小さい頃はヨーグルトぐらいしか食べてくれなかった。言葉も遅くて心配した。オムツが外れるのも遅かったし、小学校に入ってもたまにおねしょをするような子だった。けれど、可愛かった。大変なことが多い分、とても可愛かった。……小学校では作文で賞をとった。それが嬉しかったな、自分のことみたいに……あいつはいつも俺についてきて、遊びをねだっていた……」
彼は遠くを見ている。遠い記憶を見て、今はいない人を見ている。だからこそ、私は彼の目をずっと見ていた。
「中学に入って、息子はいきなり背が伸びた。俺と同じぐらいの背丈になって、……、少しずつ、息子が考えていることがわからなくなった。学校で何があったか、……そんな話は自然としなくなっていった。思春期だ。そういうものだろう、と思っていた」
中学生にもなると、親と自分が別の生き物であること、別の考えを持つこと、必ずしも理解し合えないことがわかってくる。私の場合はそれが顕著に表れ始め、高校では取り返しがつかないほどの溝になり、今に至っている。だから彼の話は共感できた。
そうだ。共感できる。あまりにも普通の話だ。普通の家庭の話だ。でも、彼の息子がどうなったのか、私はこの普通の家庭の『落ち』を知っている。だからこれは、身を割くような痛みの話だ。そこかしこに地雷がある。
慎重に「それで?」と続きを促す。
「あまり学校の話をしなくなったが、それでも、……息子からよく聞いていた名前がある。『松下』、息子と同じクラスで……今はきみの男の名前だ」
「……白翔くんのこと、どんな風に話していたの?」
「とても頭がいいけれど、身体が弱くて、可哀想な子だ、と。……たまに足が動かなくなるから、車椅子を持ってきていると言っていた。息子は、その移動をよく手伝っていたと……」
「車椅子?」
「ああ、厄介な病気で、と……」
彼の親が死んだのは中学生の頃のはずだ。そしてその三年後、高校生のときに発症し、新薬を発表したのは彼が十九歳の時……彼が車椅子を中学の頃から乗っていたのでは計算が合わない。
ということは、白翔くんが車椅子を使っていたのには別の理由があるはずだ。
が、目の前の男は疑問に思わないのか、話し続ける。
「息子は彼をよく手伝っていたらしい、一緒に勉強をしている……だとか、そんなことを聞いた。仲良くしているのだと。……そんな折りに彼の両親が自殺した。いや、保護者には事故で亡くなったという連絡が入ったが、……子どもたちの中では心中だったと噂が流れた。彼も巻き込まれそうになったが生き残ったと、本人もそれを否定しなかったそうだ」
「……それは、中学校ではきっと、浮くでしょうね」
「ああ。彼は孤立した、と、……息子は彼の側に立ったらしい。だから少し浮いてはいるが、心配しないでほしい、とそんな話をした」
「中学生の息子さんとお父さんにしては、とても仲良しね」
「ああ、俺たちは仲がいい親子だ」
異様なまでの即答だ。
私は笑顔のまま、「そうね」と相づちを打ちながら考える。
ここまでの即答だ。それに、大して話していない中学の頃の息子のことを、物語のように話せるということは、……これはもう事実ではない。長い年月の中で彼の頭の中で都合よく書き替えられたストーリーだろう。
話半分で聞いておかなくては、真実を見誤る。
私は慎重に「それから?」と先を促した。
「……松下はいじめられるようになったそうだ。無視、みたいなところか……そして、車椅子の補助を誰もしなくなった、と……」
「誰も?」
「そうだ。……俺の息子もな。……ただ、俺の息子は、優しくてな、それを悔やんで、……自分を責めた」
「……それで?」
「松下が車椅子ごと階段から落ちる事故が起きた。あいつは怪我をしなかったが、息子の罪悪感はピークに達した。それで、翌日、同じ階段から自分で落ちたんだ。……俺の息子は打ちどころが悪かった。それで、死んだ」
サラリと彼は話したが、その手は震えている。ガタガタと震えるその手から煙草が落ちて、地面に転がる。
「……それがどうして、白翔くんのせいになるの? 不幸な事故でしょう?」
「表向きはそうだ。だが、……松下は、事故を息子のせいだと、……そう、息子を責めていたんだ! それさえなければ、息子はあそこまで追い詰められなかった!」
「……そう、……」
たしかに、もし白翔さんが悪いことをするなら、そういうふうに直接手をくわえはしないが、相手を追い詰めるやり方を取るだろう……つい、そう思ってしまった。酷い彼女だ。
