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蓑虫山人ーー偉人でもない、立派でもない、有名でもない。この人物を知って欲しい理由。

蓑虫山人、本名は土岐源吾。虫の蓑虫が家を背負うように折りたたみ式の幌(テントのようなもの)を背負い、幕末から明治期にかけて全国を放浪した絵師。美濃国(これも蓑虫の名前にかかっている)、今の岐阜県安八郡結村で生まれ、64歳で名古屋の長母寺にたどり着き、半年後、近くの別のお寺に風呂を借りに行き、風呂上がりに昏倒しそのままこの世を去った。享年65歳。脳溢血だったのだろう。

蓑虫(親しみを込め、こう呼ばせていただく)との最初の出会いははっきりと覚えていない。しかし、縄文好きの中では「知らない人物」ではない。東北の縄文を見に行ったり調べたりすると、たまーに、目の端に蓑虫の描いた土偶の絵がちらちらして、なんだかこの土偶かわいいなぁと思っていたりした。そんなわけで、実は気になる人物でもあったのだ。

数年前、縄文ZINEに写真を載せてもらう依頼をするために、写真家の田附勝さんと新宿の喫茶店フォーレストで打ち合わせをした時に、ひょんなことから田附さんから蓑虫山人の名前が出た。「気になるんだよ蓑虫山人」。と、腕に入れている蓑虫山人の描いた土偶のタトゥーを見せてくれた。内心「この人ヤバい」と、おののきながらも意気投合し、そのうち一緒に東北行こうよと、気軽に約束した。

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(写真:田附勝)

そうなるとさらに気になってくるもので、蓑虫山人の資料を探しまわり始めることになる。と言ってもすぐに手に入る資料はほとんどなく、だいたいは国会図書館などで探して読んだり高いコピーをとったり。そのうちに、数行しか記述のない地域の郷土集にまで手を出した。

そんなこんなで高まった蓑虫山人熱を受け止めてくれたのが雑誌 Discover Japan だ。はれて取材という形で各地に行けることとなった。もちろん田附さんも一緒だ。
「蓑虫山人のオン・ザ・ロード」隔月で連載中です。

で蓑虫の取材。彼の菩提寺である長母寺に取材を依頼した時の話。住職がぽつりと言った言葉が印象的だった。
「ーーそんなにすごい人なんですかね」
そう、蓑虫山人は決して立派な人物では無い。

蓑虫の放浪は14歳から始まる。60歳を気に故郷に戻ることを決めるまで46年間という長い時間を旅の空で過ごすことになる。だからこその工夫がその笈となったのだろう。
放浪と言っても彼の旅には目的があった。「珍しいものを見たい」、「驚くような景色を体感したい」、そのために各地の素封家の家を訪ね、そこを起点に各地を見て渡り、一宿一飯の恩義として絵を描き、また別の「驚き」を求めて旅立つ。その様子はプロの観光家と言っても良いだろう。
目的の先、蓑虫山人には夢があった。20代、今の大分県で出会った筧白雅(医師であり文人)という人物と意気投合し、その夢を語っている。
博物館を作りたい。日本中の珍しいもの面白いものを集めてみなに見てもらいたい。その夢は実に65歳で死ぬまで変わらない悲願でもあった。
そして蓑虫山人は何も成し遂げずに死んでしまった。

その過程でさまざまな逸話を残している。西郷隆盛を助けた逸話や、あの遺跡であの土偶を掘り出した話(蓑虫山人は東北で縄文に出会い、その後、土偶とともに旅をするなど、土器や土偶に夢中となる)、公園を作ったり、各地の景勝地を宣伝したり、殺し屋⁉︎と遊んだり。それ以上に変人然としたユニークな逸話が多い。それらの話は現在連載中の記事を読んでもらえたら嬉しい。大笑いと言うよりは「苦笑」が似合う、本当かどうかわからない、どうにも信用しきれない、そういう男なのだ。
付け加えると、いろいろなものの先駆けでもある。博物館設立計画、それ自体が誇大であったとしても当時としてはずいぶん先進的な考え方だ。東北では縄文を中心とした展覧会を開いて人を呼んだりとその誇大さには実行力の裏付けがあった。また、各地の景勝地を絵に描いて、文人仲間や世間に紹介し広める、まるでインスタのインフルエンサーのようでもあった。思いついたら「やってみる」姿勢は、ユーチューバーのようでもあり、そのスタイルは住所を持たないアドレスホッパーで、家を持ち歩くその旅はモバイルハウスやスモールハウスのようなミニマルなライフスタイルをいち早く実践している。

蓑虫山人はたいへんな絵日記家でもあり、たくさんの絵日記を残している。蓑虫山人の絵日記はすこぶる楽しい。とんでもなく絵が上手いわけでもないし絵日記なので丁寧に描いているわけではないのだけど、「なんかいいなぁ」と言ってしまう味がある。蓑虫山人の万年夏休み的な絵日記は世の小学生の参考にもなるんじゃないかとも思う。画題は常にポジティブで日常の喜びや驚きに満ちている(宴会の絵がめちゃくちゃ多い)。それらをながめていると、蓑虫の人生も悪くないなと誰もがそう思うだろう。

しかし、ことはそう簡単ではなかったことは容易に想像できる。幕末、家という庇護を離れた14歳の少年がストリートで生きていくのは簡単ではない。明治になり大人になったとしてもその生き方は誰でも真似できる簡単なものではない。ちょっとした嫌なことから命の危険まで、色々あっただろう。人の嫌な面を見ることも少なくなかっただろう。それでもそういう生き方を選び、いくらでも身を落ち着けることのできる機会があったはずなのにそれを続け、自身の夢を最後まで夢見て歩いていたのだ。

現代社会で、蓑虫山人のような格好をした男が、「一晩泊めてくれないか」と訪ねてきたとしたら、どれだけの人が受け入れてくれるだろうか。
定職にもつかず、お金もない。ただ好きなことをするために好きな生き方をして、声は大きく(よく通るよい声だったとの話も)、冗談が好きで、格好と行動は奇抜で、そのくせ風流に通じ各地のことに博識。

僕らはこんな生き方があってもいいと思っている。
偉人でもない、立派でもない、有名人でもない。何も成し遂げずに死んでしまった。それでもこんな生き方に憧れる。人と違っても、お金を全然稼がなくても、世間に多少なりとも迷惑をかけたとしても、こういう人がいるから世の中は確実に面白くなるんだと思う。そのことは、映画『男はつらいよ』シリーズが好きな人だったらきっとわかるだろう。
だから僕たちは蓑虫山人にあこがれ、蓑虫山人を知ってもらいたいと思っている。

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(写真:田附勝)

蓑虫山人の絵日記はポジティブな絵ばかりかもしれない、しかしそれはポジティブなことばかりが彼の周りでおきたわけではない。描けなかったことや、描きたくないことだってあったのだ。楽しい絵日記の裏側の蓑虫の人生を知りたい。そう思って取材をし続けている。


さいごに勝海舟が蓑虫を詠んだ歌を一首
「あぶら虫根切り虫多き世の中にひとり蓑虫かくれてぞ棲め」

ぜひ、「蓑虫山人のオン・ザ・ロード」読んで欲しい。一緒にまわっている田附さんの写真も見てほしい。そのものの量感にあふれ、時折するどい何かを突きつけてくるヤバい写真ばかりだ。連載がまとまったら一冊にするのでそちらもぜひ。


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