恋に生かされている

私は、恋というものに生かされている気がする。
だが、恋に生かされるとは他人に生かされているようでどうにも、納得はしたくないものだ。それでも、私は恋に生かされているのだ。
誰かを必要とすることで、生きている。私は私自身の価値では生きていけない人間なのか。そんなふうに考えていると、心が参ってしまうものだが、大切な人の為に生きていると言えば、少しだけ気分も良くなるというものだ。
私の人生は、恋多き人生と言っていいだろう。惚れやすい人間、言い換えれば人のいい所を見つける天才なのだ。
人のいい所を見つけるのはうまいくせに、自分のいい所を見つけるのは下手くそなのだから、少しは自分を見つめ直すべきである。
他人に褒められる時、変な人ですね。と褒められる。
それは褒めているのだろうかといつも思うのだが、女性達はそれがいいらしい。女性達と言うと主語が大きくなりすぎているが、僕の関わる女の人で、僕のことを少しでも好意的に見てくれている人達のことだ。こうすると、主語が小さくなりすぎた気もするが、まあ、人望というものだろう。仕方の無いことだ。

私は恋に生かされていると言ったが、恋をしていない間は、生きていないのかと問いたくなる。
きっと、生きているのだ。生命としては生きている。人としても生きている。個人としても生きていると言っていい。だが、何を目標に生きているのだろうか。無意味に生を謳歌しているのだとしたら、それは謳歌ではなくただそこに在ると云うだけなのだろう。
それでも、人は在り続ける。僕も他の人も、様々な生きる理由があり、生かされている理由があり、無意味な時間を過ごす。誰だろうと変わらないのだ。
そう。僕が恋に生かされているのではない。人が恋に生かされているのだ。
それは恋ではないとしても、愛に生かされるのだ。親からの愛、親への愛、友人からの愛、友人への愛、恋する人からの愛、恋する人への愛。そういった誰かから想われているという事実に僕達人間は生かされている。
人は愛を失うと生きる気力すら失うのだ。
だから、僕らは一生を駆けて恋を探し愛を探す。何にも代えることの出来ぬ、形のない宝物を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?