しかし、彼は実際そういうタイプだ。
だが同時に、彼は無駄にそんなことはしないはずだ。ではなぜ……彼は、この男の息子に対してそんなことをしたのたろうか。もし松下くんが【なにか】したというのなら、この男の息子もまた、恐らく【なにか】したのだ。
でも……違和感を覚えた。
「……あいつは死ななくてよかった……」
目の前の男はブツブツと話し続ける。
「あいつさえいなければ……、追い詰められなかった、……、……もはや死ぬしか道がない、と思い詰めるほど、あいつが……」
彼の独白、呟き、視線から、思想は読めた。相手の手の内もわかる。だから私は、彼の懐に切り込むことにした。
「要するにあなた、白翔くんのことをよく知らないのね。……息子さんのことも」
目の前の男が、ようやく、私と目を合わせたのがわかった。
「俺が……息子のことをよく知らない……?」
この人は孤独で、思い詰めている。
だから止まらなかっただけで、本当は誰かに止めてほしいのだ。……本当は、息子さんに止めてほしいのだ。息子さんに説明してほしいのだ。その上で、納得したいのだ。
それなら死なねばならなかった、と。それなら、死んでもよかった、と。
だがもう遅い。この人は止まらなかった挙げ句、この鋼の女王に喧嘩を売ったのだから、その始末は取ってもらわなくてはならない。
私は彼の目をじっと見て、微笑み続ける。
「ええ、あなたは肝心なことを何も知らないわ。息子さんの気持ちを知らないもの」
「知っている、俺はあいつのことは何もかも……」
「息子さんは松下白翔に対して何を思っていたのか、あなたの話からは何もわからない。同情? 憐憫? ……そんなことで、そこまで思いつめないことをあなたはわかっている。だからあなたは未だに納得できないのよ。息子さんの自殺に」
ハイライトの残り香が鼻をかすめる。
「人がそこまで思い詰めるのは罪悪感。……今のあなたを追い詰めたものと、同じもの」
彼の目が泳ぐ。
「あなたの話からはもう一つわからないものがある。息子さんとあなたの関係よ。話さなくなったというのなら、あなたの話は誰から聞いたもの? 誰から聞いて、……都合よく作り上げた話?」
「俺は話を作ってなんかいない!」
「あなたの息子さんの思い出話は、よくある子どもの話でしかない。一般的な幼児の話。本当に育児に参加していたならもっと、体温を感じる話をするはずよ」
家庭にもよるだろうから、これははったりだ。しかし当たったのか、彼の目は泳ぎ、動揺し続けている。つまり図星だ。
やはり彼の手札はもう見えた。
「あなたは息子さんと仲良くはない。あなたは、息子さんに罪の意識がある。よく思い出しなさい。あなたは……」
「やめろ!」
彼が立ち上がった。
興奮しているのか息は荒く、手は震え、顔は赤い。私は奥歯を噛み締めた。
ガアン、と予想通り、左頬を殴られた。ジン、ジン、ジン、……と痛む、が、彼を睨む。
「あなた、子どもを殴ったでしょう」
「な……」
「暴力を手段に選べるほど日常的に、あなた、家族を殴っていたでしょう。自分の手の中にあるはずのものが、自分の予想を超えると、あなたは今みたいに勝手に追い詰められて、暴力に走る……当たりみたいね」
口の中で血の味がする。
話しにくくなり、唾を吐くと、地面に血のあとができた。目の前の男は再び拳を振り上げようとしている。
次は一発ではなく、きっと、私が黙るまで殴るつもりだ。なら、先に話さなくてはいけない。彼の急所はもう見えた。
「お父さんが悪いわけじゃないよ」
彼の手が止まる。
「……そう言って、あなたを許してくれる人はもう死んだの」
彼の目がゆらゆらと揺らいでいる。
「あなたの罪はもはや誰にも裁かれず、許されない」
彼の顔色が白くなっていく。カタカタと彼が震える。
「……俺は、悪くない、俺は……」
「そうね、実際、あなたは悪くないわよ。あなたの息子さんも悪い訳では無い。全て運が悪かったこと。……例えばあなたが息子を殴り、その日、彼がその傷のせいで、ふらりと階段から落ちたとしてもね、それは法では裁かれないわ」
彼の目に怯えが走った。
それで、『やはり』とわかった。
『やはり、私の彼氏はそういう人なのだ』と。
私は彼を見上げて、微笑んだ。
「やっと歪められた自分の認知を正された気持ちはいかがかしら」
「お、おまえ、……おまえ……なんで、そんなこと……あいつが、あいつが話したのか!? 息子のことを! あいつは……あいつは息子のことを、なんて……」
