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高三、今の私について

誰にも読まれないブログだろうけど、私はそれでよい。

というか読まれなくて別に構わない。
延々とどうでもよいことしか書いていないから。



ギリギリジェーケーな私について

18歳、高校3年生。
つまり世間で言うところのジェーケー。

一応ジェーケーなんだけど、ジェーケー特有のフレッシュさをもう持ち合わせていないと自分でよく思う。

盛りに盛ったプリクラをインスタのストーリーにあげ、閲覧数やいいねの数で満足するあの行動はもうどこが面白いのか分からない。
学校祭や体育祭などのイベントものは大体一人で行動するけれど、もうその孤独が心地良い境地に至ってしまった。
気になる人について友達からどうでもよい情報を聞き出し、一人で妄像したり喜んだりして眠れなくなるあの甘酸っぱい気持ちももうどっかにいった。

また学校なんかに行くためにわざわざ朝時間をかけてお洒落をする気力はとっくのとうに失せているため若々しい感じは全くなく、制服を着ていなければお酒を買ってもバレないであろう感じの風貌。
そして友達少ない、ほぼ無言、年中Yahooニュース見ながらぼっち飯、休み時間は図書室へ速攻で駆け込み教室の喧騒から避難。

さてはコイツ陰キャだなと思った方、ご明察。陰キャの部類に属しています私。だってそれが心地良いんですよね〜。むしろ皆私に構わないでくれてありがとう。

こんなんだからもう自分のことをジェーケーだと思えない。いや思ってしまったら世間一般のキラキラジェーケーに対してなんだか申し訳ない。
そういえば春休み明けに制服に袖を通したらコスプレしている気しかしなかった。

私の心が昔より少し大人に近づいたのかな、いやもう中身はジェーケーなんて可愛いもんではなくオバハンかもな、なんて思う今日この頃。



好きな食べ物は長崎名物・皿うどん

修学旅行で長崎に行き、現地で初めて口にしたのが皿うどんだった。
その日は北から南への大移動で、心身共に疲労していたこともあり、皿うどんが最高に美味しく感じた。
あのパリパリの麺と野菜たっぷりのあんかけ、一緒に食べると超美味しい。
いつもの仏頂面の反面、心の中では旨ーーーーッと感動していた。
またいつか、食べたいな。



趣味は部屋の片付けと掃除

ミニマリストなので部屋は常に片付いているし、必要最小限しか物を持っていない。

ミニマリズムって良い。
「Less is more.」という少なさを豊かさと捉えるこの言葉が好き。物が少ないからこそ、残された数少ない物をより大切にできるという考え方が好き。何より、シンプルかつミニマムな空間が快適すぎて好き。

そういう訳で、部屋を片付けることをはじめ、どうしたらもっとミニマムに生きていけるかを考えたり工夫したりすることが好き。

最近ミニマリズム的思考が昂り、学校の教科書や受験に使う参考書を断捨離のふるいにかけようとしてしまった。流石にヤバいと思いとどまったものの、危ない危ない。


あと、エロが好き

普通にそういうことに興味・関心がある。

皆そんなことに関心なさそうな顔をして平然と生活しているけどさ、本当は好きなんじゃないの?え、私だけ?

私も真面目そうな風貌をしている癖して実は結構変態な皆さんのうちの一人です。え、私だけ?(2回目)

そんな変態な私(注:自分では普通だと思っている)は大学生になって時間と余裕が生まれたら、性に関することやエロティシズムについて一から学ぼうと非常に意欲的。
学校の勉強は押し付けられてやっているようなもんだからあまり吸収がよろしくないけれど、エロに関することなら一発で覚えられる自信しかない。いや何だそれ。

そういえば最近、「明日世界が終わるとしたら何をするか?」というよくあるテーマについて考えていた。
私はあれこれ悩んだ末、セックスをしようという結論に至った。
世界が朽ち果てる寸前、まだ死にたくないッ!!と悪足掻きしながらくたばるのと、昨日の夜は最高のセックスだったなと幸せな気持ちで安らかに死んでいくの、どっちが良いと思います?私は断然後者ですね〜。

もちろん他にも過ごし方はあるだろうけど、やっぱりどう考えてもセックス一択だよな?うん。皆も恥ずかしいから口に出さないだけで、内心きっとそう思っているに違いない。てか他に何すんの?

