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「老後」は消えゆく概念なのか?その2 -ネオ老後世代の戦略的終活論

承前ということで、それじゃ老後=健康寿命が尽きた後、死ぬまでの数年の間、どのように過ごせればいいのか?と思うのです。働けないし、自由に動けないし、どうなっちゃうんでしょうね。この状態を仮に、「ネオ老後」と名付けておきましょう。

資本主義も民主主義も危うくなり始めている中で、どういう未来を描いていけばいいのか、と悩んでしまいます。

そこで思いついたのが社会の中で溶けるようにして、生涯を閉じることができればたぶん理想的なのではないか、と思うのです。普通っぽい感じのことを言ってる気がしますけど、これができてる人って今すごく少ないんじゃない?実はこれって、かなり難しいことなんじゃない?

いわゆる「普通」の人でもかなり難しいと思うし、自分のようなクローズドなセクシュアル・マイノリティである人間にとっては、どうしたらうまくやっていけるのかというのが、めちゃくちゃ課題。

それでも、ネオ老後に老害化せず、幸せに暮らしていくためには、結局は周囲とのコミュニケーションを諦めないことが、とっても大切なんじゃないかな?と思うんです。


ネオ老後世代の無理ゲー攻略法を考える

さて、テキトーなお題目をドンと言ってみたわりには事実無根、言いたいだけの話をしていくわけですが、どうやって周囲に溶け込んでいくのか?ということを考えていかなければなりません。

無理ゲーだと思うんですけど、いちおうちょっとだけ真面目に考えました。

条件1:無害な人間であること

周囲に溶け込んで生活するためには、無害であることが必要かなと思います。とりあえず、放っておいても何も起きない。迷惑もかけないし、干渉もしない。

でもそれだけだと孤立しちゃいます。だって無害なら何もする必要ないですからね。無害なだけでは、社会とつながらない。

ルールはちゃんと守っていて、生活しているような感じがある。挨拶をすればそれなりに返してくる。子どもが話しかけても適切に対応できる。うわっ、すごい。人格者か。

とりあえず無害感はあるかなと。害がなければ生きてても死んでても関係ないですから、何かしら関係することが求められるのです。

それも、良い方向に。

条件2:他人にとって役にたつ部分がある

さらに条件を追加すると、他人にとって何かしら「役にたつ」部分があることが必要かなと思います。前提条件は無害で、その上に成り立つ、有用であるという性質。

ここで「役にたつ」というのは、ネオ老後世代にとっては「資産がある」だけでは全く効果がなくなってる可能性があります。歪な資本主義経済が破綻した先は何が起きるのか、ちょっと想像できないところがあります。

この「役にたつ」というのは、「知恵がある」「技術がある」とかそういう感じのことです。リーダーシップとかの人間的なスキルもここに入るようなイメージ。料理がうまいとか、キノコを見分けられるとか、力が強いとか、手先が器用とか、いろんな話ができる、人を笑わせられる、とか。

だいぶプリミティブな感じになってますけど、結局最新のテクノロジー進歩に追いつけない可能性があるので、そういう部分で役に立てるということが、アドバンテージになりそうな気がしてます。

逆にいうとそういう部分以外での役にたつ感じは、AIや機械が代替しちゃってるかもしれないなと思ってます。

一人の人間として、コミュニティに貢献できることが「役に立つ」ということなのかもしれません。

貨幣が機能しなくなるとこんな感じになっていくのかな。そんなふうに思ってます。

ここまでの2条件が揃っていれば、とりあえずコミュニティから疎外されずに済みそうな気がします。でも、一つ忘れてはいけないことがあります。誰かの役に立つために、そして他人が自分にとって役に立つようになるためには、対価を支払う必要があります。

コストですね。

条件3:低コストである

資本主義的なコストというよりは、物々交換とかもうちょいプリミティブなイメージのコスト。

すごい働くんだけど常に文句を聞かなければならないとしたら、メンタルと時間のリソースを持っていかれます。それが対価と見合っていれば、我慢するしかないかもしれないこともありますが、いつしか破綻していくように思えませんか?

