第19節 胡蝶の夢2020
また、あの夢だ――。
ジジジジジジジジと虫けらが鳴きわめく。
ジリジリジリジリと太ようが照りつける。
タラタラタラタラと汗が流れおちる。
タタタタタタタタと俺が走りまわる。
ブォーンと鳴っているのは扇風機? いや、違う。
ブォーンと鳴っているのは戦闘機。ああ、違う。
まだ見たことがないはずの過去の記憶、思い出し気づく。これは夢だ。
俺はもうガキじゃない。
目が覚めるとブォーンという空調の音が、現実に残ったまま、まだ聞こえてた。
起き上がった俺の首を背を腹を額を、重力を浴びた汗が流れ落ちてく。滝のような汗なんて言うにはゆっくりと、ただ普通に汗なんて言うにはたっぷりと。
最近いつもあの頃の夢を見る。ガキの頃の記憶、夏の日々の追憶。
きっとこのうだるような暑さのせいだろう。予報では今日は最高三十六度。本日も相変わらず猛暑日のようだ……、十二月八日。
あの頃の夏は今じゃ一年中。クリスマス、年末、年始まで顔を出す。雪はもう何年も本物は見れちゃいない。そもそも天然の空気すら吸えちゃいない。
和暦も西暦も今じゃ旧暦。……過去の遺物、もうたくさんだ。
世界が抱える問題の解決の、最も簡単な方法はただ一つ。
人口の削減と誰もがわかってた。無理のある作戦と誰もがわかってた。
だがしかし図らずも人口は減った。戦争という名の人災の恩恵だ。
人道も人口も吹き飛ばした兵器。まず爆発したのは都市じゃなく数値。それはコンピューターを狂わせた兵士。つまりそう、ウイルスだ。
電子化の波は戦争に波及、火器も核もバイオさえも時代遅れだ。新時代の戦争は電波で伝播。オート化さ。人殺しも……。
人口の削減は図らずも成った。いくつもの国境がうやむやになった。環境を汚染する工場も減った。だが、どうだ? このザマだ……。
当時から俺は技術職。言われるがまま国の犬。あの頃いたのはホスピタル。
俺が請け負うのは改竄だ。ただし記録じゃない、記憶のな。
不都合な記憶のある奴ら。不幸だが記憶を削除。幸福な記憶で埋め合わせ。
一昨年、ニュースになっただろ? 国が秘密裏にやっていた、記憶をいじくる実験だ。被験者はもちろん覚えてない。だが国民の百人に一人。
そのホスピタルに俺もいた。実験はもう終わってた。言っただろ、俺がしてたのは、改竄だ。実用化してたのさ。
今は国の依頼で開発者。戦争技術の開拓だ。もちろんウイルス開発だ。
今やどこの国も焦ってる。アナログに戻れず怯えてる。それでも必死に足掻いてる。
その裏で俺は作ってる。実験室で日々培養。バイオ兵器、コロナウイルス。
久しぶりの息抜きに映画を見た。
映画も漫画も音楽も、娯楽自体が健在だ。テレビもスマホも絶滅したが、ミッキーもピカチュウも不死身らしい。今の子もネズミは知っている。時々どこにいると訊かれてる、大人たちが困って言っている。方便がまた娯楽になってく。いつの時代も変わらない。
日常にヒト以外の動物はいない。金持ちの道楽に僅かに残るばかり。それ以外の動物は建物の外に。蚊に刺されないし、ゴキブリも見ない。セミの鳴き声も今やフィクションで、そうでなきゃ、夢の中だ。そう。
また、あの夢だ――。
ジジジジジジジジと虫けらが鳴きわめく。
ジリジリジリジリと太ようが照りつける。
タラタラタラタラと汗が流れおちる。
タタタタタタタタと俺が走りまわる。
ピキッと痛むのはぶつけた? いや、違う。
ピキッと痛むのはヘルニア。ああ、違う。
まだ感じたことがないはずの今の記憶、思い出し気づく。これは夢だ。
俺はもうガキじゃない。
マスコミの友人に呼び出され出向く。
下世話なやつの新作に違いない。アイドルの情事から政治家の汚職、人殺しの現場からアーティストの不倫。ゴシップが売れるのは今も変わらず。
手にしたネタが日の目を浴びるのを待てず、ヤツはたまらず俺をいつも呼び出す。ネタ自体に大した興味はないが、こんな世界で生きてきたからこそ……、信頼が、嬉しい。
