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数珠のように繋がる命

祖母が昔話をしてくれた。

普段はバーさんコミュニティの内輪ネタを延々と聞かされるから適当に聞き流していたのだけど、この昔話は自分にとって初耳であることが多く、またそこから得た気づきがあったので書き留めておこうと思う。
この話の前半は恐らく、私以外の人にとっては面白くも何ともないものだろうけども。まあもし興味があったらどうぞ。

祖母は1940年代後半生まれ。
その祖母の祖父、つまり私の高祖父(ひいひいじいちゃん)にあたる人は、軍人で戦時中かなり地位の高い身分だったんだそう。満州に行ったものの生き延び、戦後戦犯として捕えられることを免れた高祖父は、その後の人生を戦争で苦しい思いをした人々のために捧げたらしい。

時代は下がり、祖母が子育てをしていた頃。
私の祖父は他所で女をつくり不倫をしていたそうで、家庭は崩壊寸前だったと。祖母はそんな男と結婚したことを後悔していたらしい。
祖母の人生は、ある時までずっと自殺を考えていた人生だったそう。理由はこのことだけでなく、私の想像にも及ばないものが沢山あったのだと思う。祖母は苦労の多い人生だったみたいだから。

さらに時が流れ、東日本大震災が起こった2011年。
祖母は宮城に住んでいた。幸いにも住まいが津波の来ない地域にあったので命は助かったものの、ボランティアとして復興に携わる中、沢山の遺体やその遺族の悲痛を目の当たりにした祖母は、やはり大きなショックを受けたらしい。


さて。ここまで脈絡のない話を幾つかしてきたけれども、これからその伏線を回収していこう。

この祖母の昔話を聞き、私はこんなことを思った。

私という人間、それはただ単に父と母が偶然に出会い、その二人の間に生まれた一人間に過ぎない。ただそう思っていた。
その二人が生まれるまでにもまたそのような偶然の出会いが、そのまた四人が生まれる前にも…ということに想いを馳せることなんてしたこともなかった。

けれども祖母の昔話から分かるように、自分は父と母なんていうそんな規模の小さい人間関係から突然産み落とされた存在ではない。

計り知れない数の人々の、幾重にも重なった感情や想い、選択が想像の域を超えて複雑に結び付いてゆく。

それが正の感情であれ、負の感情であれ。良い選択であれ、そうでない選択であれ。
こと人と人との連鎖においては、全ての事柄に意味がある。
何か一つでも欠けたなら、それはまた程度の差はあれども違った運命を辿る。

そのようにして人は人と関係を持つようになり、ある人は人を産み、育て上げ、皆最後には死んでゆき、また次の世代がそれを繰り返す。

想像できないくらい大昔から始まったその数珠繋がりの一番端っこ、それが私という存在。

お父さんお母さんが私を産んだのではなく。
数多の人間の想いが、私を今ここに存在させている。

高祖父が戦争で死んでいたら。祖母が祖父と結婚しなかったら。祖母が自死を選んでいたら。

その数珠は、今日のような数珠ではなかったんだろう。
そして私も、今日存在していることなどなかった。

もし人が生きる意味を、「子孫を残すため」と生物的に捉えるのなら。

今日を生きることができている私は、数珠のように連鎖したそのあまりにも多くの人たちの「生きた意味」となり得る。

非常に自分本位な考え方ではあるけれど、私はそう思いたい。その方が、私のような取るに足らない小っぽけな存在にも意味があると思えるから。


祖母は東日本大震災の経験について話をした後、

「ばあちゃんはね。その時思ったのよ。もう死にたいとは思わないって」

と言った。

私はその場にいた訳ではないし、命の尊さを祖母ほどには分かっていないけれど。でも、私もそう思おうと感じた。

生きるのが嫌になることもそりゃあるよ。
だけど私が生きる意味が、過去の人々の想いや願いであるのなら。
私はそれらを背負い、深い重みをしっかりと感じながら、最期まで生きていくべきではないか。それが、私が一生涯かけて果たすべき責務ではないか。

それならば死にたくなっても、心臓が動かなくなるその時までは生きてみよう。そう思った。



しかし本当に苦しい時、死にたいとさえ思う時、大抵こういう話は全く心に響かない。

でも、死にさえしなければ大丈夫だよ、と未来の自分に今は一言だけ言付けしておこう。

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