____と授業中にそんな思いに耽っていた私ですが、完全なるアホですね。まずちゃんと授業に集中せえ。

というかnoteという詩を書く人がいるような美しい神聖な場所で、こういった類の話を語ることは実に有るまじき行為ですね。何を今更…という感じですけれどもね。大変失礼しましたと一応言っておこう。これで大丈夫なはず。


好きな音楽は何?

と人に聞かれると、いつも何て答えるべきか分からなくなる。自分の大好きなものについてあまり易々と知られたくない気持ちがある。それは音楽だけに留まらず、本だったり人だったり。
話に花が咲いて楽しいコミュニケーションに繋がるかもしれないのだから、さっさと自分を開示してしまえばいいのだけど。しかしなぜだか自分の聖域に土足で踏み込まれるような感覚がして、いつも適当にはぐらかす。あまり親しくない人だと特に。にしてもなんて素直でない性格。

話が脱線したけれど、私には昔も今も大好きで、これからもきっと永遠に愛するだろうと思っている人が何人かいる。片手で数えられる程の。またはぐらかしたなコイツ。

と言ってもたまにしか聴かない。超がつくほど大好きな曲は敢えて高い頻度では聴かないようにしている。
毎日お気に入りの曲を好きなだけ聴くというのは、それはそれで幸せ。ただ、そうすると私はいつの間にか音楽を嗜んでいるのではなく、ただ消費しているだけという状態になってしまう。それが嫌で、好きなものに対して敢えて素直でない姿勢をとっている。
音楽自体がただでさえ魅力的なのに、たまに聴くと特別感があり、それが相まって心がすごく震える。
そんな距離感が、割と自分に合っている。
まあ、何事も加減が大事だよねと言う話。別に無理して聴くことを我慢している訳ではないとは一応断っておく。

音楽って良い。
この世界の何もかもがモノクロにしか見えない、何も感じないし希望もない。そんなときでさえ「人生捨てたもんじゃない」と思わせてくれるような、不思議な美しい力を持っている。モノクロな世界に色彩を与え、救い出してくれたのはいつも音楽だったと思う。

音楽理論も大学生になったらちゃんと勉強したいことの一つ。「ナントカメジャーセブンス」とか「ナントカ進行」とか、カッコいい用語を使いこなせるようになりたいという理由から。
吹奏楽を小中高とやっていたのに何のことだかさっぱり分からないのは、そういう理論的なところを仲間に全てお任せしていたせいだ。

ただ本当に知りたいのは、音楽の深層的なところ。
どこが良いのか、何が自分をそうさせるのか。きっとそこに論理があるはず。この説明出来ない感情の揺らぎを、明快に論理で解き明かしてみたい。
人の感情を揺さぶることができる音楽について、私は一からちゃんと知りたい。



座右の銘は「困難は分割せよ」

中学一年生の国語の教科書に、井上ひさしさんの「握手」という小説がある。この言葉は小説内のルロイ修道士という人物が発した言葉。
元は哲学者デカルトの「困難なことはすべて、扱うことができ、解決が必要な部分へと分割せよ」だそう。

無理難題や上手くいく自信がない物事に直面したとき、この言葉をいつも思い出す。
悩んでる暇があったら困難を分割してみる。小さくなった困難を一つひとつ解決していく。それらを少しずつこなしていけば、大きな困難もそのうち解決できる。そんな考え方を私は大切にしたい。

困ったときに救ってくれるのは、人の温かさや思いやりであることも沢山ある。ただそれと同じくらい、論理的思考が解決へと導いてくれることもある。しかも、感覚的にはそちらの方がより軽やかに物事が運ぶ気さえする。

私は困ったことがあっても、論理立てて解決方法を導くということあまりを自発的にできない。フィーリングや直感で物事を考えがちな人間だから、こうやって論理で鮮やかに解決しようとする言葉はすごく頼りにしている。



まだ書きたいところだけど、流石に長いからこの辺でやめておこう。


…最後まで読んだ人なんてまさかいないでしょうね。

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