ハーシム家
ハーシム家要約(世界史の窓より):メッカのムハンマドの出身一族。20世紀のその子孫、フセインはオスマン帝国(1299-1922)でメッカの太守に任命されたが、イギリスとフセイン=マクマホン協定を結び、1916年に「アラブの反乱」を起こしヒジャーズ王国を建てた。その子たちは、イラク王国、ヨルダン王国の国王となった。
アラビアのヒジャーズ(聖地メッカやメディナを含む地方)で遊牧活動をしていたベドウィンの中のクライシュ族の有力な12家の一つの豪族で、ムハンマドの出身一族とされる名門。アリーから数えて第38代にあたるのがフセインであった。
ヒジャーズ地方がオスマン帝国(1299-1922)ハーシム家の支配下に入ったため、ハーシム家もそれに従い、フセイン(フサイン)はオスマン帝国からメッカの太守の地位を与えられた。第一次世界大戦でオスマン帝国がドイツ側に参戦すると、イギリスと結んで反乱を起こすことを決意、1915年7月14日にイギリスの高等弁務官マクマホンとの間でフセイン=マクマホン協定を締結し、戦後のアラブの独立の保障を取りつけて、1916年6月5日オスマン帝国に対する「アラブの反乱」に起ち上がった。アリー、アブドゥッラー、ファイサルらの子供たちも父と共に戦い、各地でオスマン軍を破った。フセインの軍勢はイギリスの後押しで勝ち進み、フセインはヒジャーズ王国を建国した。さらに三男ファイサルはヒジャーズ軍を率い、イギリス軍の協力もあって1918年にはダマスクスを征服し、アラブ人の念願である大シリアの復興を実現しようとした。
しかしアラビア半島の内陸ネジュド(ネジド)にはリヤドを本拠とするサウード家のイブン=サウード(アブドゥルアジーズ)がワッハーブ教団系の武装集団と結んで徐々に勢力を伸ばしていた。イギリスはイブン=サウードに対しても軍事支援を行い、アラブの両勢力を戦わせた。
さらにそれだけでなく、イギリスは第一次世界大戦中にバルフォア宣言を出してユダヤ人に戦後の国家建設を約束した。また、イギリス・フランス・ロシアはサイクス=ピコ協定を結び、大戦後のオスマン帝国領の分割を密約していた。
オスマン帝国降伏後、アラビア半島の主導権を巡るヒジャーズ王国ハーシム家のフセインとネジュド地方を基盤とするサウード家のイブン=サウードの戦いは、後者の優位で進んだ。イブン=サウード軍はメッカに迫まり、フセインはやむなく長子アリーをヒジャーズ王の後継者に指名して、アカバに退いた。10月16日、イブン=サウードはメッカに無血入城、翌年ハーシム家のヒジャーズ王国は滅亡した。フサインはアカバからイギリス軍に保護され、キプロスに亡命した。
フセインには長男アリー、次男アブドゥッラー、三男ファイサル、四男ザイードがいた。第一次世界大戦後にイギリスが委任統治とすることになった西アジアをおさえるために、フセインの子供たちを利用しようとした。
イギリス・フランスは、大戦中のサイクス=ピコ協定の密約を優先し、シリアの分割にのりだした。ファイサルは「大シリア立憲王国」の独立を宣言し、1920年3月8日にダマスクスでアラブ民族会議を主催、自らがシリア王となることを承認された。 しかし、イギリス・フランスはすでに第一次世界大戦中にサイクス=ピコ協定を結んでおり、同年4月にはイギリス・フランスなど戦勝国はサン=レモ会議で大シリアを分割してイギリス・フランスの委任統治とすることで合意した。7月にフランス軍はダマスクスを攻撃してファイサルを追い出し、ここに大シリア立憲王国は崩壊した。
イギリスは、フセイン=マクマホン協定でアラブ国家の樹立を約束した経緯があるので、ファイサルを保護し、バグダードに移してイラクの国王とした。フランスと分割したアラブの地をさらに分割しフセインの子供たちに与えた。紆余曲折の末、ファイサルはイラク王国、アブドゥッラーはトランスヨルダン王国として落ち着いた。
しかしこのうち、長男のアリーはヒジャーズ王国を継承したがイブン=サウードととの戦いに敗れて1925年に滅んでおり、ヨルダン(旧トランスヨルダン)のアブドゥッラー王も1951年にパレスチナ人に暗殺された。イラクのファイサル王は1933年に死去、後継のファイサル2世は1958年のイラク革命で殺害されてハーシム王家は滅び、イラクは革命によって共和国となった。ヨルダン王国だけはアブドゥッラーの子のフセインが王位を継承し、王政を維持している。つまりハーシム家の王統で現在まで残っているのはヨルダン王国だけとなった。
まとめ
ハーシム家はクライシュ族の、ムハンマドの出身一族とされる名門
38代がフサインマクマホン協定で有名なフサイン
現在の中東各国の国境は第一次世界大戦のイギリスの中東分割に際し
1)サウジアラビア フサイン長男アリ―がヒジャーズ王国(現サウジアラビア)の継承をしたが、現代に残るサウド家イブン=サウドとの闘いに敗れ(1917年~1925年)、ヨルダン王国に合流、サウド家の統治になったサウジアラビアの誕生
2)トランスヨルダン フサイン次男アブドゥッラーが継承、第三次中東戦争時にイスラエルからパレスチナ人が大量に移入し、暗殺されたためその息子のフセインが王位継承し現代のヨルダンに残る
3)シリア フサイン三男ファイサルが大シリア立憲王国を掲げて統治を試みたがサイクスピコ協定につきフランス統治に切り替わり、ファイサルはイギリスの保護にて首都をバグダードに移してイラクの国王になった
4)イラク フサイン三男ファイサルがシリアを追われたあとに国王に君臨したが1958年のイラク革命で殺害されイラク共和国になった
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