予想通り興奮したヤツは俺を通す。誰も邪魔はいない、二人だけの場所に。
「面白いものを手に入れたんだ。映像自体は大したもんじゃないが。一昨年のニュースを覚えてるか? あの、記憶操作の人体実験の」
無言で頷いた俺にヤツは見せる。
人体実験に使われた記録。被験者の記憶を作るための記録。
それは誰の記憶でもないただの記録、ただ記憶を作るために作られた記録。
この記憶を持つ奴は被験者だとわかる。
再生された――。
ジジジジジジジジと虫けらが泣きわめく。
ジリジリジリジリと太ようが照りつける。
タラタラタラタラと汗が流れ落ちる。
タタタタタタタタと俺が走りまわる。
ドウダと訊くのは兄弟か? いや、違う。
ドウダと訊くのは友達か。ああ、違う。
まだ信じたくないはずの目の前の記録、思い当たり逸らす。これは夢だ。
俺は。オレは、俺じゃない……?
俺は……。
俺は……。
俺は……?
*
ガバっと起き上がる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
また、あの夢だ――。
部屋の中は適度に冷房が効いているというのに、汗びっしょりだ。
辺りを見回す。白い壁、萌黄色のカーテン、畳に文机……、もう見慣れた景色だ。
――俺は……――
「マシュさん。大丈夫ですか? なんかすごく、うなされてましたけど……。」
「あっ、ああ、はい。だっ、大丈夫です。とても、怖い夢を見てしまって……」
「またですか。とりあえず、今、お茶入れて来ますね。冷房は、温度下げましょうか?」
「いえ。温度は、大丈夫です」
「わかりました。タオルも出しますから、ちょっと待ってて下さいね。」
「はい。ありがとう、ございます……」
もう、現実の感覚が完全に戻って来ていた。はっきりとした、現実の感覚が。
でも、まだ夢の中の感情が焼きついている。ぼんやりとした、でも、鮮烈な感覚が。
――俺は……――
信じていた記憶が、本当の記憶じゃなかった。
それで、とても恐ろしい気持ちになった。
――俺は誰だ?――
そんな夢だった。
夢、だったはずだけど。
夢の中のわたしは、完全に俺だった。
それに、こんなにも夢の中の“俺”の感覚が、今のわたしにもこびりついてなくならない。
わたしは……?
わたしは、マシュ・キリエライト。
いや、マシュ・キリエライトとしての記憶はないけれど、わたしの姿かたちも、残っている記憶も、わたしがマシュ・キリエライトであるという記録を裏付けている。
だから、最初は半信半疑だったけれど、少しずつ、そう信じていって……。気づけば、今ではほとんど疑っていなかった。
でも、いまだに記憶は戻っていなくて。一つも、マシュ・キリエライトとしての記憶は覚えていなくて。
マシュ・キリエライトとして生きる感覚には何の違和感もなかったけれど、夢の中で俺として生きる感覚にも何の違和感もなかった。
じゃあ、今は……?
じゃあ、わたしは……?
わたしは……?
――俺は……――
「マシュ……さん?」
「はっ、はい!」
「本当に、大丈夫ですか?」
「……あの」
「……。」
「今、見た、夢の話を、してもいいでしょうか……?」
「……はい。聴かせて下さい。ちょうど訊こうと思ってたんです。あっ、でも待って下さい。その前に、トイレに行って来てもいいですか。その間に、しっかり汗を拭いておいて貰えるとありがたいです。」
「……、はい。ありがとうございます」
そう言って直輝を見送ったマシュは、彼の言葉に小さな気遣いを感じて、少しだけ心が軽くなっていた。
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THA BLUE HERB様をはじめ、多くの皆様へ敬意を込めて――。
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