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敬老の日という無礼

日本独特のコンセプト、敬老の日がまた巡って来ます。

先年亡くなったイタリア人の義母が間もなく90歳になろうとしていた頃、日本には「敬老の日」というものがある、と会食がてらに話したことがあります。

義母は即座に「最近の老人は私を含めてもう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と一刀両断、脳天唐竹割りに断罪しました。

老人は適当な年齢で死ぬから大切にされ尊敬される。いつまでも生きていたら若い者の邪魔になるだけだ、と義母は続けました。

そう話すとき義母は微笑を浮かべていました。しかし目は笑っていません。彼女の穏やかな表情を深く検分するまでもなく、筆者は義母の言葉が本心から出たものであることを悟りました。

老人の義母は老人が嫌いでした。老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい、というのが彼女の老人観でした。

そしてその頃の義母自身は筆者に言わせると、愚痴が少なく自立心旺盛で面倒くさくありませんでした。

それなのに彼女は、老人である自分が他の老人同様に嫌いだというのです。なぜならいつまで経っても死なないから。

筆者は正直、死なない自分が嫌い、という義母の言葉をそのまま信じる気にはなれませんでした。それは死にたくない気持ちの裏返しではないかとさえ考えました。

義母は少し足腰が弱かった。大病の際に行われたリンパ節の手術がうまく行かずに神経切断につながったのです。ほとんど医療ミスにも近い手違いのせいで特に右足の具合が悪くなっていました。

足腰のみならず、彼女は体と気持ちがうまくかみ合わない老女の自分がうとましい。若くありたいというのではない。自分の思い通りに動かない体がとても鬱陶しい。いらいらする、と話しました。

もう90年近くも生きてきたのだ。思い通りに動かない体と、思い通りに動かない自分の体に怒りを覚えて、四六時中いら立って生きているよりは死んだほうがまし、と感じるのだといいます。

そういう心境というのは、彼女と同じ状況にならない限りおそらく誰にも理解できないのではないでしょうか。体が思い通りに動かない、というのは老人の特性であって、病気ではないでしょう。

そのことを苦に死にたい、という心境は、少なくとも今のままの筆者にはたぶん永遠に分からない。人の性根が言わせる言葉ですから彼女の年齢になっても分かるかどうか怪しいところです。

ただ彼女の潔(いさぎよ)さはなんとなく理解できるように思いました。彼女は自分の死後は、遺体を埋葬ではなく火葬にしてほしいとも願っていました。埋葬が慣例のカトリック教徒には珍しい考え方です。筆者はそこにも義母の潔さを感じました。

また義母は将来病魔に侵されたり、老衰で入院を余儀なくされた場合、栄養点滴その他の生命維持装置を拒否する旨の書類も作成し、署名して妻に預けていました。

生命維持装置を使うかどうかは、家族に話しておけば済むことですが、義母はひとり娘である筆者の妻の意志がゆらぐことまで計算して、わざわざ書類を用意したのです。

義母はこの国の上流階級に生まれました。フィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきました。学問もあり知識も豊富でした。

彼女が80歳を過ぎて患った大病とは子宮ガンです。全摘出をしました。その後、苛烈な化学療法を続けましたが、彼女は副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をひとことも愚痴ることがありませんでした。

義母は90歳になんなんとするその頃までは、毎日を淡々と生きていました。

理知的で意志の強い義母は、あるいは普通の90歳前後の女性ではなかったのかもしれません。ある程度年齢を重ねたら、進んで死を受け入れるべき、という彼女の信念も特殊かもしれません。

だが筆者は義母の考えには強い共感を覚えました。それはいわゆる「悟り」の境地に達した人の思念であるように思いました。理知的ではありませんでしたが、悟りという観点では筆者の死んだ母も義母に似ていました。


日本の高齢者規定の65歳を過ぎたものの、当時の義母から見ればまだ「若造」であろう筆者は、この先運よく古希を迎えさらに80歳まで生きるようなことがあっても、まだ死にたくないとジタバタするかもしれません。

それどころか、義母の年齢やその先までも生きたいと未練がましく願い、怨み、不満たらたらの老人になるかもしれない。いや、なりそうです。

そこで義母を見習って「死を受容する心境」に到達できる老人道を探そうかと思う。だが明日になれば筆者はきっとそのことを忘れていることでしょう。

常に死を考えながら生きている人間はいません。義母でさえそうでした。死が必ず訪れる未来を忘れられるから、人は老境にあっても生きていけるのです。だが時おり死に思いをめぐらせることは可能です。

少なくとも筆者は、「死を受容する心境」に至った義母のような存在を思い出して、恐らく未練がましいであろう自らの老後について考え、人生を見つめ直すことくらいはできるかもしれません。

自らでは制御できない死の時期や形態を想像して「いかに死ぬか」を考えるとは、つまり、いかに生きるか、という大きな問いを問うことにほかなりません。

義母は当時、足腰以外はいたって元気でした。身の回りの世話をするヘルパーを一日数時間頼むものの、基本的には「自立生活」を続けていました。そんな義母にとっては「敬老の日」などというのは、ほとんど侮辱にも近いコンセプトでした。

「同情するなら金をくれ」ではないが、「老人と敬うなら、私が死ぬまで自立していられるようにちゃんと手助けをしろ」というあたりが、日本の「敬老の日」への批判にかこつけて彼女が僕ら家族や役場、ひいてはイタリア政府などに向かって言いたかったことなのでしょう。

言葉を変えれば、義母の言う「いつまでも死なない老人を敬う必要はない」とはつまり、元気に長生きしている人間を「老人」とひとくくりにして、「敬老の日」などと持ち上げ尊敬する振りで実は見下したり存在を無視したりするな、ということだったのだろうと思うのです。

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