「そんなはずないでしょ。彼がそんなこと話すわけなくない? あなた、口説くときに死んだ友人の話をするタイプ? モテないわよ、それ」
「は……? じゃあなんで……なんで、あいつが、葬式で話したことを知ってる……?」
「あなたの話を聞けばわかる。そのぐらいね、私は白翔くんを知ってるのよ」
白翔くんが車椅子に乗っていたのはきっと、車椅子に慣れるためだろう。
いずれそれを乗ることになるかもしれないと彼はわかっていたはずだ。そして、その補助をしてくれていた相手と、何を話していたか知らないが、きっと将来の話をしたはずだ。
親の話もしたはずだ。
彼の家族は崩壊していて、そして、相手の家族も崩壊していたなら、彼らはきっととても親しい友人になっていた。
友人を殴る人間を、殺した人間を、彼は決して容赦はしない。そのときに、……私のように彼を止められる人間が周りにいなければ、彼は必ず復讐を成し遂げる。
なら、私は、白翔くんがあえて話しそうなことを彼にぶつければいい。簡単だ。
私は彼にとても似ているのだから。
「彼はあなたを法で裁くなんてことはしない。友人を殺した相手を法でなど裁かせない。生き地獄に落とす。……復讐なんて逃げ道、あなたにはない。あなたは、生きたまま、もう地獄に落ちている」
彼が後退った。その目が完全に怯えている。
「白翔くんはね、そういう人なの。そして私は、そういう男と付き合える。……今、あなたが敵に回している女は、そういう女なのよ。どうする? まだ話す? ……私はあなたを自殺に追い込むぐらいは、あなたの罪を話せるわよ」
彼が、私から目をそらし、踵を返した。ふらつきながら、ブツブツとなにかつぶやきながら、彼は倉庫から出ていく。
「……はぁ……」
両手を振り上げて、勢いよく、叩きつけるようにして振り下ろす。手首の拘束が少し緩んだ。推進力を使うと手首の拘束は外しやすいらしい。昔、雀荘で警官に聞いたトリビアがこんなところで役に立つとは思わなかった。私は結束バンドから手を抜き、髪留めを外す。
こんなところまで見ていなかったのだろう。髪留めの裏に貼り付けていたカッターナイフの刃を使って、足首の拘束を切った。
立ち上がり、ようやく私は倉庫から出た。
男はもういない。おそらくまた自分の認知を歪めようとしたか、もしくは、……今度こそ自殺したか。どちらでもいい、興味はない。
「はー……つかれたぁ……どこよ、ここ……今、何時なわけ……?」
私はとにかく、警察に通報するために歩き出した。
近くにあったコンビニから通報してもらった結果、パトカーで病院に連れて行かれ、病室で警官から事情聴取が受けることになった。すべてがおわったのは翌日の昼過ぎだ。
男は指名手配になるらしいから、そのうちに捕まるだろう。私は手首と足首を打撲していたが、それだけで、気持ちが落ち着いたら帰れと言われた。医者はなかなかに厳しいのだ。
だから私は少し待った。
予想通り、彼はすぐにやってきた。
「久留木さん、……すいません……」
白翔くんは私のベッドに腰掛けると、私の顔を両手で包む。泣きそうなのか震えていて、顔色は真っ白だ。服装だけはいつものように真っ黒で、本当に似合っていない。
彼の服は、喪服だ。いつか明るい色に染めてあげたい。そう思いながら、彼の手に頬を寄せた。
「遅いよ」
「……すいません、……また、俺のせいであなたを傷つけましたね……」
「そうね……でこピンしていい?」
「へ?」
彼の額を、ぺんと叩く。彼は目を丸くした。
「あと何人いるの、あういう人」
「あういう、人……とは……」
「私に出会う前に何人、あういう風に追い詰めてきたわけ? やるならせめて、ちゃんと仕留めてきてくれない? 今回みたいなの、困るんだけど」
彼は目を泳がせながら、「ええと、……」と何かをカウントする。
「自殺まで追い込もうとして、まだ死んでない相手は六人残ってますね、やりきれず……」
「思ったより多い! 馬鹿! 翼くんがあなたを疑うのも当然でしょう! やり過ぎ!」
「……すいません……」
もう一度額をペンと叩くと、彼は額をおさえ、ぎゅうと目を閉じて、「ごめんなさい……」とまた謝った。
彼は私の膝の上に手を置くと、祈るように、頭を下げた。
「……親に愛されない俺は、……生きるにはふさわしくない……もはや死ぬしか道はない、……」
「誰の言葉?」
