遭遇
偶然と偶然が織りなすもの
中学生の頃の話。9月に体育祭があり、その後には合唱祭が行われた。
合唱祭ではクラスごとにポスター絵を描かなくてはいけないらしく、各クラスから一人描く人が選ばれた。その話しの後、担任から名前を呼ばれ、案の定描いてくれと頼まれて、私が描くことになった。本来であれば放課後は部活に行っていたところだが、それからしばらくはポスター制作に取り掛かることになったのだ。
学校が終わり、放課後、美術室へと向かう。美術室にいくと、各クラスから一人ずつ制作担当の人がすでに何名か来ていた。私の席は窓側の一番後ろなので、ポスターもそこで描くことにして、さっそく準備に取り掛かる。美術の先生もいて、もちろん顔なじみの先生で、私が来たことに驚かなかった。というか指名したのはこの先生ではないかと思う。
放課後の、西陽の差すーオレンジ光が照らす静かな美術室に、えんぴつを走らせる静かな音だけが響き渡る。すぐ隣は校庭なので、時折り陸上部の連中が美術室の前を駆けていく。野球の元気な声や、その奥にあるテニスコートからもボールの打ち合う音やかけ声がかすかに聞こえてきていた。
私も普段はそのテニスコートにいるが、今がなんとも心地いい。喧騒から離れて、静かで隔離された場所で自分のやるべきことにひとり集中する。こんないい環境は他になかったと思う。作業ははかどった。
その後、制作したポスターは賞を貰い合唱祭も無事に終わったが、私にはあの西陽の差す放課後の美術室での制制作体験こそがなによりもプレゼントだった。今でもよき思い出として残っている。
自分が良いと思うものがなんなのか。自分の価値観はなにかとよく考えるが、私が良いと思うものは偶然と偶然が織りなす、体験に由来する–
ある日、買い物を終えて車を運転しながら帰路にいた。
途中、信号で止まるとそこは橋の上で、季節は秋頃だった。ふと横を見ると橋の下に沢山のふさふさとしたススキがゆったりと風に揺れていた。その動きはどこか優雅で、夕暮れの赤い日光に照らされて幻想的にすら見えた。なんとも綺麗な光景に見惚れていると、橋の向こうからおばあさんが歩いてきて、そのおばあさんもふと横を見たくなったらしい、ちらり、と見た後に、今度は身体の向きごとススキに向かってしばらく眺め、そして、おもむろに手をポケットに突っ込んだかと思うとスマホを取り出して写真を撮り始めたのだ。
その一連の流れを車の中から見ていた私は、おばあさんの心の動きが手に取るようにわかって笑みがこぼれた。
風情のある光景、夕暮れのサーモンピンクと濃いオレンジのグラデーションの空。心地いいそよ風、揺れるススキ。完璧ともいえる風景だった。もしここにゴッホがいたら、絵に描いたかもしれない。そんな風景と、おばあさんと、赤信号で止まっていた私。それから青になったので走り出して家に帰ったけれど、今日はよいものを見た、と思った。
なんてことないものなのに、とてもよい気分になって、穏やかで、心地がいいもの。なんてことないことなのに、とても素敵だと思えるものがある。私がよいと思うものは、こういった偶然と偶然が織りなす、...それはタイミングだったり、季節だったり、視覚的な美しさや心地よさだったりする –それらが複合的に混ざり合い、重なり、調和する。その偶発的な瞬間に、たまたま居合わすというラッキー。あの時間に買い物に出かけたから、夕陽が綺麗だったし、信号で橋の上に止まったのも偶然だし、おばあさんが歩いてきたのも、ススキが生えていたのも、季節的にもタイミングがよかった。全ての小さなことが重なった時に、絵のような瞬間が作り出され、その中に自分がいることの不可思議さと光栄が、たまらなく嬉しい気持ちになる。
日々にこういう瞬間がたくさんあればいいのに、と思っている。というか、そういうものじゃないと、なかなかよい体験をした!良いものを見た!とは感じられない。
私という確固としたものはなく
五つの要素で成り立つ
色=この世を使ってる物質要素
全ては空であり実態を持っていない
物質とはつまり概念だから空である。
色即是空は宇宙観を表している
変化すること移ろいゆくものは美しい
その中であと何度心を奪われる瞬間に遭遇するか
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