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「今」が最善じゃないって、いったい誰が決めたんだろう。

 変われない私達には理由がある。

 未来は「どうにかして変えていくもの」でも「私が変えていきたい」ものでもなく、「何もしていないのに変わっていくもの」だ。否応無し、という言葉がまるでお似合いだ。

 自分より遥かに大きい定規を用いて、「変えていこう」というのはとても聞こえが良い。「変えれば私だけじゃなくてあなたも得をするから」なんて言って。酔ってしまっても気すら付かないほどに、それはありきたりだ。

 「私と一緒に」変えていこう。その言葉は使命感の具現化だろうか。

 そうだとしたら余りにもどうしようもない。


 「今」をよりよくする方法なんてない。「明日の他人」を変える方法なんてあったら困るんだよ。あるわけないだろう。

 今日までの世界で一番上手くいった日が今日で、一番最低だったのが今日だ。二番にも三番にも成り得ない。それは今日という存在は圧倒的に一日しかないからである。今という瞬間は表すことができないほど微かで、その瞬間がある日が今日だ。どんなに昨日とも明日とも地続きだとしても、今日は今までで一番の日だ。

 どんなにタラレバ話をしても今日を撮り直すことはできない。

 残酷な話をする。正義が如何に無力かという話を。赦してくれるだろうか。

 「今」は、正義が目を逸らしている現実だ。正義は「今」に近づけば近づくほど無力で無意味である。「今」に余りにも対立する概念だからこそ、それはわざわざ「正義」と名付けられたのだ。

 「正義」は今この世界に存在しないし、「今」ある世界は正義で動きえない。

 「今」は余りにも汚事でできている。私達は、生きている瞬間だからこそ、そう思わざるを得ないのかもしれない。自分のことのほうが醜く見えて仕方がないように。

 私達は汚事を手放すことができない。周知の事実だ。「今」が成り立つ理由は、どんなに社会全体で綺麗事の理想像が示されても、私達が汚事で得をしてしまっているからだ。

 そもそも、「今」のことを間違えていると形容するほうが可笑しいのだ。「今」に至る過程があって、「今」が成立しているのであればその時点で、「今」は間違えであってはならないだ。間違えであろうはずがない。むしろ恐ろしいほど最適なバランスだ。

 綺麗事が「今」でないことには明確な理由がある。必ずある。その理由自体は綺麗でないことが殆どだけれど。いや、理由が汚いからこそ建前が綺麗事になってしまうのだろう。それは余りにも即物的で、執拗な狙いだから。

 

 「変えたい」と言うことは余りにも危うい。

 「今」を形作る要素を考えもせずに人の正義に訴えるのはバカバカしいと、

 あなたはそうは思わないだろうか。

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