「友人です。……友人ですよ、今はもういないけど、……いいやつでした。俺と、……車椅子の改造をしていたんですよ、ロボットみたいに変形させようって……そんな馬鹿なことをしていました。優秀で、いいやつで、でも運がなくて……。どうしたら、今も生きていたのか……それだけがわからないんです。どんなに考えても、どうしても、それだけがわからない……」
彼の告白に、自殺を誰かのせいにして、そうして恨むなどと言うのはどこまでもお門違いだ、と言ってしまうことはできなかった。
だって、彼はもう、復讐を終えている。つまり全て、今更で、どんな肯定をしても、否定をしても、取り返しはつかないのだ。
だから、私は彼の頬に手をあてた。
「……別にきみは悪くないでしょ。仕返しのやり方がえげつないだけよ」
彼は目を開けて、私をじっと見る。だからじっと見返す。腕を広げると、彼は光に吸い寄せられた蛾みたいに私に抱きついてきた。いつもの甘い、彼の匂いだ。
「……あなたにもっと、早く出会いたかったです」
「嫌よ、こんなこじらせ中学生の面倒なんて、若い頃は無理。今だから見られるの」
「酷い言い方……」
彼が泣いているのはわかったけれど、かけてあげる言葉はなかったから、ただ彼の背中を撫でた。
彼は私の肩ですこし泣いたあと、鼻をすすりながら、身体を離す。そうして目が合うと、彼はもういつものように笑っていた。
「怪我をさせてしまいました。お詫びにあなたのお世話がしたい。お互いの家の間の分譲マンションを購入しましたので、一緒に住みましょう」
「……拉致監禁からやっと、生還したのに、また拉致、監禁されろって言うの?」
「はい。俺は逃しませんよ。拘束なんてしませんけれど」
彼が歯を見せて笑う。年相応の可愛い顔だった。私はため息をついて、彼にキスをする。彼は顔を真っ赤にした。
「じゃあせめて、次はちゃんと助けに来てね」
「今回だって行きましたよ、あなたが俺の迎えよりも先に逃げ出しただけです」
「有能な彼女で良かったわね」
「有能すぎますよ……もう……ショートケーキも食べ損ねてしまいましたし……」
「いつでも作るよ、彼氏のためなら」
照れる彼が可愛くて、つい、笑ってしまった。
◇
フキノトウが安売りをしていたので大量に買ってから家に帰った。
「最高ー、今日は最高のつまみができるわ、春爛漫」
歌いながらふきのとうを水にさらしていたら、玄関の扉が開いた。パタパタと近づいてくる足音に、この予感に、つい顔が緩む。
キッチンの扉が開き、絶対的なイケメンの白翔くんが笑顔で帰ってきた。
「ただいま、久留木さん」
「おかえり」
彼が慣れたキスをくれる。いつも通りの平日の午後七時だ。が、彼の手にはスーパーの袋があった。
「山菜が安売りしてましたので……アッ」
「アッ」
「……同じスーパーに行きましたね、これは」
「蕗味噌作るよ。手伝って」
「はい」
事件の一ヶ月後、私達は結局同じ家で暮らし始めた。
同棲は初めてだけれど、今のところ概ねうまく行っている。私は相変わらず不眠症だし、彼は相変わらず【なにか】『やばい』やつだけれど、同棲自体に問題はない。生活リズムも違うし、年も違うし、何もかも違うけれど、根本的なところがとてもあっていて、家族と暮らすよりも気楽だ。
要するに、認めたくないけれど、私達は似たもの同士なのだろう。
「蕗味噌作るなら、ハイボール飲みたいよね?」
「ふふ、酔っちゃいます?」
「んふふ、どう?」
「もう……可愛い顔して……」
「いひひひ」
恋人としても彼は優しいし、彼曰く経験不足だというあれこれさえ勉強で補ってくる程度に熱心だ。私もそれほどまともな経験はないため、慣れてきた彼には翻弄され続けている。それもまた、悪くない。彼には負けても悔しくない、そんな風に、私も彼が好きなまま、生活は続いている。
だが、問題が全くないわけではない。
「とりあえずね、先にお伝えしなきゃいけないことがあります」
「はい、蕗味噌の作り方ですか?」
「家に脅迫状が届きました」
彼はわざとらしく目を丸くする。なのでその額をペンと叩いた。彼はすぐ、クスクス笑った。
「喧嘩売られるのは久しぶりですね」
「楽しそうにしないでちょうだい……はい、フキノトウ剝きながら、考えようね」
「はあい、お手伝いします」
春の匂いを感じながら、なんでこんな人を好きになったのかしら、と私は深く、いつものため息をついた。
(スーサイドメーカーの節度ある晩餐 了)
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