この辺は経済学的な何かが働きそうな感じですけど、所属しようとするコミュニティから得られる対価と自分が支払うコスト、自分が提供する役務が見合うかどうか、ということを考える必要があるんじゃないかなと。

それでいて、最終的にはコミュニティ内で死を迎えるということになるので、死から逆算していって、できるだけ低コストで役に立ちつつ、最後にかかる莫大なコストをコミュニティでまかなってもらえるようにしておく必要があります。

今の世の中が続く前提であれば、最後に誰かに遺す最低限の資本や、それいぜんにコミュニティへの貢献を通じて遺すもの、教育とか何か色々あると思いますが、そうやって自分のミーム(文化的な遺伝子?)を残していく。それで最期を迎える。

ネオ老後に向けて、今できることは

そのためには、動ける現役のうちに戦略的に種を蒔いておかなければなりません。その種まきはちょっとの努力では難しいです。身近なご近所づきあいなどを付かず離れずでやっていくのです。地域にめちゃくちゃ貢献する必要がある。もうこの時点で、大多数の人にはだいぶハードルが高い気がします。

僕のようなセクシュアル・マイノリティな側にいる、新しい家族を作りにくい人にとっては「無害な他人」「役に立つ他人」であることって、かなりの自己開示と貢献が必要不可欠になりそう。

それをちょっと補えそうな仕組みが、「ソーシャルアパートメント」や「コレクティブハウス」です。そういう試みも始まっていたりします。詳しくは調べて。

最大の敵はおそらく「自我」である

しかし上で書いたようなことを達成するには、いくつものハードルがあります。他者からの認知もそうですが、おそらくいちばんはじめに越えなければいけないものは、自我です。

ここで自我と言ったのは、他人から自分がどう思われたいのか。ということです。この文章をつづっているときの自分だって、よく思われたいと思ってやっていますよ。同時にこんな文章を書いてどうなるんだ、とも思っています。

支離滅裂でも自分自身の考え方をアウトプットすることは意味があるなと思ったので書いているのですが、やっぱり端々に自我が出てきますね。何を表現するかということは一つの自己開示の形ですが、かなり編集された自己開示だなと思います。

現実の周囲の人に、この自己開示をいかにうまく進めるか。他人がどう思うのか考えちゃいますよね。自分のことは受け入れられるのだろうか、という不安を抱えている人はたくさんいると思います。自分もいつもそうです。

ただ、全部を受け入れてもらう必要はないです。自分と同じように、相手にもキャパがありますからね。キャパを超えると脱線したり決壊したりするんです。等身大の自分ってこんなもの、というイメージをまずは持つのがいいのかなと思います。その上で、こんなもんだから、こういう風に生きられると楽になるかも。と考えていって、楽でないことはやめていく。

働くのが辛いというひともたくさんいるかもしれません。でも、食っていくためのことはやめてはいけない。食べないと生きていけないから。それが安定したら、もう少し先を見て、将来も楽になるかもしれないことをやる。毎日考えてることは同じではないし、生きているといろんなことがあって、その自我の修正が入ります。そういうもんじゃないですか?

その楽になるかもしれないことも、毎日違ってもいいと思うんですよね。だって、昨日食べたもので体の中の構成要素って部分的に変わってるかもしれないですからね。

あと、他人の情報に触れすぎる、憧れすぎるとかもちょっと考えた方がいいかもしれませんね。インターネット上でいろんな人の人生が見えたりしますけど、それはあくまで一部の切り取りだし、自分の見たい情報がどんどん入ってきて、そっちに思考が偏ってしまったりしますから。

まずは自分の自我と向き合って、スタンスを固めてから情報と相対するようにするのがいいんじゃないかと思います。


まとまらないまとめ

というわけで、自らをネオ老後世代として、社会に溶け込んで最期を迎えるにはどうしたらいいのかということを考えてみたんですけど、実はこれ何回か書き直しました。自分が何言ってるかわからなかったから。でもそこが自分のいいところでもある。てへ。

結局、周囲とのリアルなつながりを作って保っていくことしかないのかなって、コミュニケーションを諦めずにしていくしかないのかな、って思います。できるだけ、多様な種類の人たちと。清濁合わせて。

次は、もうちょっと自分の状況に寄せた話を書こうと思います。それではまた。

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